龍馬が逃げ込んだ材木小屋の輪郭

慶応2年正月23日薩長同盟を成立させた龍馬は寺田屋に帰って三吉慎蔵と合流した直後に奉行所の取り方に襲わました。命からがら脱出した龍馬は刀傷がひどく出血多量で瀕死の状態となり動けなくなりました。三吉は材木小屋に龍馬を避難させた上で、薩摩伏見藩邸に走りました。藩邸ではすでにお龍によって事態は通報されていて、留守居役大山彦八(大山巌の兄)はただちに川船を出して救出し、そのまま龍馬は収容されました。
この龍馬が避難した材木小屋については寺井史郎『京都史蹟めぐり』(1934年)の中で外観写真が内部写真を添えて紹介されています。寺井史郎こと寺井萬次郎は若くして碓井小三郎(『京都坊目誌』著者)の門人となり、大正初期には、晩年の菊屋峰吉(龍馬と中岡慎太郎の使い走り)とともに維新史跡を調査した人物です。昭和初期には中川忠三郎というカメラマンとともに当時現存していた維新史跡を撮影し、昭和天皇御大典にあわせて京都市教育会が刊行した『京都維新史跡』という写真帳にまとめました。
『京都史蹟めぐり』に掲載された材木小屋の外観写真もこの時に撮影された一枚でしょう。大きな切妻屋根の建物の向かって右手に別建物が一体になって隣接していて、かなり横長な建物であることがわかります。左手奥には橋が写っています。ほぼ同じ角度から撮られた別写真が東京大学史料編纂所に所蔵されています。こちらの写真は左手、やや離れたところに倒壊寸前の別建物が写っていて橋は見えません。
咸臨丸子孫の会の正井良治氏がブログ『幕末散歩』に、この材木小屋で記事(寺田屋からの逃走ルート2 材木納屋 20170721、龍馬が隠れた材木納屋 20170902)を書いておられ、上記2点の写真も掲載されています。現在北川本家売店にはこの地がかつて鳥取藩邸があったとして展示がされていますが、実際は紀州藩邸敷地だったこともいち早く論考されています。この二枚は、きわめて近接した時期に撮影されたものでしょう。
現在、『坂本龍馬 避難の材木小屋跡』(伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会 2009年)という石碑が対岸過書町の大手橋西詰に建てられています。北川本家敷地は東詰南側になります。(グーグルマップ参照)
今回、近代京都オーバーレイマップ(立命館大学アートリサーチセンター)で閲覧できる大正11年の都市計画図に、まさにこの材木小屋の輪郭らしきものが描かれているのに気付きました。
『京の遺跡めぐり』に掲載された写真の倉庫左手には濠川にかかる大手橋が写っています。しかし、現在の大手橋は昭和15年に竣工されたと欄干に明記されているので、この橋は現在の大手橋ではないことになります。
大正11年の時点の都市計画図には、幕末同様ここに橋はかかっていません。一方、昭和10年の都市計画図には橋が確かに架かっています。しかし、この橋を西にわたってもその先に延びる道路はなく民家に突き当たります。
以上から、写真に写る橋は大正11年以後、昭和9年までに濠川に架けられた初代大手橋ということになります。それが、昭和15年に再び架け変えられているので、この初代の存続期間は最大18年以内とわずかな期間ということになります。
どういうことでしょうか。実は昭和8年に京都と大阪を結ぶ直線を主体とした京阪国道が開通しています。現在、東寺前から直線状に南下する国道一号線は淀方面へ屈折し、淀川左岸に沿って大阪に至ります。近世の京街道に沿った道です。
現在、その屈折点と大手筋が接続していて、大手筋通の名がなります。この道路は昭和10年の都市計画図では東高瀬川までしか開通しておらず、そこから東の方へはのびていません。昭和10年当時、東高瀬川から東はすでに市街地であり延伸が遅れ、昭和15年ごろまでにその延伸にともなって現在の2代目大手橋が架けられたと考えられます。昭和10年の地図には延伸の計画線が破線で描かれていますが、東高瀬川を渡る新大手橋は以西道路の幅より狭くなり、濠川をわたる大手橋を経て現在の大手筋アーケード商店街の入口まではここにえがかれた計画道路よりやや北側を通っています。
さて、問題の木材小屋輪郭ですが、大正11年の都市計画図に載っています。北川本家工場内、セブンイレブン店舗南側の駐車スペースに東西3棟並んで描かれていて、西端の建物はやや南北に長い長方形です。東京大学資料編纂所の写真をみると大棟が南北方向で、その方向に輪郭が長い建物のように見えます。真ん中の建物は切り妻の大屋根をもつ建物の東に別の屋根をもつ建物が附属していて、東側に大きく建物全体の輪郭は伸びるようです。同じような組み合わせの3棟の並びが南側にも描かれていますが、西端の建物が東側の建物よりわずかに南より位置することが見て取れるのでこちら側ではありません。これらの建物は濠川から入り組んだ船溜まりに東西に立ち並んでいて濠川の水運を利用した倉庫であることがわかります。

龍馬が潜んだ材木小屋の位置

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