はじめに
霊山歴史館に幕末薩摩藩が確保した京都北山衣笠山南西麓の調練場にあったとされる弾薬庫の古写真が収蔵されている。この写真に注目された桐野作人氏が、これに関わって小松原調練場について考察1)をされた。
今回、この調練場の具体的な様相について、古地図からある程度復元想定することができたのでまとめて報告したい。
1 『小松原附近郷土史』より
平成元年一月に非売品で刊行された高島健三著『小松原附近郷土史』2)は現在、京都学・歴彩館の郷土史コーナーに開架収蔵されている。なお、鹿児島志學館大学原口泉先生もこの資料をもとに産経新聞九州沖縄版に小松原調練場の内容について書いておられます3)。本稿はそこでは触れられなかった具体的な位置について想定したものです。
本書によれば小松原調練場は慶応元年11月に上洛した島津久光に中路某(桐野氏の前掲著書によれば元尾張藩士で安政の大獄を逃れて平野村に居住していた儒者の中路権右衛門である)が献策して、衣笠山麓に約1万6千坪余の地を求めて造られたもので、その責任者として当時薩摩藩大目付役であった高島六三(著者の祖父にあたる)が砲術掛作事方目附役並びに山城国葛野郡小松原村薩摩藩調練場取締役に任じられ、勤番所に居住した。
本書にはその範囲として宇多(野)川以西、小松原北町以北とあり、施設としては火薬庫、射撃場、練兵場、牢獄、勤番所、藩主休憩所などが設けられていた。薩幕の関係が悪化してから幕府方はこの火薬庫を警戒していたが六三は計略をもって幕府方を欺き、鳥羽伏見の戦いにここから火薬を供給したことなどが書かれている。西郷隆盛がしばしば勤番所に宿泊したとも伝えられている。
維新後、高島六三は、一時新政府に迎えられたが、政治腐敗に嫌気がさして京都に戻り、火薬庫を利用して火薬販売の仕事をしていたこと、西南戦争時には西郷軍との関係を疑われて一時拘束されたことなどもあったという。
本書には他にも様々な、おそらく高島家に伝わるエピソードが記載されているが、本稿の目的は小松原調練場の範囲の特定に限りたい。その点で注目すべき情報は、火薬庫が竹藪と周囲に巡らした土手により保護され、その面積は2反ばかりであったこと、またこの昭和九年の区画整理までは勤番所および藩主休憩所が存在していたという2点である。
2 明治以後の地図情報から薩摩屋敷をさぐる
立命館大学のアートリサーチセンターがウェブ公開している「近代京都オーバーレイマップ」4)に掲載されている地図情報を利用する。
大正11年の京都市都市計画図に本稿の結論をすべて図示したものが図①である。
まず、火薬庫を示す「火」をデザイン化した当時の地図記号を見いだすことができる。昭和26年の「京都市明細図」にも掲載されているので、このころまでは確実に火薬庫はあったと思われる。この近辺が間違いなく小松原調練場であるが、藩主も滞在した屋敷はどこだろうかというところから考えを出発した。
次にみるべきは、より大縮尺の「京都市明細図」である。これは昭和2年頃に大日本聯合火災保険協会京都地方会が火災保険図として作成したで縮尺200分の1の地図で、昭和17年まで更新がおこなわれきたものである。建物の形状も比較的詳しく判明する。京都近代オーバレイマップでは昭和2年当時のものと昭和26年頃に手書き修正が加えられたものが公開されている。図②と図③は現在の小松原児童公園の北隣の部分である。比べてみればわかるように『小松原附近郷土史』にあった昭和九年の区画整理による地形改変が見て取れる。昭和二年のものに見いだせる屋敷群こそが取り壊された薩摩藩屋敷と推定できる。なお、1927(昭和 2)年に出版された写真集である京都教育会編『京都維新史蹟』5)には、取り壊される前の藩主休憩所、勤番所、火薬庫の写真が掲載されている。
図②の建物Aが藩主休憩所と考えられる。東西18メートル以上、南北9メートル以上あり、『小松原附近郷土史』では、重臣会議場所の6畳間、床の間と物入れ附属の4畳間、他に4畳半が2部屋あったと記載する。常識的には厠や炊事場などもあったと考えられる。東側には方形の池も見て取れ、一応藩主屋敷らしい体裁を整えている。建物B、Cは建物Aを囲む、おそらくは板塀と一体となった建物で、Bは藩主従者の宿泊場所、Cは屋敷内入口の番小屋と考えられる。したがって、入口は西側からとなる。Dはこの図では建物かどうかわからないが、大正11年の都市計画図(図①)には建物A~Cが同様に描かれていて、ここにはDの位置に家屋が存在することが示されている。これがおそらく勤番所だろう。昭和4年の都市計画図では建物A、B、Cともに存在しない。区画整理に先だって取り壊された後とと思われる。Dのみが残されているのはここに高島家が住み続けていた場所であろう。昭和10年の都市計画図は区画整理がされた状態が描かれていて、屋敷跡地に新しい建物があり、『小松原附近郷土史』の奥付にある高島家の住所位置と一致している。
まとめると、小松原調練場の屋敷部分は昭和のはじめまで残っており、高島家が管理していたが、昭和四年には区画整理事業にあわせて中心的な部分が取り壊され、勤番所のみが残った。昭和10年までに区画整理が行われ原地形が大きく改変され、勤番所も戦前までにはなくなり、高島家も現住所地に移ったと思われる。
3 小松原調練場の全体像
図①は、大正11年の都市計画図である。右下の屋敷地の対角線左上に「火薬庫」の地図記号がはいっている。右上の平野上柳町という表記の左横の寺院は、1802年尾張に成立し、明治9年以降中興されて広がった如来教の寺院で、幕末時点では存在していない。
図④は、明治25年の仮製地形図である。極めて粗く、その後の地図と完全に重ね合わすことができないが、注目されるのが平野神社境内から西方向にのび、途中で特徴的な屈曲をして宇多野川をわたり、そのまま南下する道路(点線で示した)が描かれていることである。実線ではなく、幅をもって描かれているこの道路は小松原調練場整備にともなうものであったと考えられる。また、大正11年の地図にはなにもない所に、道路の北側には建物(ア)、南側には建物(イ)が描かれている。
屋敷地、火薬庫、道路の軌跡、さらに地形や地割りを勘案し、さらに『小松原附近郷土史』に約1万6千坪の規模があったという記述を手がかりに調練場の全体範囲を推定したのが図①なのである。建物(ア)や(イ)は調練場のただ中にあり、射撃場や練兵場関係施設とみることができる。
『小松原附近郷土史』では総面積が1万6千坪以上となっている。今回、それを勘案しながら、地形的に無理のない範囲を想定した。想定範囲の面積は5.42ヘクタール、16400坪となった。
おわりに
図⑤は現代地図の上に調練場範囲と二本松藩邸に向かう経路をマッピングしたものである。
桐野作人氏、河島一仁氏が取り上げた尾張藩京都留守居役尾崎忠征の日記に、慶応3年9月頃に連日調練場で島津備後(珍彦)指揮のもと調練が行われていた。そして、北野社縁日の25日にはわざわざ、人混みが激しい境内を行軍した記録がある6)。桐野氏はこのころに計画されていた薩長芸三藩による挙兵計画にともなうデモンストレーションであったのではないかと推測している7)。
なお、行軍路であるが、河島氏のいうような今小路経由では遠回りになるので、平野社、北野社の北側を通って向かう動線をとったと考える。
さて、この調練場が確保された時期であるが、『小松原附近郷土史』によると慶応元年上洛時(もっとも久光は改元直後に帰国している)に中路権右衛門が久光に献策したとあるが、具体的な話が煮詰まったのは桐野氏の指摘するように桂久武の上京日記から慶応2年の1月25日以降である。この直前22日に薩長同盟が成立している。調練場の整備は在京薩摩藩重役らの間で藩の大きな方針転換が意識され、その方針を貫徹するための軍事的存在感を高める方針からでたものと考えたい。
追記
図5 現代地図上にマッピングの今出川通経路を誤って現代の新設道路をトレースしていたのを訂正しました。(2019/12/14)
註