「御花畑」屋敷研究深化のために(1)

寛延3年 森幸安「京師内外地図 洛中 洛東 愛宕郡」(国立公文書刊蔵)原田さん発見のもう一枚の地図です。

「御花畑」屋敷とは幕末に薩摩藩が近衞家から借り受け、家老小松帯刀の寓居として使われ、薩長同盟締結の舞台になった屋敷として注目され、2016年5月、京都で行政文書が、鹿児島で絵図が発見され、その具体的な位置や規模、内容が明らかになりました。

同志社大学の佐野静代氏が「近衛家別邸「御花畑」の成立とその政治史上の役割 : 禁裏御用水・桂宮家・尾張藩・薩摩藩との関わりについて」(『人文學』同志社大学 2020年)を2020年3月に公表されました。現在も同志社大学のリポジトリで読むことができます。
この論文は、原田良子氏が行政文書発見されて間もなく発表され、筆者も連名で書きました「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」(『敬天愛人』第34号 西郷南州顕彰館 2016年)以来の「御花畑」屋敷についての専論です。

桂宮「小山御屋敷」は「御花畑」屋敷の前身ではない

さて、この論考の眼目のひとつが「御花畑」屋敷の前身を江戸時代中期宝永年間頃の桂宮(当時の宮号は京極宮)の別荘「小山御屋敷」に求められたことです。
まず、前提として寛永年間の禁裏御用水路の付け替えが『京都図屛風』に描かれた水路描写から確実なものと断定され、御用水は天皇家関係のみが利用できたのであり、この付け替えにともなって御用水を引き込んだ近衞家別邸「御花畑」の前身屋敷も天皇家関係に限られると論じられた。そして、それを故西和夫氏が著書1)の冒頭で紹介された桂宮(当時は京極宮)「小山御屋敷」に求められました。
しかし、『桂宮日記』を見ても、具体的な場所を特定する記述はなかったので、西氏が屋敷の役割として送り火見物を上げられているのと同様の手法で、宝永4年5月の「蛍火」観賞の記述から御用水が引き込まれている屋敷として相応しい場所であることを傍証に上げられました。
ところが、原田良子さんがブログ「御花畑の研究」で公表されたように、それは違っていました。江戸中期、「小山御屋敷」を多用した京極宮文仁親王および家仁親王と同時代人である森幸安の寛延3年刊行の古地図上に京極宮別荘としその位置が記載されていたのです。これについては原田さんのブログに譲ります。
これによって前身説自体は成立しなくなりました。その結果、以下の課題があいかわらず残ることになりました。
第1に前身屋敷説なしで禁裏御用水路の流路の変遷をどのように理解するかということです。屋敷への引き込みという事情なしに、鍵の手に屈曲する人工的な流路はどのように説明できるのでしょうか。
第2に御用水の利用が可能であった身分家柄の問題です。桂宮家屋敷であることが否定された結果、「御花畑」はもともと近衞家別邸である可能性が高まりました。
佐野論文では伊勢祭主で身分的には最下級の公家であった藤波忠友が佐渡配流された理由のひとつに禁裏御用水の勝手な引水があがっていることを提示され、「御花畑」が宮家所有であったことを傍証されましたが、もうそれは成立しません。
ここで、現時点での私見を述べておきます。藤波邸があったとされる上柳原町は森之木町から竹園町を挟んだ、南にあります。そこには御用水幹線、支流とも流れていません。もし取り込んでいたとしたら、それは位置的に考えて御用水幹線水路ではなく、新町頭からは入り、幹線水路の南を並行して流れ、上御霊社前で合流する支流からのものです。支流から取り込む例ならば、上御霊社の庭園そのものがそうですし、佐野氏も註に上げられている林倫子氏らの論文2)では後藤屋敷もその可能性があったことを指摘されています。なのでそれだけなら藤波家の場合も問題にならなかったと思います。水流を取り込むこと自体が問題なのではなく、水量確保に支障がでるような利用の仕方が問題になったのではないでしょうか。
藤波邸のあった上柳原町では仮に取り込んだ支流からの用水を御用水に戻すことは現地の土地の高低差から考えて難しかったでしょう。もともと、用水は必ずしも十分な水量があったわけではなく、小山村の灌漑に利用する春から初夏にかけての時期は禁裏であってもその使用には制限がかかる3)ぐらいでした。だからこそ、水量確保のために小山村内で灌漑用に利用するために3つに別れた流れを、わざわざ上御霊社前で合流させているわけです。もし藤波邸がそれをそのまま戻さないようなものになっていたら御用水の機能を損なったとして罪状に加えられた可能性はあります。
前述の林さんらの論文では「禁裏御用水の幹線水路」を取り込んでいる事例は、御用水成立以前から存在したと推定できる相国寺開山堂庭園のみであるとされていました。それを受けて原田論文では、御用水幹線水路が邸内に取り込まれていることが「御花畑」で明らかになったとし、それ以上は材料がないので今後の課題としています。
第3に「御花畑」敷地が桂宮家から拝領されたものではなかった以上、明治4年の届出文書に森之木町としかなかった理由については佐野論文ではは桂宮家からの「拝領地」であったから町役が発生せず記載されなかったとされましたが、それは事実と異なりました。町役務にかかわっての届出であろうことはすでに原田論文でも触れているところです。小山町部分などが書かれなかった理由については、原田論文の註10で若干の考察(これは筆者による)はおこなっていますが、深くは追求できませんでした。当時の結論としては註10の末尾に「現時点では、当時の近衞家の届出どおり、御花畑邸は森之木町に所在したという他はない」と書きました。
そもそも、この届出文書が綴られていた簿冊の中には「買特地」「拝領地」(公儀から)も「年貢地」(封建領主の)も「受領地」(主家からの)も、さらには「借地」も明記されているものが多々見受けられますし、それらが組み合わされて全体の敷地として届けられているものもあります。近衞家のみが「拝領地」だったので記載しなかったというのは疑問の残るところでした。

【2016年論文の翻刻誤り訂正】
なお、この届出文書の翻刻ですが、原田論文でも註に全文記載していましたが、間違いがありました。名代渋谷久兵衛の住所として「上京区六番組新町通寺之内六道西町」としていましが、正しくは「上京区六番組新町通寺之内上ル町」でした、今もこの町名は存在しています。佐野論文では原田論文の翻刻をそのまま踏襲されていますが、明らかな間違いなので、この論文に関わったものとしてここに訂正しておきます。また、佐野論文引用の直後の「此度」も「此段」の間違いでした。あわせて訂正いたします。

研究史整理と新史料発見周知のルール

絵図の「発見」にかかわって

【参考】御花畑絵図が初展示された、平成28年5月24日~9月11日の黎明館企画展示告知チラシの裏面。チラシ製作の段階では絵図展示は告知されていない。

研究を志した以上、他の誰もが未だたどりついていない地平に、誰よりも早くたどり着きたいという熱意は誰しもがもっています。しかし、そのような研究を進めるにあたって研究史の整理は不可欠となります。今回の論文について、史料発見の経緯の整理の仕方について疑念を表明しておきます。

佐野論文では2016年1月に黎明館の担当学芸員の方が「御花畑絵図」を発見し場所を特定したとされていますが、これは5月24日からはじまる「幕末薩摩外交」という企画展示の準備作業中でのことです。展示開催まで「絵図」の展示は公表されていません。学芸員の仕事をしていれば日常的に新史料に触れます。今回のような企画展示準備の過程での発見なら、初展示された日をもって世間に対して明らかになります。その新史料が極めて重要なものの場合は記者会見などが行われ、博物館が責任をもって公表することで明らかになります。なぜ、この論文で学芸員が手に取られた日をもって「発見」とされるのかわかりません。たとえば、埋蔵文化財の場合も、発掘中に重要な遺物が発見されることがありますが、それが土から顔をだした日をもって特定とはなりません。記者発表、あるいは現地説明会などで周知された日が研究史上重要になります。今回の場合は5月24日の企画展で絵図が初展示されたことが研究史上重要な日付になります。
手元に鹿児島照國神社(島津斉彬を祭神とします)発行の2016年7月1日付けの社報があります。西郷南州顕彰館の徳永和喜先生が、薩長同盟についての文章を執筆されており、行政文書の発見について速報的に「同盟締結場所の詳細発見」と小見出しをつけて紹介されています。しかし、末尾には「なお、今後屋敷内建物の配置や間取りがわかる資料を期待したい」と書かれています。この原稿執筆の時点では、企画展で絵図が展示されるかされない時期だと思われ、6月3日に原口先生が産経新聞九州・沖縄版のコラム「歴史のささやき」で行政文書と絵図のことを取り上げられるまでは絵図の重要性も一般には宣伝はされていなかったのですから、これは無理もないところです。また、たとえ仄聞していたとしても公的な周知がなされるまでは一切表に出さないというのがルールです。
つまり、行政文書は5月の初旬に原田さんが見いだし、専門家である原口先生に報告され、絵図は企画展準備中の1月に担当学芸員が見いだし、5月24日の企画展で初公開されました。そして、原口先生の新聞コラムで両発見が記事化され一般に広く知られるところとなりました。その後、両名の方とも、その発見にもとづく論考を発表され、きちんと研究史に位置づくようにされました。これが事実です。
こう書きながら、薩長同盟150年という節目の年の、それも同月に締結場所「御花畑」屋敷を明らかにする2種類の史料が、京都と鹿児島で。それも全く別人によって明らかになったというのは驚くべき僥倖だといまさらながら思います。

二枚目の「御花畑絵図」が3月に確認されていたとの記述について

さて、研究ルール上もうひとつ疑問があるのが『佛教大学総合研究所共同研究「近代京都プロジェクト-近代京都の絵図・地図-』(佛教大学総合研究所2016年3月)という報告書の中に「近衞家御花畑」記載の指摘があったという記述で、これは1月の発見(黎明館での発見をさします)につづく、二枚目に発見された絵図であるとされます。
この報告書は明治初年以降、戦前までの9種類の京都市街を描いたまとまった地図をとりあげて、作成目的や来歴などを調べて考察を加え、今後の京都の歴史を研究していく上での基礎的な資料とされたものです。9種類の地図のひとつに「毎町色分町組明細図」というのがあり、この節を担当された鈴木氏が絵図の記載内容を「一覧表」にされ掲載されました。「第2表 毎町色分町組明細図」の記載情報というのがそれで、その中の上京七番組の「屋敷地」の項に、津和野御屋鋪、伏原家、中院家、鷲尾家などという記載とともに「近衞家御花畑」とありました。この絵図そのものは掲載されていませんし、本文での言及もないデータベースですので、「指摘」したというわけではありません。報告書には以下の画像のように表の項目の一つとして掲載されていました。記載内容をもれなく客観的に丁寧にデーターベース化されています。
今回、佐野氏自身このうちの鷲尾家に注目され、この急進派公家の屋敷がここにある歴史的意義を「指摘」されるとともにこの絵図を紹介されました。一方、原田さんも行政文書発見後、佛教大学渡邊秀一先生のところへいって絵図を実見され、2017年10月に小文4)で該当地図のカラー写真付で御花畑屋敷が描かれているもうひとつの絵図と「指摘」して報告されました。
しかしながら、佐野氏は2016年3月という報告書の日付をもって確認されたとされています。黎明館の例では担当学芸員が1月に発見とされました、その考え方ならば、このプロジェクト自体は3年計画なので、2016年3月報告書刊行日以前にすでに「発見」されていたことは間違いないでしょう。それが、1月以前(おそらくそうです)だとすると、黎明館よりもこちらこそが最初に「確認」されていた御花畑絵図だったというおかしなことになってしまいます。この報告書の意義は絵図を忠実に資料化され、記載事項をもらさず一覧表にされ、この絵図の来歴や性格を考察されて史料化されたことです。実際、「御花畑」と「鷲尾家」について、この史料によって研究は進展しました。
この佐野氏の論文には常識的な研究ルールを逸脱した無理な研究史整理が複数見受けられ、これが全体として論文の格調を損なっていると言わざるをえません。

[+]

コメント