寺田屋敷地売却の記録ー明治3年ー

デジタルアーカイブはありがたい

近年は歴史記録類のデジタルアーカイブ化が進んでいます。
京都府立京都学・歴彩館でも「京の記憶アーカイブ」という名前で公開され、誰でもアクセスできるようになっています。
寺田屋で検索してみると、重要文化財指定をうけた「京都府行政文書」の中に明治初期の資料を発見することができました。
「跡式附替留 伏水之部」とタイトルのついた簿冊(簿冊番号:明03-0022-001、簿冊名 跡式附替留 伏水之部、作成完結年次(年号) 明治04年度、作成課 伏見出張所)です。
天保年間に。従来自治を担う町内でおこなわれてきた習慣は奉行所によって統一され、相続関係の届出についても統一された。相続財産や家督について異動があった場合は町年寄が確認して決まった書式で奉行所に届出ることになっていました。そして、維新後はその習慣に則って町年寄が確認したものを、1ケ月ごとに取りまとめて京都府伏見出張所に提出されるようになり、その記録と思われます。この経緯については『御大礼記念京都府伏見町誌』(伏見町 1929年)281頁の「第七節 町内習慣」に解説があります。
明治3年10月4日付けの簿冊に「六番組南浜町寺田屋伊助明屋敷1ヶ所の件」として数行の記載があります。
アーカイブでは画像もみることができます。ただし、このページは簿冊の”のど”の部分ぎりぎりにまで書き込みがされていて、公開されている画像では十分に確認できなかったので、実際に現物を見に歴彩館まで出向き、撮影させてもらいました。

明治3年に寺田屋は廃業していた???

内容をみると越川屋亀吉という人物が寺田屋伊助から南浜の明屋敷を買い入れて所持しているという内容で、これを息子に譲るつもりであるとして連名で届けでたものです。
だとすると、寺田屋はこの時に廃業していたのでしょうか???
幕末寺田屋は現在、薩藩九烈士の顕彰銅碑が建っている南浜町262番地にありました。ここが売却されたのでしょうか?
結論をいえば、それは間違いです。史料には「壱ケ所」と明記してあります。実は、寺田屋は南浜には現在の寺田屋がある263番地も所有していました。このことについてはすでに別ブログで書いています。
それに、寺田屋は明治23年まで営業を続けていたことが、これまた自宅で見られるデジタルアーカイブの国会図書館デジタルコレクションで確認できる『諸国道中記』(甲斐山久三郎 1890年)の40コマ目で確認できます。また、別ブログで紹介したように慶応年間のうちにはすでに営業を再開していたことを証明する日記史料があります。
つまり、寺田屋は寺田伊助が明治13年に転出して以後も少なくとも、明治23年まで寺田屋という屋号で経営がつづいていたことを示します。

明治20年前後の寺田屋建物を描いた精密風景画

注目すべきは但し書きです。「明屋敷」という用語には現代でいう空き家と空き地、両方の意味があります。しかし、但し書きに家を建てる予定があると書いていますので、家の無い状態、すなわち空き地であったことがわかります。
では、少なくとも明治23年頃まで営業していた寺田屋はどこで営業していたのでしょうか?
鳥羽・伏見の戦いで寺田屋は完全に焼け残っていて、そこで営業が続けられていたのでしょうか?
それを解明するのが明治20年前後の寺田屋建物を描いた精密風景画です。上田維暁が出版した日本でもっとも早く出版された旅行案内である『日本名所図絵 : 内国旅行巻之1 (五畿内之部) 』に掲載されています。淀川を運行する蒸気船の船着き場が描かれた風景画で、銅版で印刷されています。
この本が出版されたのは明治21年で、明治20年に現寺田屋建物の敷地には淀川汽船本社が登記されているので、この図にみる寺田屋の建物は現寺田屋建物に他なりません。完全に船宿の形態で描かれているので、越川屋が寺田屋伊助所有地を買い入れた明治3年に船宿営業していた建物はこの建物、つまり現寺田屋建物と考えるのが妥当です。
確実に鳥羽・伏見の戦いの後、明治3年までには寺田屋は西隣敷地に再建されていましたことが証明されます。
明治改元前後の営業記録からみて、この営業もこの再建建物でおこなわれていたと考えるのが妥当です。東隣の敷地263番は越川屋に売却されていたのです。

越川屋亀吉とは何者

越川屋亀吉は国会図書館デジタルコレクションで検索すると、近世交通史研究の藤村潤一郎氏による「六九 伏見通口額頭仲間名印鑑」(「翻刻飛脚関係摺物史料(二)」国文学研究資料館史料館『史料館研究紀要』17号 1985年)に名前が掲載されています。嘉永7年の史料で、家持ではなく、南組塩屋町醍醐屋八兵衛店に所属する日雇頭とあります。塩屋町は南浜町と車町の東に隣接する町である。越川屋はいまだ家持ではないので、屋敷を手に入れたいと思う必然性はあったでしょう。
しかし、越川屋が寺田屋敷地を手に入れた数ヶ月後、明治4年3月には郵便制度が開始され、幕府からの特権付与も失った飛脚業者の前途は暗雲に閉ざされてしまいます。結局、越川屋は、ここに家を建てることなく手放すことになったではないでしょうか。明治二十六年に江崎権兵衛がこの土地を買ったのは大阪の増岡重太郎から買収していて、越川屋の名前はでてきません。
以上から、越川屋に元の寺田屋建物敷地を売却した上は、西側隣地で寺田屋は営業していなくてはなりません。こうして、売却時点では262番地は空地、263番地は現寺田屋建物で営業がされていたことが確定します。
寺田屋は別項でのべた用に慶応四年の三月十五日には営業しているので、すでにその時に現建物が旧建物の部材を利用して再建されていなければならなかったでしょう。

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