続々・寺田屋考(2)ー再興までの寺田屋ー

中村氏は寺田屋再興まで、伊助一家がどうしていたか、寺田屋敷地がどうなっていたかについては推測を述べられるますが、根拠がありません。(168P~169P)。

「寺田屋」屋号は使い続けられた

さて、明治13年に寺田伊助が転出した理由は明治10年に鉄道が開通して営業がなりたたなくなったと中村氏は単純に推測します。そして、「誰が建てたかは知らないけれど、維新後のある時期まで、旧蹟地にも建物は建っていただろう」と推測を述べられます(189P)。ここで、旧蹟地に建物は建っていたと推測しているのは、西村天囚の紀行文に「家の跡を取拂ひて,近き比此に銅碑を建て」とあるからでしょう。そして、個人住宅か旅籠かはわからないが「寺田屋」という屋号はなかったと断定されました。

しかし、拙稿で書いたように少なくとも明治23年までの道中案内には伏見船宿として「寺田屋」の屋号がでてきます。伊助転居後も寺田屋は営業をつづけていたことになります。そして、旧蹟地にどのような建物がたっていたかもわかりました。

決定的なのは明治21年刊行の『日本名所図会』に現寺田屋建物が描かれていることです。ここに挿入された挿絵は蒸気船の発着場になっていたころの寺田屋前浜で、現在の寺田屋建物と同様の建物が描かれており、その東隣の旧蹟地には厨子2階の建物が描かれています。

上田維暁 著 ほか『日本名所図絵 : 内国旅行巻之1 (五畿内之部) 』青木恒三郎 1888年 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1876971 (参照 2023-05-01) 15コマ目

また、伊助転居の10年後、明治23年の道中案内には「寺田屋」の屋号が掲載されています。明治29年西村天囚は九烈士顕彰銅碑の西隣に寺田屋が建つ」と記述しています。この寺田屋は図版に描かれていた建物に他ならないことが自然に理解されるようになりました。寺田屋建物は存在しつづけていたのです。しかも、建物とともに寺田屋という屋号も明治29年の西村訪問時に認知されていたことがわかります。

ついでに言うと、伊助の転居先を大阪と断定していますが、実際は大津でした。義弟荒木英一は日蓮宗大石寺派(現日蓮正宗)の活動家で、寺田屋一家は明治以後に改宗しています。このことは2019年に日蓮正宗寺院から出版された書籍(菅野憲道『忘れられた総講頭ー荒木清勇居士略伝ー』源立寺 2019年)で明らかになりました。伊助の実妹きぬの夫荒木英一が堂島の米相場師として大成功をおさめた存在であることもわかりました。また、日蓮正宗側の資料で伊助が少なくとも明治27年までは大津に居住していたこと、そして明治34年には大阪居住が確認されています。この間に荒木の招きで大阪に転居したのでしょう。

また、伊助の妻ハナの没年と享年もわかりました。大正九年没、享年55歳でした。過去帳は数え年で書くので、享年は満54歳ということになります。ということは生年は1866年ということになり、伊助が転居した明治13年にはまだ数え14歳だったことがわかります。当時としても結婚の最低年齢に相当するので、伊助の転居は結婚に伴うものであったと推測できます。家業の衰退だけが原因とするのは早計です。

寺田屋再興当時の明治39年5月当時は荒木英一の実業が最盛期でした。中村氏は「旧地にもどって寺田屋の営業を再開しようと決めたのは、このネタを活かすなら食っていけるかもしれない」(170P)と思ったとされますが、少なくとも経済的理由ではありません。やはり貴顕の後押しに応え、軍神坂本龍馬縁があるものとして名誉を得たかったのが動機でしょう。

もっとも明治40年になると日露戦後恐慌で相場師だった荒木は一挙に没落し、寺田屋どころではなくなりました。中村氏は伊助と同時に荒木も資料にみえなくなるので同じ頃に死んだとしています(192P)が、荒木の没年は大正12年で、没落後は布教活動家として生きました。

旧蹟地売却資料と推定できる資料がありました

九烈士顕彰銅碑の建つ旧蹟地は西隣の建物再建後、寺田屋の手を離れたようです。それについて、注目すべき史料があります。これは拙論にはまだ触れていません。

その史料とは明治3年10月4日付けで京都府庁に伏見年寄らが提出した「跡式付替留」です。跡式とは相続の対象となる家督や財産のことで、その異動は旧幕時代、必ず奉行所に届けなければならなかったのですが、それが京都府庁に引き継がれていました。

それによると、南浜の寺田伊助所有地を越川屋亀吉というものが買い受けて、貸家を建ててこれを息子に譲るとあります。但し書きがあって、この土地は現在空き地であるけれど、貸家を建てる予定なので貸家と届け出ましたとあります。なお、この資料は中村氏も2016年の講演会で紹介されていますが、何を意味する資料であるかについては言及されていませんでした。

私の考証ではこの時すでに西隣では再建寺田屋が営業していますから、旧蹟地は空いているわけです。南浜の寺田屋の敷地は営業中の寺田屋と、東隣の旧蹟地だけですから、越川屋が買い付けた土地は旧蹟地に他ならないと思われます。

越川屋亀吉は飛脚関係史料によって伏見の「通日雇頭」あることが分かっています(藤村潤一郎「翻刻飛脚関係摺物史料(二) 六九 伏見通日雇頭仲間名印鑑」『史料館研究紀要』国文学研究資料館史料館 1985年9月)。

日雇頭というのは運送に携わる人足を用立てる仕事で、交通の要衝である伏見には多くその業を営むものがいました。しかし、明治4年には官営の郵便事業がはじまり、飛脚業は急速に衰退していきました。明治21年の図版にある厨子二階の町家が亀吉の建てた貸家かも知れませんが、明治27年時点では増岡重太郎の所有になっているので、やはり亀吉は運送業者としては生き残れなかったのかも知れません。

中村氏が「知らないけれど」といった銅碑建築前に立っていた家屋は越川屋が貸家として建築し、その後、大阪の菓子商増岡重太郎が入手して店舗として利用したという憶測はできます。

敷地利用および建物経歴を年表にすると

慶応 4年1月 鳥羽・伏見の戦い
 慶応 4年の内 西隣に寺田屋建物を再建(現建物
 明治 3年ごろ 旧蹟地は空き地で売却され、その後厨子二階の町家が建設
 明治10年   おとせ死没 京都ー大阪に鉄道開通
 明治13年   伊助、大津へ転居 これ以後も船宿寺田屋は存続
 明治20年   寺田屋住所に淀川汽船(社長:江崎権兵衛)本社が登記
 明治21年   『日本名所図絵』刊行 蒸気船乗降場であった寺田屋前浜が描画される
 明治26年   江崎権兵衛が寺田屋敷地全体を買収
 明治27年   厨子二階破却、九烈士顕彰銅碑建立、現寺田屋は顕彰銅碑建碑事務所を兼ねる
 明治29年   朝日新聞記者西村天囚が訪問 其の西に寺田屋は建てけりと記述
 明治35年   淀川汽船解散 九烈士顕彰銅碑の管理事務所として存在
 明治37年5月 皇后の瑞夢を契機に大浦兼武が寺田屋訪問 再興を促す 翌月 荒木が大浦訪問
 明治38年5月 江崎権兵衛から寺田伊助に旧蹟地を除く寺田屋敷地が譲られる
 明治39年5月 寺田屋を志士の記念物を展示する顕彰館および旅館として再興
         再興後、龍馬の鍔を藤田家から譲られる

現建物はおとせが再建以来、ずっと南浜に存在し続けていました。実は伊助もちゃんとそのことを述べています。伊助は寺田屋再興の広告で「旧宅に帰り」と述べているのです。「宅」には敷地の意味はなく身を寄せる建物しか指しません。旧宅は現寺田屋建物をさします。

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