続・寺田屋考(5)寺田屋の展示品1

樺山資紀の扁額

写真1 樺山資紀の扁額

現在、寺田屋内部には書画の展示物が多くありますが、その中に寺田屋を訪れた有力者が認めた書が扁額として複数掲げられています。そのうち樺山資紀のもの(写真1)を考えます。

樺山資紀(1837/12/9~1922/2/8)は元薩摩藩士で、海軍大将、政治家として活躍した人物です。実兄の橋口伝蔵が寺田屋騒動の九烈士の一人です。

「至誠 観先輩故有馬 新七沼乃(ぬし)箴有感 書為寺田伊助 明治三十年 夏日 華山」
「至誠 観、先輩の故有馬新七本人の箴(いましめ)と感じる。寺田伊助の為に書く。明治30年 夏日 樺山資紀」

翻刻は専門家にお願いし、意味は筆者がとりました。樺山が伊助所蔵の有馬新七墨跡を証明したものです。
経営難の寺田屋が質にいれていた所蔵品で、樺山らが請け出して大正6年に京都府に寄贈したものの中に別文書、同日付の樺山の同じく証明書があります。おそらく樺山自身が2つ書いてみて、良い方を正本として所蔵品に加えたという事情でしょう。今、展示されているこちらはそのまま寺田屋に残された証明書でしょう。
明治30年というと、皇后の瑞夢をきっかけに寺田屋が再興する明治39年5月のはるか以前です。寺田伊助と樺山はかなり前から接触があったことになります。先にも触れたように樺山は寺田屋遺品が質に入っているのを大正4年に請け出し、大正6年に京都府に寄贈しています。
そして、ここに明治30年の樺山が伊助に与えた証明書があります。樺山は一貫して寺田屋に関心を持ち続けて関わってきたと言えます。

写真2 1893/5/6東京朝日新聞

気になる短い新聞記事があります(写真2)。九烈士銅碑を江崎権兵衛が建てたのは明治27年です。その前年からこの年にかけて、前にも書いたように江崎は寺田屋敷地を購入しています。銅碑がたつ南濱262番地の買得は明治26年の5月の27日ですが、その直前の5月5日に樺山は九烈士の墓参に伏見を訪問し、その夜は祇園中村屋に泊まっているという新聞記事があります。

憶測をたくましくすれば、この時樺山は伏見の有力者らと面会して、“おとせ”が再建した寺田屋建物が現存していることを知り、その保全を示唆したのではないでしょうか。現時点では非常に日付が近いということと、江崎がこのあと一気に寺田屋敷地保全に向かうことからの憶測ですが、可能性はあると思います。
しかし、皇后の瑞夢から寺田屋再興への過程では樺山は登場しません。瑞夢が新聞に報じられた明治37年4月の翌月の皇后誕生日に萬朝報に「地久節と日本の女性」(写真3)というタイトルで華山名義で寄稿しています。

1904/5/28 萬朝報

そこには瑞夢を「佳話」としつつ「龍馬が九泉の下猶国を憂ふるの忠誠に感ずるよりは、我皇后陛下が夢寐(むび)だにも、猶心を国事に労せられ給ふを感謝するなり」と釘をさすようなことを書いています。どうもあまり龍馬顕彰には乗り気ではなかったようです。

※「夢寐」とは眠っている間に夢をみること

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