桂久武「上京日記」の中には「伏見の兼春」という薩摩藩御用達の宿屋の名前が出てきます。
慶応元年十二月十八日
大坂から伏見に到着した久武一行が旅装を解いたのが「兼春」です。活字版の方では「兼有市之丞」となっていますが、謄写版の方では「兼重(春)吉之丞」、となっています。
慶応二年正月元日
小松家・大久保・吉井・内田・奈良原・海江田と同伴で石清水八幡宮を初詣したあと伏見兼春に立ち寄って休憩し、そこからバラバラに帰ったようです。それぞれ、別々に遊びにいったり、挨拶に出向くところがあったのでしょう。
慶応二年正月二十四日
昼から、昨晩に兼春に泊まっていたという「松」というものがやってきて面会をしています。この部分はなんの説明もなくいきなり「松さん」がでてきます。
兼春について調べてみたところ江戸中期の安永九(1772)年発行の伏見ガイドブック『新彫伏見鑑』(『新撰京都叢書』 第 5 巻65頁)に、豊臣秀吉が城下町を建設したときに関鍛冶が移住したきたことが書かれています。その数は少なくなったとして、兼春市之丞を含めて三名の名前が記されています。それ以前、宝暦四(1754)年発行『京羽二重折留大全』(『新修 京都叢書』2巻551頁)には十名の名前が記されています。たしかに時代とともに少なくなったのでしょう。兼春市之丞の住所についてはいずれも「下板橋二丁目」との記載があります。
上京日記では一貫して、宿泊先としてでてくるので、幕末当時は鍛冶ではなく、宿泊業を営んでおり、薩摩藩の御用達であったと思われます。また、兼春市之丞というのが正しく、この名前は世襲されていた可能性が高いと思います。活字版の「兼有」というのも、謄写版の「吉之丞」も誤翻刻の可能性が高いと思います。自筆原本をみればわかるのでしょうか。
さて、ガイドブックにのっていた下板橋二丁目というのは現在の京都市立板橋小学校の敷地で、尾張伏見藩邸があったところと紹介されています。屋敷が明治五年に転用されて伏見第一小学校になりました。ということは尾張藩邸と兼春は同じ住所地で隣接していたことになります。
図①は大正十一年の京都市都市計画図です。図の中に先年、城南宮で見つかった薩摩伏見藩邸の輪郭をアバウトにいれました。その東側を流れる濠川(かつての伏見城の外堀を利用した人口運河)の東岸に広がる現在の下板橋町(薄ピンクで囲った範囲)のなかに「板橋二丁目」(右傍線)と表記されています。下板橋というのは濠川(伏見城外堀)に東西に架かる橋の名前で、ここをとおる東西通を下板橋通といいます。上板橋は下板橋より上流に架かっています。
そこから町名の由来を考えると、二丁目というのは下板橋から二丁目の部分を占める町という意味でしょう。そこには町家が通りを挟む両側町として並んでいます。西側に隣接するやはり両側町の御駕籠町の町域は下板橋にまではいたらず、下板橋から東半丁分の北側、下板橋住宅団地がある敷地は現在下板橋町域に相当していて、その一番南に東西にD棟が立って居います。江戸時代の元禄年間とされる古地図でもここは藩邸に含まれておらず、町家区域と明示されています。
次に兼春と濠川との位置関係ですが、大塚武松編『薩藩出軍戦状』二巻(日本史籍協会 昭和八年)の「薩藩隊長伊藤祐德手記」(451頁)に
「同年<明治元年>十一月廿一日京都宿營藤の棚出發伏見兼春方へ著陣同所より川舟乘組大坂東橫堀瓦町壹丁目鐵屋庄左衞門(藩の銀主)方へ七時到著致し候」
とでています。
これは戊辰戦争の会津攻略戦にも加わった番兵一番隊(総勢九十六名)の隊長伊藤祐德の手記で、十一月に京都に凱旋し、二十一日に京都円山の藤の棚宿営地から伏見兼春方に移動し、そこから川舟を使って下坂し、さらに薩摩に帰国したことを報告したものです。京都からは徒歩で伏見兼春に向かい、そこで暫時休憩して川舟を使って一気に大坂まで下りました。百名近くの隊員を川船に乗せるにはそれなりの船溜がないと難しいと思われます。
図②明治25年仮製地図
それを地図上で探すと、図①大正十一年京都市都市計画図の地図上に破線円で示した船溜が精密に描かれています。上京日記で桂久武は夜に大坂から船で兼春に着いたと書いています。まっくらな中を伏見市街をそれなりの人数で移動するとは考えにくいので、この船溜から直接、兼春に入ることができたと考えると合理的です。
結果として、兼春の場所と尾張藩邸の範囲を図①のように想定してみたわけです。
- 下板橋二丁目の中心は下板橋通りから二丁目に所在する町家群でしょう。
- その北側、秀吉の時代の地図『豊公伏見城ノ図』では「淖(ぬかるみ)」と、その北側の丹波橋の地名の由来となった「桑山丹波守」の屋敷があった場所が尾張藩邸になっているようです。 「淖(ぬかるみ)」の部分が現板橋小学校と伏見中学校グラウンド、「桑山丹波守」屋敷部分が、現スーパー万代およびスーパーハッピーテラダになります。下板橋住宅の部分は古田織部屋敷でした。図②の明治二十五年の仮製地図をみると尾張藩屋敷の大部分に茶畑の印がついています。
- 兼春については、容易にアクセスできる船溜が必要ですので、濠川側の一番南側の敷地に兼春の建物を想定し、北側の空地をとおって船溜にアクセスできるものと想定しました。図②明治二十五年の仮製地図では前述した現在の下板橋住宅のD棟が建っている場所に建物が確認できますが、その北側はやはり旧尾張藩邸内と同様に茶畑のマークがあり、中に◎の紀伊郡役所を示す記号があります。この時点では、もうすでに屋敷は小学校にも転用され、郡役所もここにおかれたということでしょう。旧藩邸は学校や役所に転用される例が多く、ここもご多分に漏れません。
今のところ、兼春は薩摩藩伏見藩邸の濠川を挟んで東側向かいに船溜をそなえた船宿として営業しており、薩摩藩御用達の宿であったことがわかります。
さて、このように兼春の位置がわかると上京日記③で兼春に宿泊していた「松」とは何を話したのでしょう。そう、もうおわかりですね。この日の早朝に龍馬は兼春の向かいの薩摩藩邸に運び込まれています。おそらく兼春の船溜が使われたことでしょう。久武はその時の詳しい様子を松から聞きとったと考えられます。
この日の午前中に二本松藩邸に向かった久武は吉井のところに小松がいるのをみて、そこで龍馬遭難の話しを聞いています。その後、執務場所には行かずに御用なしとして帰宅しています。藩邸内は龍馬遭難でドタバタしていたのでしょう。西郷は自分が行くと激高しています。久光名代の久武は、自分の立場を配慮して、西郷からは距離をおくように帰宅したのではないでしょうか。ここで西郷に会って事態に巻き込まれてしまうわけには行かなかったのでしょう。しかし、詳しい事情を知りたいし関心はあります。そこに「松」が登場するわけです。日記は記録ですから、松の訪問は龍馬の件とは関係させず、淡々と記録したと考えられます。
※「薩藩隊長伊藤祐德手記」の中に兼春の記事がでていることを見つけられたのは、大山格氏が主宰しておられる「晴海文庫」というサイトにデジタルデータとして公開されていたおかげです。ダメ元でググってみたところヒットし、国会図書館デジタルライブラリーで底本も確認できたという次第です。あらためて、「晴海文庫」に感謝いたします。
コメント
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