「御花畑」屋敷研究深化のために(2)

今回も同じ佐野氏論文について、「一次史料」の取り扱いについての疑問を考えます。
氏は尾張藩との「御花畑」の関係性を示す資料を多数提示され、特に近衛忠煕の母で尾張藩から嫁した維君の隠居所として天保年間に尾張藩の手によって改修されたことが明らかになりました。
これによって「御花畑」屋敷についての知見は進みました。例えば、絵図には仏壇が備えられた部屋が存在しています。これは天保年間に尾張藩が近衞家へ嫁した忠煕母の維学心院の隠居屋敷として改修したおりにつくった仏間に相当するのではという指摘については可能性は高いと思います。この隠居屋敷で薩摩・尾張の両家中の交流は最終的に尾張藩が新政府側に味方する背景となっています。代表的なキーパーソンとして尾張藩京都留守居役尾崎忠征がいるということです。
今回、佐野氏の行論のなかでの一番の目玉史料は16pにある慶応3年10月7日の『尾崎忠征日記』の記述です。この史料から、近衞家が慶応3年の時点で、討幕に走る西郷ら主導の薩摩藩に反感をもち実質的に「御花畑」の使用停止を決めたことを示唆するものであると評価されました。まずは、これからとりあげます。

史料の解読

その史料の内容は、薩摩藩に貸していた「御花畑」の使用が乱雑なので、近衞家当主忠房の祖母の旧宅である「御花畑」建物を本邸に引き取りたいと考えていて、その考えを尾崎忠征にもらしたと読める史料です。そして、「この移築は年内にも着工の予定であった。上のような近衛家の措置は、実質的には薩摩藩による御花畑邸の使用を停止させるものであり、この時点で両者の関係性に変化が生じていたことを示す点で重要である」(17P)と評価されました。
この史料は尾崎が国元の家老成瀬隼人正に書き送った手紙の一部です。尾崎は日記に自分が発した書状、受け取った書状の内容を書き留めています。これは書状そのものではありませんが、時候挨拶や決まり文句など形式的な部分をのぞいただけのものであり、ほぼそのままの文言が記録されています。
実は、佐野論文ではそのうちの一部のみが引かれていて、地の文としてもその前後に書かれている内容には言及されていません。筆者はその部分も含めて読めば、御花畑の使用停止を意図していたとは思えず、引用されている部分だけでもそのような意図を読み取ることはできないと考えました。その書状の全文を掲げ、意訳し、解説を加えます。

【尾張藩付家老 犬山城主 成瀬 隼人正 正肥 あての手紙記録】
(『尾崎忠征日記第二』174~176頁 慶応三年十月条)
隼人正江壱通
右は小五郎久次郎今度上京に而 左府様江
老公より之御返書御病気に付御遅延可相成御断申上候儀私同席に而申
上候付承知仕候然處昨六日御同公御側御小納戸両人より別紙之通申越
候付小五郎久次郎江尋遣候處別紙之通御返書御延引之御断申上之事
而已に而御書に而御願相成候義済不済之儀は更に不辨旨申越候付其
段御小納戸両人返報に申遣置候私儀去月廿四日 左府様江拝謁之節
御沙汰には御花畑之儀薩江貸置候處甚乱雑之由に而御二階等江妓な
とを呼寄 維学心院様御旧殿に付難忍候付此度本殿之方江御花畑之
建物皆々引移度付而は本殿奥対面所を 貞君之方江差遣し右跡江引
度付而は対面所之義是迄敷舞台と相成居候處取払候付右代に新規舞
台取建度木品之儀等
老公江被下候様御直に相願隼人正江も書面に而頼遣候其砌八右衛門
江其段不申聞執計候得共含呉置候様にとの御沙汰に有之来年之處
左府公御年江取御方角不宜候付今年御手始之思召之由をも奉伺候處
右御木品御時節柄に付被進御六ケ敷訳より御返書御遅延と申様也御義
に候はゝ御引釣相成候上御断等に而は眞に御手を被附可申夫よりは少
しも早く少分の御材木に而も被進早く御断に相成候方御宜候半哉と
愚存仕候付不絶一盃之所申上思召相伺度依之別紙二通相添奉伺候旨
之主意くわしく書連ね申上候事
(赤字が佐野論文で引用されている部分)

【試訳①】
右のことは(茜部)小五郎、(角田)久治郎が今度上京してきて、左大臣(近衞忠房)様に面会し、「老公(徳川慶勝)よりの御返書は御病気だったので遅れた」と説明する場に私も同席していたので承知しています。
そうしていたところ、昨日六日に御同公(忠房)お側の小納戸役の両人より、別紙の通り伝えてきましたので、小五郎、久治郎へ尋ねたところ、別紙にあるように、御返書が遅れたお断りを申し上げたのみで、(老公に出した)書面で(忠房様が)お願いになっていることを了解済みなのかそうでないのかについては特に弁じなかったと言ってきました。なので、そのことを御小納戸役の両人に返報しました。

<解説①>

近衛忠房から尾張老公に頼み事の手紙が送られていて、かなり時間がたって小五郎、久次郎が返事をもってきたようです。しかし、その返事にはすでに老公(慶勝)に書面で頼んだ事が承知できるのかどうかという肝心な部分がなかったようです。

【試訳②】
先月の二四日、左府(忠房)様に拝謁したときにおっしゃたことには、「御花畑は薩摩に貸して置いたところ、甚だ乱雑で、御二階などに芸者などを呼び寄せている。維学心院様の御旧殿であり偲びがたいことなので、このたび本殿の方へ御花畑の建物を皆々引き移したい。ついては本殿奥の対面所を貞君の御殿の方に移して、その跡に移築したい。対面所はこれまで敷舞台として使っていおり、これを取り払うので、この代わりに新規舞台を建てたい。木品の事などを老公へ伝わるように直接に要望し、隼人正にも書面で頼んでいた。その時に八右衛門(尾崎忠征)へ、そのことを申し聞かせず執り計らったけれども知っておいて欲しい」とのご沙汰でした。
来年は左府公(忠房)の年齢にとっては方角がよろしくなく、今年から始める考えも伺いました。右の御木品は時節柄を理由にさし上げるのは難しい訳で、御返書が遅れているのではと申しました。

<解説②>

尾崎は先月24日のことを書きます。おそらく忠房が尾張老公に手紙を送ったのはこれより大分前で、返事がなかなかこないことに不満だったようです。この頼み事については尾崎の頭越しにしたことなので、どんな頼み事をしたのか尾崎にここで説明し、暗に尾崎に督促しているわけです。頼み事は何かというと「御花畑」建物を引き取るに当たって、移転する対面所は敷舞台として使っていてそれを引き払うので、今回あらたに敷舞台を立てたい、そのための「木品」を老公に頼んだというのです。この移転は来年は忠房に縁起がよくない年なので今年中にしたいと思っているのに返事が来ないとこぼしているわけです。
この部分を佐野氏は引用しています。この内容で薩摩藩の「御花畑」使用停止を読み取ることは困難です。佐野氏は「御花畑」建物全部と考えておられるようですが、移転先として宛てられているのは対面所建物跡です。実際は維学心院が実際に居住していた御殿部分の移転と考えるべきでしょう。台所や使用人の部屋、彼らが使用した作業場などが含まれる建物もあり、そのすべての移転を望んだとは考えられません。
そして、(後略)とされた部分が重要なのですが、尾崎はこの24日の面会で頼みは「時節柄」難しいのではないかと暗に断りをいれています。時節柄とはこの時期、京都は幕府と薩摩の間で市街戦があるかもしれないという緊迫した状況にあったことを指すのでしょう。実際、市民が荷物をまとめている様子を記録した会津藩史料を佐野氏自身が引用されています。

【試訳③】
この件については引き延ばしにした上でお断りになっては、まことに間違った判断といえます。今から少しでも早く、少しだけ材木を進上され、早くお断りになる方が宜しいかと考えております。いつもながら言いたい放題の所を申し上げました。(隼人正様の)お考えを伺いたく、ついては別紙二通を添えて詳しく書き連ね申し上げました。

<解説③>

結局、尾崎は国元に対して近衞家への返事を引き延ばしてはならず、少しばかりの「御材木」を進上して「木品」については、できるだけ早く断るのがいいと言っています。「御手を被附可」の解釈は難しいですが、文脈から「おてつき」と解して、「間違った選択」の意味にとりました。また、「御材木」と対比して「木品」がでてきますので、「木品」とは特別な材料であることがわかります。敷舞台という格式のある舞台をつくる特別な材料として木品が老公(慶勝)に対して所望されたということです。尾張藩ですから「木品」とは木曽檜だったのではないかと想像します。

[まとめ]

以上、まとめると。近衞忠房は尾張藩の京都代表である尾崎忠征を通さずに、9月24日以前に、直接老公(慶勝)に敷舞台用の木品を欲しいと依頼したようです。ところが、その返事がいつまでたってもこないので、24日尾崎に事情を一から説明して督促をはかります。尾崎は時節柄、お返事が遅れているのではとしか答えようがなかったようです。そして、ようやく10月になって返事がもたらされ、その使者と尾崎も同行しました。
ところが、10月の6日になって近衞家から、「頼んだ事の成否が書いてない」と知らせが来ます。尾崎が国元からの使者に確認したところ、本当に書いてないらしい。尾崎は仕方なく近衞家の方に、どうもそのようなので善処しますと伝えるほかはなかったようです。その上で、尾崎は、それは時節柄無理だから早く断った方がいいと判断し、国元にお伺いをたてたということです。「不絶一盃」とあります。「不絶」とは「絶えず」の意味で、「一盃」には「思う存分のこと」という意味があります(『日本国語大辞典』より)から、普段から尾崎は言いにくいこともきっぱりと伝えていたのでしょう。
この佐野氏の論文で学んだことですが、1)尾崎忠征の父は京都に嫁した維学心院付きとして京都に赴任し、のちに息子も若くして赴任しました。年頃としては近衛忠煕が1808(文化 5)年生まれ、尾崎忠征が1810(文化 7)年生まれでまったくの同世代です。忠征は一貫して京都で近衞家と接触していますから、近衞父子とは結構気安い間柄であったのではないでしょうか。『尾崎忠征日記』の解題には慶応3年の6月後半だけで11回も忠煕のいる桜木町屋敷、忠房のいる近衞本殿に参殿していることが特筆されています。忠房にとっては忠征はまるで父親のような立場だったのでしょう。
少し想像が過ぎるかも知れませんが、老公に「木品」を所望したことをあえて、忠征に知らせなかったのは、やんわりとその場で断られることを恐れてのことだったのではないでしょうか。しかし、結局返事が来ずにしびれをきらしていつものように忠征に不満をもらしたと思います。忠征の方はといえば、適当に材木を献上してさっさと断ることを国元に求めています。

史料・論文の引用扱い方について

以上、佐野論文では(前略)(後略)されている部分を含めて全体を読み通すと、尾張藩が近衞家の建物移築意向にともなって頼まれたのは「木品」のみで、それも断られることになりました。慶応3年のこの時点ですでに「御花畑」は軍事拠点化していますから、薩摩藩にとっても御殿建築は不必要なものだったでしょう。近衞家にすればあの建物はなき母、祖母の思い出にかかる建物で戦火にまきこまれることは避けたかったでしょう。おそらく建物移転については「御花畑」敷地の継続利用を前提に、薩摩も承認する見通しがあったのでしょう。しかし、敷舞台用の「木品」(おそらく檜)は手に入る見通しがなかったので、尾張老公に頼んでみたというところです。近衞家が薩摩藩の「御花畑」使用を停止する意思を表明したということはまったく読み取ることはできません。
史料を引用する場合、全てを引用すると長くなる場合があります。その時、どうしても必要な所だけ原文を掲げ(略)を使いますが、引用部分の解釈にかかわる事情が(略)の部分に書かれている場合、それを説明しておく必要があると思います。
今回の場合は略された部分を読めば「木品」とは特別な材木のことであることがわかりますし、ここではそれ以外の助力を尾張藩には求めていないこと、またこの直後の大政奉還後、薩摩藩の態度が軟化したことをもって近衞家が移転を中止したわけではなく、尾張藩からも時節柄無理であると告げられる始末であった結果の中止であることがわかります。
また、佐野氏は31pで竹内加奈・浜中邦弘「中井家文書『伏見殿今出川御地面拝借請取裏書絵図』について」(同志社大学歴史資料館館報第18号 2015年)にのべられた推測として「この伏見宮邸の借り受けにも薩摩藩への牽制の意が込められていた可能性が推測されている」と引用されるが、元論文をみると「ここから公家や諸藩の動きを洞察・牽制し、当時の政局に何らかの影響を及ぼそうとする意図があった可能性は高い」であり、「薩摩藩への牽制」とはひと言も書いてありません。
さらに、元論文には「この土地の隣地は慶喜と従兄弟関係にある当時の関白・二條斉敬の屋敷であり、慶喜にとっては比較的近しい人物の隣地であったということも、慶喜がこの場所を選んだ理由の一つではないだろうか」としてあり、論文筆者はむしろこちらを選地理由として特筆しています。
この資料照会論文に示された史料をどのように解釈するかは自由ですが、元論文筆者が述べていない推測見解をあたかも述べているかのように記述するのは如何なものかと思います。佐野論文のみを参照した方が、「こんなに早く慶喜は薩摩藩を警戒していたのか」とミスリードされてしまう場合もあります。元論文の見解引用は客観的におこなうべきでしょう。

まとめ

以上、佐野論文についてのいくつかの首肯できない重要な結論についてまとめておきます。

結論① 「御花畑は桂宮小山屋敷を拝領したもの」
これは原田良子さんのブログ前稿の(1)で指摘したように全くの別場所にあり、誤りです。したがって、明治四年の近衞家の京都府に対する届出文書に関わる解釈は成立しません。また、桂宮小山屋敷の造営にともなって禁裏御用水路が付け替えられたという説も成立しません。では『京都図屛風』に描かれた水路と禁裏御用水路との関係をどう考えるかについては別案がありますが別稿とします。

結論② 「慶応3年10月の段階で、急進化する薩摩藩に対して近衞家は御花畑の使用を停止する意図をもっていた」
上に述べたように元史料の恣意的な引用で結論づけられたもので、到底首肯することはできません。

結論③ 「御花畑は尾張藩が関わって維学心院の隠居所として天保年間に整備された」
これについては佐野氏の指摘は正しいですが、結論①にもとづく「この時に森之木町部分が拡張された」という主張は成立しません。

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