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「御花畑」屋敷研究深化のために(3)

2021年5月4日

今回も引き続き、佐野静代氏の論文「近衛家別邸『御花畑』の成立とその政治史上の役割 : 禁裏御用水・桂宮家・尾張藩・薩摩藩との関わりについて」(『人文學』同志社大学 2020年)の疑問点について書いておきたいと思います。

近衛忠房日記

陽明文庫に所蔵で未だ未翻刻の「近衛忠房日記」を佐野氏は利用されています。日記の、安政7(3月に万延に改元)年2月4日条に「『桜木町薩摩別邸』が近衞家へ引き渡されたとの注目すべき記事が見られる」(27P)と書かれ、この時まで桜木邸は薩摩藩所有下にあり、これを近衞家に譲ったものと評価をされ、この代償としてのちに御花畑の貸与が行われたと論じられています。今回はこの点について論じます。

明治四年桜木町屋敷の近衞家の届出
および安政6年12月の口上書

まず、明治四年の「貫族士族受領並拝借買得邸一件」に近衞家が御花畑屋敷などと並べて京都府庁に提出した桜木町屋敷の書類の中に、届出の猶予願いが綴られています。猶予ののち、買得地であることを証明する沽券の写しがあったことを報告した書面も同時に綴られていました。その書面には「元聖護院領年貢地」を買得した沽券の写しがでてきたことが報告されています。ここから、桜木町屋敷は近衞家として聖護院年貢地を買得したもので、薩摩藩から譲られたものではないことがわかります。
また、安政6年の12月に出された近衞家から時の関白九条尚忠への口上書には忠煕が「川東御別殿」と記された桜木町屋敷に隠棲したいとの希望が述べられています。この部分は佐野氏が引用しています。普通に読むとこの時点ですでに桜木町屋敷は近衞家の別殿という扱いで薩摩藩が所有していることをうかがわせる隙はないのですが、なぜか忠房日記の翌安政7年二月四日までは薩摩藩所有であったと断じられます。

近衞忠房日記の解釈について

その根拠は、忠房日記の安政7年2月4日条に「『桜木町薩摩別邸が引き渡された」、五日条に「昨日請取モ相済」という記述があるとして、この時点まで桜木町屋敷は薩摩藩の所有下にあったとされています。
しかし、4日条についての全文は以下のようでした。

安政六年二月

四日 己亥 晴

一 父公ゟ御心申来又廻方ゟ
上り候也

一 予依歓楽平野周輔本庄左馬
招診察ス邪気含ム由申述

一 櫻木町薩之別荘今日廻方ゟ
請取引渡候也

一 玉橋上ノ別荘ヘ帰了也

これをみると、一ケ条目に忠煕(父公)の意向が本邸の忠房に伝えられ、廻方(桜木町屋敷の)からもそのことが報告されてきたことが記されています。
三カ条目は佐野氏の引用とは異なり、この屋敷は「薩之別荘」とあり、佐野氏は省いていますが「廻方」から「請取」と書かれています。この場合、「請取」ったのは忠房でしょう。廻方とは桜木町屋敷の警備・管理にあたっていた薩摩藩士をさします。後述の斉彬公史料に「廻ノ者」とでている役職です。ここで注意すべきはつづいて「引渡候」となっていることです。すなおにこの部分を読むと忠房が記述が省略されている「何か」を「請取」って誰かにそれを「引渡」しているとしか解釈できません。ここは薩摩藩から近衞家に所有権が引き渡されたと解釈するよりも、廻方が持参したものを「請取」って「引渡」したのです。一ケ条目を参照すると、この「請取引渡」は忠煕があらかじめ、忠房と別荘廻方に伝えた意向にもとづくものでしょう。
最後の条にでてくる玉橋というのは忠煕の側室で、身の回りの世話をしていた女性(原田良子さんより教示)です。実は玉橋は二日の夕方に近衛邸に来ていることが2日条に見えます。4日条の一ケ条目で忠煕の考えを伝えたのはこの玉橋です。そして、4日に廻方から「請取」ったものを玉橋に「引渡」し、彼女は上ノ別荘に帰りました。では、病で診察をうけている忠房がこのような仲介をしなければならなかったのは何故でしょう。
佐野氏は九条尚忠への口上書で別邸「御別殿」への隠棲の理由を「慎を解かれた上は本邸へ還住すべきだが、所労がちでもあるため」としています。引用史料の(前略)とされている部分にこのように書いてあると思わせられますが、もう少し詳しく書かれています。すなわち「自分御家政向も御聴ニ相觸御煩敷且又堂上方始参謁之輩有之侯も乍御自由御迷感ニ思召候ニ付」(自然と近衞家の家政動向も耳に触れて煩わしく、さらには堂上公家を始めとして謁見に来る者もあるだろうが、たちまち常識外れで迷惑と思し召されるので)と書かれています。謹慎が解かれたとしても、あくまで隠居の身でいることをくどいぐらいに強調しています。桜田門外の変は3月ですから、井伊直弼がこの時はいまだ権勢をふるってます。この2月の時点でも謹慎は解けたとはいえ監視対象になっていることを強く意識していたのでしょう。佐野論文が翻刻を掲げる大獄開始直後の忠房日記、安政6年1月20日条には、水戸藩との連絡役であった老女村岡が逮捕されるという言語に絶する予想外の厳しい幕府の処断に驚き慌てて御花畑屋敷へ向かう様子が生々しく記録されていて、この経験は忘れがたかったでしょう。繰り返しますが、いまだ井伊政権下ですから、忠煕は慎重に薩摩藩士である桜木町屋敷廻方が自分のもとへ直接出入りすることを避けたと推測できます。
では、この時に引き渡された具体的な物はなんでしょう。おそらく屋敷の管理に関わる具体的なものであったはずです。近衞家が所有権を譲られたなら当主である忠房が請け取るだけでいいわけです。玉橋に引き渡すということはもっと具体的な、たとえば屋敷の指図、あるいは鍵などを想定した方が自然に解釈できると思います。前年12月の九条尚忠への口上書で忠煕は桜木町屋敷への転居を希望しています。その具体的な計画をたてたかったのでしょう。翌日には改修計画をたてるために忠煕は桜木町屋敷を内々に訪れています。おそらく薩摩藩廻方はこの時一時退去していたはずです。
以上、この史料からは薩摩藩の管理責任者から忠煕側室の玉橋へ、忠房経由で屋敷管理が引き継がれた事実のみが読み取れるだけで、薩摩藩が桜木町屋敷を所有していたとか、この日をもって譲渡されたという解釈をすることはできません。井伊直弼政権下でなお慎重に行動しようとしている忠煕の動きが読み取れます。
なお、日記の筆者である近衞忠房にとって「別荘」(原文は別邸ではなく別荘でした)という言い方は「本邸」があってこそ成り立ちます。近衛本邸に対する別荘ととるべきでしょう。父忠煕がいた玉橋が帰った御花畑については同じ四日条で「上ノ別荘」と記されています。「薩之別荘」とは「薩摩が造営し、郁君が使用した近衛家の別荘」という意味にとった方がよさそうです。そして、1850(嘉永三)年の郁姫没後はこの屋敷は近衞家にとって無用のものとなり、薩摩藩がその後の管理を引き続き行っていました。

斉彬公史料

佐野氏は1857(安政4)年、江戸での活動の区切りをつけて帰国する途中に京都伏見藩邸に逗留し嵐山見物をした島津斉彬についての史料を引用されます。
京都留守居役の伊集院俊徳とその部下土師庄十郎がその段取りを万端ととのえました。しかし、嵐山への道中の途中、斉彬本人から本意は見物ではなく、御所まわりを視察することにあるので、その準備をせよと下命されます。そして、御所まわり視察を終えると突然、斉彬は桜木町屋敷へ行きたいといいだします。土師は「御屋敷廻ノ者」(桜木町屋敷を日常管理するものの意味)に道案内とその内の一人に、先行して途中でお茶の買出しと屋敷の戸や障子の掃除することを命じました。この「廻ノ者」が先の忠房日記にある「廻方」とみてよいでしょう。この記録は維新後に市来四郎が土師から聞きとった内容が反映されていて、その聞き取り記録そのものも別掲していますので信頼度の高い記録です。
桜木町屋敷に到着した斉彬の様子を佐野氏は「『御殿縁頰へ土足ノ侭』上がっている」と引用し、御殿の手入れが行き届いていなかったためとして、縁側にそのまま土足で踏み入ったように書かれます。しかし、原文は「御殿縁頰へ土足ノ侭御上リ、暫時御休息」となっています。最初、佐野論文を見たときは荒れていた屋敷を土足であがって視察したのかと思いましたが、原文をみて縁側そのものに土足で上がってどのように休息できるのだろうかと思い直しました。ここは休息のために縁側を使ったのであるから、草履も脱がずにそのまま縁側に腰掛けた様子の表現であると理解した方が自然だと思います。

斉彬、桜木町屋敷視察の目的

この時に斉彬は伊集院および土師に「錦御邸ハ市中ニテ、時変アルトキハ、懸念ナル場所ナレハ、山手ノ方ニ屋敷地見立ツヘシトノ仰ニテ、黒谷ヨリ岡崎辺ヲ御指シ、彼辺ニ見計フヘシ」と下命しました。対外危機の中、御所の警衛が手薄であり、黒船が襲来して変事があれば、兵を近衞家に詰め、もし京外に行幸されるようなことがあれば、近衞家に付き従っていくようにとも諭していることが記録にみえます。そのためには錦屋敷では不足で、新たな藩邸を岡崎あたりに造営せよと指示をしたのです。
史料が語るところは桜木屋敷はこの時、土足で室内に踏み込まなければならないほど荒れていた訳ではないようです。実際、廻方が戸や障子の掃除をする程度で藩主を受け入れられるぐらいに管理されていました。斉彬としては内密の話をし、万一所司代に知られても亡き従姉妹の住居であった桜木屋敷に寄っただけであると理由づけできる場所として選び、縁側に腰をかけ岡崎の方を指さしながら指示を与えることが目的だったのです。屋敷の視察を目的とはしていないことが理解されます。近衞家から預かっている屋敷である以上、あれはてた状態のままにはいかなかったはずです。なお、この時に下命された屋敷はのちに岡崎屋敷として実現しています。

御花畑邸と桜木町屋敷

佐野氏は論文28pで「以上のように安政末年に桜木御殿が薩摩藩から近衛家へ譲渡された事実が、後に御花畑邸が薩摩藩に貸与される前提となっていることを理解すべきであろう。維学心院のために御花畑邸を整備した尾張藩を差し置いて、薩摩藩にこの邸が提供された背景には、以上のような桜木御殿の代替という意味があったのである」とされますが、以上みてきたように薩摩藩から近衞家へ譲渡された事実はありません。
御花畑屋敷は確かに忠煕母の維君(維学心院)の別邸として、嫁した文化三(1806)年ごろに尾張藩によって建設された可能性が高いと思われます。しかし、その後天保年間(佐野氏の推定では11年か12年ごろ)に維学心院の隠居所として尾張藩に加えて薩摩藩も関わって整備されたことは佐野氏も認めるところです。
一方、薩摩藩については尾張藩以上に近衞家との縁戚関係は深く、特に8代藩主島津重豪の娘茂姫が将軍家斉の正室となるにあたって近衞家の役割は大きかった。その結果、重豪もまた高輪下馬将軍と称されるほどの権勢を手に入れることになった。忠煕の正室、郁姫もまた重豪の孫にあたり、その入輿の際(文政年間に桜木町御殿が造営されたのでしょう。1850(嘉永3)年に郁姫はなくなっているので、それ以後は薩摩藩廻方が管理していたことになります。
忠煕が自主謹慎先として御花畑屋敷をまず選んだ理由です。この時点では御花畑屋敷の方が1840(天保11)年ごろの改修以来20年ほどであるのに対して、郁姫と忠煕の婚約が1825(文政8)年ですから、桜木町屋敷は築35年近くで老朽化が進んでいたという事情かもしれません。
また、大獄の際には大あわてで本邸をでています。近衛今出川本邸からの距離が御花畑屋敷の方が単純に近い方が都合がよかったのかもしれません。
さらに穿った見方をすれば、佐野氏が指摘するように恭順の意を示すためにあえて彦根藩邸に近い御花畑屋敷を選んだ可能性もあります。そうであれば、桜木町屋敷への転居手順も薩摩藩との接触を可能な限りさけているという点も頷けます。
しかし、いずれの屋敷も他家から嫁いできた姫君の別荘として造営されており、また拝領地ではなく買得地の抱屋敷という共通点があります。施設・設備の点からみても前近衞家当主の隠居所としては不足するものだったでしょう。もっとも、九条尚忠への口上書にみられるように幕府をはばかって完全引退生活を送る意志を見せねばならない忠煕にとってはむしろそれが好都合だったのでしょう。
しかし、謹慎が解け、さらに井伊大老が暗殺されたことによって忠煕は自分に相応しい邸宅を欲するにいたり、最終的に桜木町屋敷を改修して隠居所とすることにしたと思われます。
いずれにしても、1860(安政7)年2月の忠房日記の記述から桜木町屋敷が薩摩藩所有であることは導きだせません。この記述からは桜木町屋敷を積極的に望んだのは忠煕本人であったことがうかがえます。その結果、御花畑屋敷は空き家となり、在京施設を拡充しなければならなくなっていた薩摩藩が借り受けることになったと思われます。
まとめ
以上、3回にわたって佐野静代氏が御花畑屋敷に関して主張された点について調べ直し、あらたな見解を得ることができました。もっとも重要な点についてあらためてまとめておきたいと思います。なお、佐野氏の主要な主張をすべて批判することになりましたが、多くの資料を提示していただいたおかげで御花畑屋敷についてさらに深めることができました。
① 佐野氏が御花畑屋敷の前身と主張した江戸中期の桂宮小山屋敷は全くの別場所に存在していた。その結果、佐野氏が分析した禁裏御用水についての考察も大半が成立せず、禁裏御用水の流路の変遷については新たな資料の提示と考察が必要であることが明らかになった。
② 慶応3年にいたって近衞家が尾張藩の協力を得て薩摩藩の御花畑屋敷の使用停止を図っていたという主張は、佐野氏自身が根拠とした尾崎忠征日記の省略された前後部分を普通に読めば成り立たず、薩摩藩に対する反感からくる実力行使ではなかった。ただし、近衞家が薩摩藩急進派の動きに敏感になっていたことは多くの先行研究が指摘しているところではあるが、維学心院旧殿の移築に関わる要望さえ尾張藩からやんわり断られている状況では近衞家が薩摩藩の行動に掣肘を加えられる状況ではなかったことが推定できた。
③ 桜木町屋敷は安政7年2月までは薩摩藩の所有下にあったという主張は、やはり佐野氏が根拠とした近衛忠房日記を読めば根拠薄弱であることが理解され、該当日記の記述はむしろ忠煕が謹慎が解けたとはいえなお、薩摩藩との直接接触を慎重に回避していた様子をうかがう史料として活用できた。
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