続々・寺田屋考(5)ー薩摩藩より拝領の大黒柱ー

明治44年7月発行の俳誌「懸葵」

現在、寺田屋内部に「天保年間改築の際 島津家より贈られたる大黒柱」と貼り紙のある大きな柱が母屋を支えています。これが事実であるなら、現寺田屋建物には紛れもなく幕末当時の建材が利用されていることを示します。

さて、くだんの中村氏は『京都の江戸時代をあるく』の172Pで、この貼り紙について信憑性はないと断じられています。まず、自分が通っていた1980年頃にはなくそれ以後に貼られたのであること、寺田屋は寺田ハナが亡くなった後は血縁者が関わったことはなく、伝承が伝えられていたとは考えられないとされ、言外にフェイクのひとつと判断された。

今回、さらに寺田屋関係史料をあたっていたところ国会図書館デジタルコレクションの中でこの柱に関する有力な資料(永続的識別子:info:ndljp/pid/1470266)を発見しました。以下、報告します。

資料は京都で編集発行されていた俳句同人「京都満月会」の機関誌『懸葵』の明治44年7月に掲載されていました。編集の中心となっていた会員達が伏見の見聞に出かけ、寺田屋に投宿した時の紀行文です。

資料全文

この紀行文の内容を紹介しましょう。寺田屋についての全文は以下のとおりです。

寺田屋  臚江
維新の際の騒動で名高い寺田屋の二階の欄干に凭れて川沿ひの暮れゆく柳を見卸ろして居ると杯盤を運んできた女中が此所が昔しの船付塲であつたと云う。川向ひの中書島の家々には早や付きをめた灯がちらほら見えて居る。川の曲手の石の上に立て居る女郎の浴衣だけの姿が湲い波紋を描いた水面に映つて居る。此内も元は普通の船宿で下は大方は土間で諸國の人々が大阪へ下る船を待ち合す所であつたそうな。あの騒動の折も薩摩のお侍がまだ夜の明けぬさきにお着きになられましたのでもう一寢入するといはゝつて丁度此の部屋でおやすみなりますと、夜明け方に外の侍さんが澤山土足の儘であがつてきやはつて二言三言いひ合つてから切合が始まつて其所の庭先の石碑が立つて居る所で皆はんが殺されやはつたそうどす。
白砂を敷きつめた飛石傳ひの庭に両側に櫻若葉が茂り合つて電燈の輝き渡る所に盛り上げ土の上に志士の碑文が刻まれてあつて宮内省からの下賜金の札さえ立ててある。その当時此内の使ひ歩きをして居た子供衆が今なほ生きて、近所に綱船渡世をして居る老爺がよく私共に話として聞せはりますと女中がのべつに続ける。一度遇ふて話をお聞きやすそれはそれは面白いのどすと云う。死骸のあとかたづけとしたときに耳が一つ落て居たと云ふそれをとうしやはつたと聞くとそんなもんほつて仕舞ふたと笑はさはりますと一人面白そうに女中が笑ふ。
此内は近頃建て直したのかと割合に新らしく見ゆる座敷を見廻して問うと、いえ只修繕した許りどすと大きな柱をみつめてこれは薩摩さんからの拝領で一本杉だと云う、してその折(寺田屋事件)の刀傷が澤山ついて居たのを埋木して板で包んだのどす、ほんまにをしい事をしたもんだと云ふ、五人で柱を染々とながめる。かくて寺田屋の夜が更ける

以上、引用終わり

建物は元船宿であったとの証言

文の内容に沿って考えていきます。まず、筆者は寺田屋二階の表の間にいることは川沿いの柳や目の前のかつての船着き場(すなわち寺田屋前浜の石段)をみていることから明らかです。凭れているのは道路に面した窓の欄干でしょう。

ここで、もともとこの建物は船宿であったことがここで証言されています。拙稿の慶応4年のうちにおとせによって船宿として再建され、営業を続けられた建物であるという結論を補強します。1階の床板の下を確認すればはっきりするでしょう。さらに、筆者のいた部屋で有馬新七等が休んでいたといいますから、建物の基本的な構造も同一だったのでしょう。

有馬新七らが殺された場所は東隣と認識されていた

鎮撫使は有馬新七を探して土足のまま2階に上がってきたのち、有馬を含む4人が1階に降りて鎮撫使8人と問答し決裂、切り合いがはじまったというのが史実です。その後、騒動の気配を感じて2階から降りてきたものは切られ、1階の切り合いが終わるまで2階にいたものは、そのまま説得されて投降しました。だから、彼らが殺されたのは建物1階です。しかし、女中は庭先の石碑(恩賜の碑もしくは坂本龍馬忠魂碑)の所で殺されたと伝えています。この筆者は庭先で殺されたと受け取ったのかも知れません。宮内省の下賜金は龍馬に関連したもので九烈士とは異なっているのですが、そのあたりもごっちゃになっています。女中にすれば元の寺田屋建物は東隣で、まさに殺害された場所は元の建物の1階で、今石碑のあるあたりと説明したと考えられます。

この女中の情報源は当時、騒動当時寺田屋に出入りしていた子どもで、遺体の片付けにもあたった経験をもつ存命中の老人です。江崎権兵衛が九烈士顕彰碑を建てた時にはこのような人物が他にもいて、現建物は戊辰戦争直後の再建で、彼らが絶命したのは東隣の地であること聞き取り、ここを寺田屋遺址としたのでしょう。

大黒柱は薩摩から拝領物で刀傷だらけだったのを板材で包む

さらに筆者がこの部屋は新しく見えるが立て直したものかと女中に聞くと、明確に否定があり、修繕しただけであると答えています。拙稿では明治39年再興時に船宿を旅館に改修したと想定していますが、それを裏付ける記述です。

そして、大黒柱はもともとは薩摩からの拝領品で刀傷だらけだったので板材で包んでしまったというのです。刀傷があるということはこの大黒柱も元の建物に使われているということになります。やはり、元の建物はかなりの部分被災を免れ、その部材をもって再建したという『京都維新史蹟』のキャプションは正しかったということになります。

実際、建築では構造的には必要の無いところに装飾的に柱に見せかけたものを取り付けたり、柱全体を包んで立派な柱に見せるということも行われています。この柱は他の柱にくらべて著しく太くて、分厚い板材でまかれた柱とみえなくはありません。しかし、素人目での判断なので現時点では確実なことはいえません。

わかったこと

以上、今回の史料によって明治44年時点(伊助は明治41年没、このころはハナが経営)では、事件があった建物は当時は東隣にあったが、戊辰戦争での被災後すぐに、ほぼ同じ構造で旧部材も用いて西隣に再建されたものであると認識されていたことがわかりました。再興時改修から5年ほどしかたっていないので2階座敷は一見すると真新しく見えたということもわかりました。

以上、この資料によって拙稿で想定したことがほぼ裏付けられたと考えます。

再興時の記念写真はがき

現在寺田屋内には九烈士顕彰銅碑を写した写真が展示されています。寺田屋訪問記念のスタンプが押された記念絵はがきです。銅碑の前に庭石に腰掛けた小柄な老人が写っています。この老人は寺田伊助その人でしょう。また、紀行文に書かれている電燈も宮内省からの金百円の下賜金の駒札も写っています。白砂を敷き詰めた様子もわかります。

ここで注目は左端にうつる東側窓の欄干です。用材の摩耗もあまりなく、板壁などに比べて新しく敷設されたようにみえます。この欄干に沿う形で雨樋も設備されています。再興時の改修工事で新設されたものと思われます。

コメント