続々・寺田屋考(3)ー旧建物部材使用の可能性ー

『京都維新史蹟』(昭和3年)寺田屋写真のキャプションは誰が書いたか

昭和3年に「京都市教育会」が刊行した『京都維新史蹟』という写真帳(現在、国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービスで閲覧可能)には写真家中川忠三郎が大正期に撮影した当時の維新史蹟の写真が多数使われている。そのことは「緒言」の冒頭に明記されています。また、「緒言」末尾には「本書の編纂には、かねてより維新史蹟の顕彰に熟心なる寺井萬次郎氏が本會の為に多大の援助をなし。史蹟の探訪、史実の説明等奔走盡瘁(盡瘁:倒れるほど力を尽くすこと)されたる處多大なり」と書かれています。

史蹟の探訪、史実の説明を担当した寺井萬次郎氏は1970年に開館した霊山歴史館にも出入りし、70代半ばではあったが、当時学芸員であった前副館長木村幸比古氏とともに維新史蹟の現状調査にも出かけられました(木村幸比古氏教示)。木村氏によると中川忠三郎を維新史蹟撮影に勧誘したのは寺井萬次郎氏だったといいます。

中村武生氏の『京都の江戸時代をあるく』でも「寺田屋伝説の虚実」の前のテーマ「幕末史蹟の謎」で寺井萬次郎氏のことが詳しくふれられています。さすが、自ら建碑活動をされている中村氏です。

中村氏の見解などもあわせると、『京都維新史蹟』を実質的に取りまとめたのは寺井萬次郎その人で、写真のキャプションは「緒言」にいう「史実の説明」にあたると思われるので、寺田屋の写真キャプションも寺井氏のものだと判断できます。

寺井萬次郎は実際に現場を訪れて証言を得ている可能性が高い

木村氏の話によると寺井氏は晩年期の菊屋峰吉とともに維新史蹟の確認にまわった経歴があり、リーガロイヤルホテル敷地が新撰組不動堂村屯所だったというのも峰吉自身が寺井氏に証言した内容だったそうです。したがって、寺井氏の「史実の説明」は軽視することはできません。

中村氏の寺田屋キャプション「現今の建物は旧宅の木材を以て縮小せるものといふ」を取り上げています(172P~173P)。中村氏はこれを「歴史研究の方法を無視した解釈」とされます。しかし、前述のように寺井氏は実際に現地を訪問し、証言を集める歴史学として基本的な手法を踏まえています。中村氏はどのように歴史研究の方法を無視しているとされるのでしょうか?

寺田屋にある薩摩藩から贈られたとされる大黒柱

まず、キャプションの内容に入る前に現在の寺田屋内部には天保年間(なぜか中村氏は江戸後期と書いておられますが、実際は天保と書いてあります)に薩摩藩からもらったものという貼り紙があることを問題にされます。自分が出入りしていた頃(1980年ごろ)にはこんな貼り紙はなく、またこのことを裏付ける文献も存在しないとされます。また、寺田屋は伊助の妻ハナ以降は寺田家は関わりがなくなったので伝承されている可能性も少ないとします。

つまり、張り紙は14代目伊助を僭称している安達清氏によるもので、彼は寺田家とは縁もゆかりもないので伝承を受け継いでいるはずがないということです。しかし、伝承というのは血縁関係だけで行われるものではなく、リーガロイヤルホテル敷地が不動堂村屯所であったという証言も当事者の菊屋峰吉から寺井萬次郎氏が聞きとり、その内容が木村幸比古氏に「伝承」されたわけです。もちろん、それだけで史実とするわけにはいきませんが、西本願寺から決定的な資料がでて、この伝承が真実であったことが証明されました。1976年の安達清氏のインタビュー記事をみると安達氏は史蹟として寺田屋を残したいという情熱から、さまざま伝承を掘り起こされていた可能性もあることを考える可能性があります。

また、天保年間は調所広郷による藩政改革が進められていて、後年に調所の功績を書き上げた史料もあります。その中で、伏見藩邸の濠川を挟んだ向かい側にあった兼春は桂久武上京日記にも登場している薩摩藩が常用していた旅館ですが、ここの修理を援助したことが記されています。寺田屋も薩摩藩の常用船宿でしたので、同じく天保年間に大黒柱の贈与を受けた蓋然性は高いと思います。もちろん、鳥羽・伏見の戦いで完全消失していれば残るはずはないのですが、旧建物の部材を利用していたとすれば、この張り紙は真実性をもっている可能性があります。

歴史学的に考えれば、この柱が張り紙通りの由緒をもったものであるかどうかについては、現時点では判断できないとするのが妥当ということになると思います。詳細な建物調査を実施し、その結果をみればある程度の判断ができるかも知れません。のちのちの先入観を排するためにもわかることはわかる、わからないことはわからないとしておくのが正しい歴史学の方法です。

寺田屋写真キャプションについて

旧部材使用というキャプションの内容については、再興時に伊助が書いた『見聞遺事(申立書)』にはそのような事実を書き漏らすとは考えにくいという理由で、歴史学の方法上誤伝と判断されます。

しかし、再興時の伊助にとっては慶応年間のうちに亡き母が船宿として再建したものであることは自分も含めて周知のことですから、あらためて書く必然性はなかった可能性が高いと思います。それよりも寺田屋と坂本龍馬をはじめとする志士とのつながりがいかに深かったということの方が大事です。その深い関わりを証拠だてる墨蹟もたくさんあったが、残念ながら焼失してしまったということを書くのが目的で、ないからこそ詳しく記憶のかぎり関わりを証明するエピソードを申し立てる必要があったのでしょう。再興後に藤田家の龍馬ゆかりの鍔を手に入れたのもそういう理由です。

伊助が部材利用したという重要なことを書き漏らすはずがないというのは単なる思い込みにすぎません。現建物が再建か、旧部材を利用していたかというのは現代人の問題意識で、伊助がそのような問題意識をもっていたはずというのは、あらためて考証するという手続きが必要です。単純に現代の価値観で過去を評価するという歴史学上やってはいけない手法です。


中村氏がここでいう「歴史学の方法」というのは「史料批判」のことと思われます。これについてはいろいろな説明の仕方がありますが、少なくとも言えるのは複数かつ多様な観点から史料を吟味する必要があるということです。

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