寺田屋考(1)ー龍馬脱出ルートー

はじめに

図① 脱出ルート 京都学・歴彩館所蔵

慶応2年1月23日の深夜から翌日未明に、京での薩長会談に陪席後、伏見寺田屋に一人帰り、三吉慎蔵と合流した坂本龍馬は伏見奉行所の捕り方に包囲されました。

部屋に踏み込まれた龍馬はピストルを発砲して捕り方二人を射殺、手に刀創を負うも命からがら寺田屋を脱出したのは有名な話です。
幕末ファンサイトというFBグループで正井良治さんが明治20年代の旧土地台帳を調べられ、寺田屋趾地と現在の寺田屋が建つ地所だけではなく、実はこれらの敷地の北側、車町側の敷地も寺田屋伊助所有の敷地であったことを示す記事を掲載されました。該当ページ
これをみて少し調べてみたところ、京都学・歴彩館に京都市に編入される以前の伏見町役場からの資料である地籍図1)が所蔵されているのを見つけました。インターネットで閲覧できるライブラリに掲載されていました。
その町ごとに作成されている南浜町と車町の図を合成したものが図①です。
現寺田屋がたつ敷地は南浜263、『薩藩九烈士史蹟表』(以下「顕彰銅碑」)という銅碑がたつ敷地が南浜262です。いうまでもなくこれは、文久2年におこった寺田屋騒動で斃れた有馬新七ら九人の薩摩藩士の顕彰を目的にしたものです。この敷地に幕末期の寺田屋が建っていました。

1 明治の地籍図と龍馬脱出ルート

龍馬が幕吏に襲われ寺田屋の居室を飛び出し、大通りに出るまでの状況については三吉慎蔵と龍馬自身は以下のように書き残しています。また明治になって聞きとられた楢崎龍の証言も公になっています。

(三吉)「坂本氏ヲ肩ニ掛ケ、裏ロノ物置ヲ切リ抜ケ、両家程ノ戸締リヲ切リ破リ、挨拶シテ小路ニ遁レ出デ、暫時両人トモ意気ヲ休メ夫ヨリ又走ル」2)

(龍馬)「後のはしごの段を下りて見れバ、敵ハ唯家の店の方計りを守り進む者なし。夫より家の後なる屋そひをくゞり、後の家の雨戸を打破り内に入て見れバ、実に家内之者ハねぼけてにげたと見へて夜具など引てあり。気の毒ながら、其家の立具も何も引はなし後の町に出んと心がけしに、其家随分丈夫なる家にて中〻破れ兼たり。両人して刀を以てさん/″\に切破り、足にて蹈破りなどして町に出て見礼バ人壱人もなし」3)

(龍)「二階の秘密室(寺田屋にては浪人を隠す為め秘密室秘密梯子等を特に設けありし也)へ三吉さんを這入らせ・・・(中略)・・・そんなら引かうと二人は後の椽から飛出しました。私もヤレ安心と庭へ降りよふと欄干へ手を掛けると鮮血なまちがペツたり手へ附いたから、誰れかやられたなと思ひ庭にあつた下駄を一足持つて逃げたのです」4)

「裏口ノ物置」(三吉)と「家の後なる屋そひ」(龍馬)というのは同じ建物を指し、こられの証言をあわせて考えると。寺田屋の主屋の北側には庭と、主屋と連続した平屋の物置小屋があったようです。物置には船宿営業に必要な備品が置かれていたところでしょう。龍馬らがいた部屋はその物置に隣接する庭に直接おりることのできる「秘密梯子」(龍)が設けられていたことがわかります。そこをおりて、物置棟ぞいに奥に進んだのでしょう。
小説や読み物の類いでは、平屋の別棟物置の屋根上を走ったように記述されているものもありますが、誰もそんなことは言っていません。

写真① 寺田屋二階から北をみる。これをみれば屋根伝いという発想になりますね。しかし、違います。

龍は彼らに続いて庭に降り、下駄をもって走って豊後橋(現在の勧進橋)に達しているので、彼らとは逆に店の正面からでたと思われます。
さて、敷地奥は行き止まりでしたが、そこを「両家程ノ戸締リヲ切リ破リ、挨拶シテ小路ニ遁レ出デ」(三吉)、「後の家の雨戸を打破り内に入て見れバ・・・(中略)・・・其家随分丈夫なる家にて中〻破れ兼たり。両人して刀を以てさん/″\に切破り、足にて蹈破り町に出て見礼バ」(龍馬)とあって、三吉は「戸締リ」龍馬は「雨戸」と表現しています。
これについて、土佐郷土史家松村巌が寺田屋の縁者から聞きとりをもとに記述した記録5)があります。

「板塀ありて隣家と相界す。其隣家は寺田屋の貸家にして。医師藤田某の居る所と爲し。塀に小門を開く。時に閉ちて推せども開かず。勢、急なるを以て刀を擧て之を撃破し。藤田の家人に戒しめて騷ぐことなからしめ。走て後街に出で」

三吉と龍馬が破った先にあったのは医師藤田の居宅で寺田屋の貸家であり、大家の寺田屋と通じる戸口があったようです。
寺田屋伊助申立書6)には次のような文言があります。

「(二人は)私方隠宅ヨリ裏ノ通路ニ潜出サレ申候」

この隠宅というのは表通りに面していない裏の居宅のことで同一の家屋を意味すると考えます。
とすると、龍馬と三吉は「秘密梯子」を下りて庭にのがれ、隣接する平屋の物置の横を伝って北側に隣接する藤田医師居宅との間の板戸に行き着き、戸締まりがしてあったのでこれを蹴破って敷地に侵入し、屋内をとおって外に出たと思われます。
以上から、図①の車町281が藤田医師の居宅であり、三吉の記述する二人が暫時息を整えた「小路」は車町282で間違いないと思われます。この敷地は旧土地台帳の登録面積と南北長から考えて幅1間程度しかなく北側から南浜263の敷地裏に続く路地であったと考えられます。281の居宅には282の路地にでる勝手口もあったでしょうから、屋内を彼らは押し通り挨拶や謝罪をしなければならなかったということになります。もっとも三吉は家人を認識して挨拶してますが、龍馬は逃げ去ったと思っていたようです。そういえば龍馬は近眼だったらしいですね。

2 江崎権兵衛らによる土地購入と九烈士顕彰

ここで、寺田屋から車道までの脱出経路を詳しくみたことで、別の重要なことがわかりました。寺田屋所有の敷地は南浜262だけではなかったのです。
ここにたっている「顕彰銅碑」は明治27年の5月に建っています。この建立実現に活躍したのが、江崎権兵衛という人で、かつて伏見町長(伏見区は京都市に編入前は伏見町)もつとめた人物です。伏見の町を顕彰したいという強い動機があったと思われます。江崎は明治26年にこの地を購入し、同時にその北側の車町276、さらに銅碑の除幕を行った翌年5月の翌6月には263番地および寺田屋借家の車町281および、それに隣接する車町282の路地も購入しています。

写真② 『伏見殉難士伝』表紙と奥付

「顕彰銅碑」除幕された後の8月に『伏見殉難士伝』7)という冊子が刊行されています。殉難士の経歴を詳しく書いたものです。その発行所が現寺田屋敷地を住所地とする「伏見殉難士建碑事務所」でした。冊子の奥付には、「南濱二十三番戸」という住所のあとに( )付きで「寺田屋跡」と明記してありました写真②。番戸というのは番地とは異なり、建物に振られた番号です。南濱での江崎の所有地は262と263だけで、262に建物はありませんから、これは263の敷地を指すことになります。

江崎はこの南浜262については「顕彰銅碑」建碑の前年5月に北側の車町276と同時に入手しています。現寺田屋の建つ南浜263は建碑の翌月6月に車町272と同時に、さらに11月に車町271を入手しています。図②で薄く着色した部分がその全体です。

江崎が購入した土地に寺田屋の借家が含まれていること、また建碑事務所の住所地に寺田屋跡と明記されていることから江崎の意図はかつての寺田屋の所有地を意図的に全て買い集めることにあったと推定できます。先にこのことに気づかれたのは前述の正井さんです。今回、さらにその推定を補強する材料が確認できました。

つまり、現寺田屋が建つ敷地もまた寺田屋の一部だったということです。
その後、明治39年に銅碑が建つ敷地(後に伏見町に譲渡)を除いて、それ以外の土地は寺田屋伊助にすべて譲渡され、伊助は南浜263にあった建物を利用して寺田屋の営業を再開します。
この再開は、明治37年の日露開戦前夜に皇后の夢枕に坂本龍馬が海軍の守護神として現れたという話が報道された後、大阪にいた伊助らが当時逓信大臣を務めてた薩摩出身の大浦兼武を通じて皇后に龍馬の遺品を披露したことがきっかけです。皇后は感激して金品を伊助らに下賜し、そのことも報道され、伊助らは、その経緯を記した碑を262の敷地内に建てました。(つづく)

図② 現代地図上の位置

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