続々・寺田屋考(1)ー「寺田屋伝説の虚実」の虚実ー

中村氏は現建物の建築時期を明言していない

伏見寺田屋については元の建物は鳥羽・伏見の戦いで焼失し、現在の建物は明治39年に寺田伊助が寺田屋再興時に幕末建物のレプリカとして建設したものであると評価されている。当然、内部にある刀傷や弾痕、さらには「お龍の風呂」も偽物であるとされています。

このような評価を定めたのは中村武生氏の著書『江戸時代の京都をあるく』(2008年 文理閣)で52ページにわたって「寺田屋の虚実」としてまとめられた文章がもとです。再興以前の史料が少ない中で勇気をもって公表されました。ただし、意外にも全体としては強く明治後期の再建を示唆されながら、具体的な建築時期については言及されていません。

今回筆者は「伏見寺田屋建物再考-後世のレプリカではなかった」(2023年7月『歴史研究』713号 全国歴史研究会 戎光祥出版刊)で、現建物は鳥羽・伏見の戦いで慶応4年1月3日に被災しつつも慶応年間中に近世船宿としておとせによって元の建物の西隣に再建されたものであり、後世のレプリカではなく、近世船宿として建築されたものであることを考証しました。

拙稿では明治改元前後に寺田屋が営業していたことを物語る日記史料を提示しました。1月3日の被災後、3月に営業している記録があるので、被災以来わずか3ヶ月足らずで営業を再開してます。まったく新しく建築するにはあまりに短すぎる期間で、一部資料(後述します)にあるように完全に焼失はせず、被災を免れ再利用できる部材が多数残されていたことを示唆します。

現建物についての論考は、この中村論考が唯一ですので、これを拙稿の考証をもとに吟味して明らかな誤りや誤った推測などについて指摘しておくことこそが先行研究へ敬意であると思います。前掲の拙稿では字数の関係から十分に言及できませんでしたので、拙稿では言及しなかった資料も使って補足しておきたいと思います。建築時期としては明治改元前には西隣に再建されていたとしました。なので、現建物はレプリカではなく、慶応年間のうちに建てられた近世船宿の貴重な遺構という評価になります。

以下、一応、拙稿を読んでいただいた上でのものになります。

焼失を示す史料の評価

拙稿では旧建物は全焼せずに、再建建物に部材が再利用された可能性が高いと考えています。しかし、再建されたことは確かですから根拠はどうあれ焼失で良いのではないかとも言えます。

しかし、拙論の考証による再建事情がそのようなものであれば、船宿としての営業を目的に再建されたわけですから近世船宿建築としての文化財価値があることになります。また、旧建物とは密接な関係を持って建築された歴史資料としての価値も多いに高まります。決して観光施設としてのレプリカではありません。いつ、なんの目的で再建されたのかということが極めて重要な問題となります。そこが中村氏の出した結論とは180度異なるところです。

さて、中村氏は焼失の史料として、次の3つをあげています。(165P~166P)
① 戊辰戦争後、登勢がお龍にあてた手紙
② 寺田屋再興時の寺田伊助の申立に
③ 寺田屋旧蔵の龍馬の鍔の箱書きに兵火の火中に埋まっていた品とある

①と②については論考で指摘したとおり、寺田屋建物は1棟のみではなく、敷地も大きく私宅や借家部分も含まれていた。その上で、①からは私宅部分の焼失、②の「志士の墨跡が家屋諸共焼失」の「家屋」も私宅部分と拙論では考えました。

③について、中村氏もあげている書籍(春田明『藤田丹岳と山陽-附・俳人藤田呉竹』)によると、龍馬の鍔は明治39年の寺田屋再興後に所蔵者であった藤田家から譲られたものであることが記述されています。

この本には幕末当時伏見で活躍していた藤田升斎という医者がいました。その孫に俳人の藤田呉竹がいます。この呉竹が祖母から聞いた話を手記として残していて、それには「祖母から聞いた所によると、例の寺田屋騒動で坂本龍馬が傷ついたのを診療し、其記念として小柄と鍔を贈られたが、後寺田屋の懇請により割愛した」(呉竹手記『垂髫記』前記著書より孫引き)とあるそうです。

著者の春田氏は現在、寺田屋所蔵品として京都文化博物館に保管されている龍馬の鍔を実見し、その品と考え中村氏も引用する箱書きを確認されました。

春田氏は、鳥羽・伏見の戦いの時はまだ藤田家に所蔵されていて、一方、藤田家屋敷は戦火で全焼したので、おそらくその後焼け跡から掘り出されたものと推定されます。

春田氏は鳥羽・伏見の戦い以後に、升斎から寺田屋がその鍔を譲り受けたと考えておられますが、それは誤解で、鍔はそのまま藤田家にずっと所蔵されていたのです。

なぜなら、明治39年の寺田屋再興時の広告に志士に関する展示物の一覧が書かれていますが、その中に鍔はありません。のちに目玉展示品として紹介されますから、ここに書き漏らすとは考えにくいので、おそらく再興後にその存在を知り、藤田家から譲り受け、九烈士の槍先とともに寺田屋での展示品の目玉としたのでしょう。

藤田家としても大事に所蔵していたので譲り難かったでしょうが、拙論にも述べたように寺田屋再興は皇后や維新の元勲らの強い希望で再興したという事情があったために割愛を決断したのでしょう。したがって、鍔は藤田家屋敷の焼け跡から掘り出されたもので、寺田屋の焼け跡から掘り出されたものではありませんので、寺田屋焼失の証拠にはなりません。

しかし、それにしても不審なのは中村氏は春田氏の書籍を読んでいますから、藤田家屋敷の焼け跡から掘り出されたものということは認識されているはずです。ならば、普通に考えて寺田屋焼失の証拠としてあげるわけにはいきません。どうも、中村氏は藤田家から寺田屋が鍔を譲られたのは鳥羽・伏見の戦い以前ですでに寺田屋所蔵品になっていたと想像されたようです。春田氏の見解は紹介もされないままです。

先に述べたように鍔が寺田屋所蔵になったのは再興後のことであることは明らかなのですが、中村氏はこのことに気づいておられなかったようです。

寺田屋遺址について

まず、事件のあった寺田屋建物は現在の九烈士顕彰銅碑が建つ敷地とされます。根拠は顕彰碑文に「寺田屋遺址」に建てたとあったり、伏見町誌に「現在の建物の東を遺址とす」と明記されている点をあげられます。(166P)これは京都市も同じ根拠を述べられています。

事件のあった建物は確かにここにあったことは間違いないと思われます。しかし、中村氏のように現建物は「旧建物や土地とは無関係」(168P)と断じることはできません。

しかし、現寺田屋敷地もかつての寺田屋跡と認識されていたことは中村氏も紹介する『伏見殉難士傳』の奥付に現寺田屋事務所住所のあとに(寺田屋跡)とカッコ付きで書かれていることからもわかります(180P)。

拙論では江崎権兵衛が買い集めた土地全体が寺田屋敷地であったことを考証しました。事件のあったいくつかの建物がある広い寺田屋敷地の中で、銅碑が建立されている場所その建物はあったという意味で特に遺址と称されていると解されます。また、西村天囚は顕彰銅碑敷地西に建つ現在の建物を「寺田屋」と記述していています。これは、中村氏も気づいているはずです。中村氏はこの建物についても西村が寺田屋と呼んだ理由などについて見解をのべません。

おそらく、中村氏は「寺田屋」の屋号が復活し、現在の建物が建てられる契機としては、この西村訪問の時期より10年ものちの寺田屋再興時であると考えているので、この建物については見解を述べることができなかったのではないかと推測します。

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