寺田屋

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寺田屋敷地売却の記録ー明治3年ー

デジタルアーカイブはありがたい近年は歴史記録類のデジタルアーカイブ化が進んでいます。京都府立京都学・歴彩館でも「京の記憶アーカイブ」という名前で公開され、誰でもアクセスできるようになっています。寺田屋で検索してみると、重要文化財指定をうけた...
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続々・寺田屋考(6)ー建物の変遷を考えるー

A 上田維暁『日本名所圖絵』1888年国会図書館デジタルコレクションより明治21年刊行の『日本名所圖絵』の挿絵Aをよく見ると現在の建物とは違った点がいくつもあります。そこで、現在残されている過去の寺田屋建物写真の内容をもとに編年をこころみて...
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続々・寺田屋考(5)ー薩摩藩より拝領の大黒柱ー

明治44年7月発行の俳誌「懸葵」現在、寺田屋内部に「天保年間改築の際 島津家より贈られたる大黒柱」と貼り紙のある大きな柱が母屋を支えています。これが事実であるなら、現寺田屋建物には紛れもなく幕末当時の建材が利用されていることを示します。さて...
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続々・寺田屋考(4)ーお風呂の問題ー

復興を急いだ根拠として風呂棟の新築を論じる中村氏は「なぜ復興を急いだのか?」という章(182P~186P)で、江崎から伊助に土地が譲渡されたのが、明治38年5月で、1年後には再興しているのを「あまりにあわただしかった」として、復興を急いだと...
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続々・寺田屋考(3)ー旧建物部材使用の可能性ー

『京都維新史蹟』(昭和3年)寺田屋写真のキャプションは誰が書いたか昭和3年に「京都市教育会」が刊行した『京都維新史蹟』という写真帳(現在、国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービスで閲覧可能)には写真家中川忠三郎が大正期に撮影した...
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続々・寺田屋考(2)ー再興までの寺田屋ー

中村氏は寺田屋再興まで、伊助一家がどうしていたか、寺田屋敷地がどうなっていたかについては推測を述べられるますが、根拠がありません。(168P~169P)。「寺田屋」屋号は使い続けられたさて、明治13年に寺田伊助が転出した理由は明治10年に鉄...
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龍馬が逃げ込んだ材木小屋の輪郭

慶応2年正月23日薩長同盟を成立させた龍馬は寺田屋に帰って三吉慎蔵と合流した直後に奉行所の取り方に襲わました。命からがら脱出した龍馬は刀傷がひどく出血多量で瀕死の状態となり動けなくなりました。三吉は材木小屋に龍馬を避難させた上で、薩摩伏見藩...
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続・寺田屋考(7) ー慶応4年3月に営業ー

先に寺田屋が明治元年9月19日には営業していたことを示す仁礼景範日記を紹介いただいたSNSつながりの方から、ふたたび慶応4年3月15日に営業していたことを示す史料をご紹介いただきました。感謝です。信州下諏訪社の神官であった井出日向守宣長の上...
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続・寺田屋考(6)寺田屋の展示品2

寺田屋来訪者の書寺田屋には現在、先に紹介した樺山資紀のもの以外に、寺田屋を訪問した有力者の書が扁額として飾られています。「天楽多家 乙巳秋日為 寺田氏 正二位通禧書」(写真1)写真1 天楽多家 乙巳秋日為 寺田氏 正二位通禧書写真2 190...
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続・寺田屋考(5)寺田屋の展示品1

樺山資紀の扁額現在、寺田屋内部には書画の展示物が多くありますが、その中に寺田屋を訪れた有力者が認めた書が扁額として複数掲げられています。そのうち樺山資紀のもの(写真1)を考えます。樺山資紀(1837/12/9~1922/2/8)は元薩摩藩士...