続々・寺田屋考(4)ーお風呂の問題ー

復興を急いだ根拠として風呂棟の新築を論じる

中村氏は「なぜ復興を急いだのか?」という章(182P~186P)で、江崎から伊助に土地が譲渡されたのが、明治38年5月で、1年後には再興しているのを「あまりにあわただしかった」として、復興を急いだと判断し、その理由を考察される。結論は、この年の11月に龍馬の40回忌が盛大に催される予定なのでそこで、寺田屋をアピールしたかったので復興を急いだと結論されます。はたして本当にそうなのでしょうか?

復興を急いでいる状況証拠として、建物登記簿から現在の風呂・便所棟は明治41年に新築されたもので、復興時には風呂はなかったというのをあげられます。旅館に風呂がないのは致命的ではないかもしれないが、こと寺田屋に限ってはお龍のお風呂エピソードで明らかなので、その寺田屋が風呂をもたないのはイレギュラーだとされる。本来は風呂棟を建ててから営業開始をしなければならないのにそれをおして開業しているのが急いでいる根拠にしています。ことのついでにこの風呂は新築なので、お龍がはいったはずは絶対ないともファン向けでしょうが強調されています。それで間違いはありません。

建物の来歴から考えると、この風呂問題はどうなるかというと、慶応年間のうちに西隣に再建された寺田屋にはトイレ棟はあったけれど、風呂棟はなかったということです。明治41年の建物登記簿に記録されているトイレ棟はこの慶応以来のトイレ棟だったということになります。

慶応再建寺田屋になぜ風呂がなかったのかということですが、実はないと断定することはできません。風呂は焚き口を必要とします。なので、火の用心が何よりも肝心なので、風呂は屋外に据え付けられて簡単な屋根と囲いをつけただけの場合もありました。東海道中膝栗毛の小田原宿でのエピソードですが、鉄砲風呂にしかはいったことのない弥次喜多が五右衛門風呂の入り方が分からず、底板を蓋と勘違いして、便所の下駄を履いてはいったところ木枠から釜部分を踏み抜くという滑稽エピソードです。

風呂は屋外に据え付けられていた可能性が高い

東海道中膝栗毛の挿絵

そもそも、寺田屋は船宿で旅館(旅籠)ではありません。寺田屋の風呂も船客用ではなく従業員・家族用の風呂だったと推定できます。船宿の性質上、労働は深夜に及びました。当時としては現在の寺田屋においてある鉄砲風呂か東海道中膝栗毛にでてくる五右衛門風呂の形式であったはずで、火災の心配や排煙のことを考えると屋外か簡単な囲いだけをした半屋外に据えられていたものでしょう。

江戸時代は鉄砲風呂は江戸、上方は五右衛門風呂が主流だといいますから、寺田屋の風呂も五右衛門風呂だった可能性の方が高いかもしれません。鉄砲風呂が全国化したのは明治以降で、昭和にはいるまで使われていたそうです。お龍も五右衛門風呂にはいっていたのでしょう。

風呂が屋外もしくは半屋外に据え付けられていたからこそ、寺田屋をとりまいた捕り方の姿をお龍は入浴中に気づくことができたのです。膝栗毛の挿絵をみても建物本体の外にあります。焚き口の板は煙が入浴者にかからないようにする工夫です。五右衛門風呂は全部鋳鉄でつくられているものを思い浮かべますが、鉄鍋の上に木桶を組んだものもありました。弥次喜多挿絵の風呂はその形式です。

したがって、新築前のトイレ棟に風呂が含まれていなかったとしても不思議ではありません。再興時も再開広告をみると宴会場や貸会場、屋形船遊びに加えて勤王志士の展示館といった趣だったのでいわゆる現代の観光旅館とは異なる営業形態なので必ずしも屋内風呂は必要ありませんでした。しかし、再興後は時代も変わり、客の性質も全くことなります。客用の風呂が必要と判断されて、明治41年、慶応以来のトイレ棟を壊して新築したと考えるのが妥当です。

寺田屋建物は再興後も改修が重ねられている

中村氏の記述からその考えがわかりにくいのですが、やはり現建物を明治39年の新築建物と考えていて、龍馬40回忌式典には風呂棟までつくっていては間に合わないでのやむなくトイレ棟のみにしたが、不都合になったので新築したと考えておられるようだ。建物全体を新築建物だと考えているのを示唆するのが185P上部の写真のキャプションで「再興直前と推定される寺田屋建物」「1階の屋根瓦がまだふかれておらず、建物の前の駒寄せも未完成」とされています。この写真では1階軒屋根は板葺のようにみえ、駒寄せも現在のものとは異なっているようにみえます。横に楕円で枠囲いした旧蹟地の写真もレイアウトされていて完成された写真集のようにみえます。わざわざ、未完成な建物の写真をレイアウトするのかいささか疑問です。また、再興後も風呂棟新築のように改修は重ねられていているのは当然です。現在1階の軒屋根は瓦葺きで、いずれかの時点で改修されたのでしょう。また、電気が利用できるようになれば電線の引き込みや門灯も設備されるようになっていきました。実際、明治末期から戦前にかけて活躍した黒川翠山という写真家が撮影した寺田屋建物が歴彩館に所蔵されていますが、電灯が設備されています。

なお、現在寺田屋に設置されている風呂は鉄砲風呂の形式です。これは安達清(14代目寺田屋伊助)さんの時に大原の古民家ででた鉄砲風呂を据え付けられたものというご教示を得ています。明治41年に新築された風呂棟にはこの形式の風呂だった可能性は高いと思います。煙突は設備しないといけませんが。ただし、鉄砲風呂は昭和にはいっても使い続けられていますので、この風呂自身が明治41年に遡る年代のものかはわかりません。

<参考> 花咲一男『江戸入浴百姿』(三樹書房 2008年)

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