寺田屋考(6)ー総括ー

5回にわたって「寺田屋考」を綴ってきました。その成果を総括しておきたいと思います。
京都伏見の寺田屋は幕末におこった二つの出来事によって有名です。ひとつは文久2年4月におこった急進薩摩藩士が主命によって討たれた事件、もうひとつは慶応2年1月、薩長同盟締結直後に寺田屋へ帰ってきた坂本龍馬が幕吏に捕縛されそうになった事件です。
寺田屋は長らく、幕末以来そのままの状態で保存されていると建物由来を説明していました。しかし、焼亡については多くの資料があるので研究者の間では再建建物であることはなかば常識でした。しかし、そのことについて公に指摘されることはありませんでした。

中村武生氏「寺田屋伝説の虚実」の「結論」

その「フィクション」を本格的に暴いて公にしたのが、中村武生氏の「寺田屋伝説の虚実」という京都民報の連載です。現在、その連載は『京都の江戸時代をあるく』(文理閣 2008年)にまとめられています。
この連載をみた週刊ポストが当時「平成の寺田屋騒動」として取り上げ、京都市が調査にのりだしました。結果、「観光偽装」という言葉まで生まれました。これらの出来事は全国の幕末ファンに驚愕をもって受け入れられました「寺田屋考」はこの見方を覆すために書きました。
中村氏が著述で、寺田家の手を離れるまでの経過から提示された結論は以下のとおりです。
  1. 幕末期の寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで焼失した。
  2. 幕末当時の建物の敷地は東隣であり、現建物は当時の土地・建物とは無関係である。従って、刀傷や弾痕もお龍の風呂もフィクション
  3. 明治39年の七代目寺田屋伊助は「皇后の霊夢」報道で坂本龍馬遺蹟としての価値を知り、これは「商売」になると再興にのりだした。
  4. 再興するにあたっては旧地を望んだが、すでにそこには明治27年に元町長の江崎権兵衛らによる九烈士の顕彰碑が建立されていたので、江崎から西隣の土地を譲りうけて再興した。
  5. 再興後は借金を重ね自転車操業となり、ついには有馬新七や坂本龍馬の遺墨、遺品まで手放すことになり、最終的に大正 3(1914)年に人手にわたった。
以下、番号順にこれまでのブログ内容にそって私見を総括します。

①について

寺田屋建物の変遷 概念図

焼けたことははっきりしていますが、全焼したと断定できる資料はありません。『京都維新史跡』には「旧宅材料をもって再建」という記述があります。これについて中村氏は、「そんな由緒を伊助は書き残していない」ことをもって「誤伝」と断定されますが、逆に完全焼失の典拠もないのが事実です。場所を変えて再建されたと言うことのみが確定された事実となります。『薩藩九烈士遺蹟表』碑文の内容は「遺址」であることを確定しているだけで、被災状況を伝えているわけではありません。

②について

京都学・歴彩館所蔵所蔵の伏見町役場による地籍図
着色している敷地を江崎が購入、262を除いて伊助へ全て譲渡

再建であることは間違いありませんが、当時の土地・建物と「無関係」であるとはいえません。中村氏は現在九烈士の顕彰碑が建つ東隣と現寺田屋敷地だけを問題にされていますが、その北側車町の土地も含めて元伏見町長江崎権兵衛によってまとまって取得されています。龍馬の逃亡ルートから車町側で入手された敷地は幕末時の寺田屋所有のものであることが明らかです。そこから、江崎は意図的にかつての寺田屋所有地を全て取得していたことが強く推測できます。したがって、現寺田屋の敷地もかつての寺田屋所有地であった蓋然性が強いことがわかります。そして、それらの敷地はまとめて全部伊助に譲渡されます。

③について

土地登記簿の所有権部分

中村氏は伊助および妹婿荒木が「皇后の霊夢」によって商売になると考えて江崎から土地を購入したと断定されますが、土地登記簿によれば、江崎から伊助への所有権移動の原因は「契約に因る移転」であって「売買」とは記載されていません。ハナの「家督相続」以後はすべて「売買」となっていて、「契約」とは「売買」以外の譲渡であったことが強く推測できます。

また、登記簿は既存の建物に対する江崎の所有権が最初に登記され、同日付けで伊助の所有権が登記されています。建物登記はこの時がはじめてですが、この時に新築されたわけではありません。伊助がのちに平屋を建て替えたときには「新築」と明記されています。
中村氏は以上のようなことを見落としていて、結果的に事実とはことなる「非事実」を叙述していることになります。私は伏見町および寺田屋の顕彰に熱心であった江崎が寺田屋を史跡として、遺墨や遺品を展観できる旅館として運営することを条件として伊助に無償譲渡したと考えています。伊助の再開動機が生業を得るためであったことは間違いないでしょうが、江崎らによる強い勧誘がなければ実現しなかったでしょう。

④について

『伏見殉難士伝』奥付

明治27年8月刊行の『伏見殉難士伝』には現寺田屋敷地の住所に伏見殉難士建碑事務所の記載があります。江崎がこの本刊行の2ヶ月前に入手したこの地には既存の建物がすでに存在していたことを意味します。2ヶ月では家はたちません。そして、その住所は括弧書きで、「寺田屋跡」と明記されています。この建物は明治29年にこの地を訪れた朝日新聞記者西村天囚によっても「寺田屋」と認識されています。この資料は京都市歴史資料館の報告にあります。すでに現寺田屋建物は西隣にあり、西村はそれを尋ねて、そこにいた2人の男性と語り合い『伏見殉難士伝』ももらっています。ただし、原文は「『殉難士伝』を贈れり」ですが、「贈られり」の誤植でしょう。
中村氏も『殉難士伝』の奥付から西隣を事務所用地にしたと推測し、顕彰碑がたっている旧地は譲ってくれとはいえないので、この西隣地を伊助がのぞんで、江崎がそれに応えたとされました。しかし、どうも中村氏は西村天囚の資料はご存じなく、西隣に事務所としてどのようなものが建っていたのかについては不明だったのでしょう。
しかし、西村は書いています。「寺田屋は,伏見の兵火に焚けしかば,家の跡を取払ひて,近き比此に銅碑を建てゝ,寺田屋は其西に建てけり」と。京都市調査では前段の部分がポイントでしたが、重要なのは後段です。すでに、このとき寺田屋は西隣に建っていたのです。そこを江崎は事務所にしたのです。
私は、明治5年の行幸で上陸地点が寺田屋浜と明記されているので、この時点で寺田屋は「船宿」として営業していたと考えられると思っています。また、中村氏もそのように考えています。

寺田屋らしき建物『淀川両岸一覧』文久元年刊

私は船宿の特性上、交通路の確保の上からも再開は急務であったことも傍証になると考えます。「船宿」は単なる旅館ではありません。当時は淀川水運の仕組みに組み込まれた存在だったのです。

したがって、伊助が譲り受けたのは土地だけではなく、そこにあった建物も含めて譲り受けました。それは前述のように登記簿に明記してあります。またそれ以前、江崎が明治27年に建てたものでもありません。
中村氏は結局、現寺田屋は建物の新築も含めて明治38年以後に再興したと考えられています。
一番大事な結論です。現在の寺田屋建物は被災直後におとせ自身が再建し、寺田屋の営業をおこなった場所で、顕彰碑が建つ東隣は現在と同じく再建寺田屋の庭として機能していたと考えるのが自然です。明治風の出格子など、明治の実用旅館として必要な改装はこの時に行われているのでしょう。
伊助は明治39年に出した寺田屋再開広告に、「旧宅に帰り」と書いています。文字通り、おとせが再建した旧宅に伊助は帰ったのです。旧宅は土地ではなく、建物そのものを表していると考えます。

⑤について

寺田屋考の(5)に詳しく書きました。借金を重ねて自転車操業になったことは間違いないが、中村氏の登記簿の分析は不十分です。
特に小泉新七が設定した7000円の抵当権はあまりに巨額です。明治末年ごろ、何を基準とするかによって違いますが、現在の額にして5000万以上であることは確かです。すでに自転車操業に陥っている寺田屋に対する貸付としては考えられない金額です。中村氏はこのお金が返済されたことが確認できないのは不思議として、その背景として遺墨、遺品など「家宝」の売却を想定されますが、この「家宝」は元薩摩藩士樺山らによって400円で買い戻されています。そして、この7000円の抵当権は越山氏に所有権が移ってから、「弁済」ではなく、「免除」と登記簿に明記されています。これらのことを中村氏は見落とされています。抵当権が設定されれば必ず抹消されるという常識なのですが。
この小泉氏による7000円という高額融通は寺田屋支援の性格を強くもつものであったことを示唆するのではないでしょうか。また、この頃伏見町から、おそらく税金滞納で差し押さえを受けている記録もありました。これも中村氏は特に問題とされていませんが、これが「家宝」の質入れに大きく関与しているのではないでしょうか。支援的性格をもつ小泉氏に対して「家宝」を手放して返済するのは本末転倒だと思います。
元薩摩藩士樺山らが「家宝」を買い戻し、ハナが出席した坂本龍馬50年祭の時点では参列者に披露できる状態になっていたことは間違いないでしょう。実際に、参加者には遺墨や遺品が展観されていることが記録されています。ところが、中村氏はこの時に寺田屋が出したパンフレットに所蔵もしていない「家宝」を掲載していることを指摘して「所蔵しているふりをしないと商売がやっていけないことを知っていたのだろう」としますが、あまりにもハナに対して愛のない書きぶりです。
中村氏は樺山らの買い戻しの時期、府立図書館への寄贈という事実は提示されるのですが、その意味は深く考えられていません。ただ、それらの家宝が寺田屋所蔵ではなくなっていることを確認するのみです。どうして樺山らが「家宝」の売却を知ったのか、それをのちに府立図書館に寄贈したのか、問題提起さえもありません。
私は、それを知ったのはハナからの窮状の訴えであり、買い戻しは、それがなければ寺田屋ではなく、さらには龍馬50年祭も控えていたからでしょう。樺山ら元薩摩藩士にとってはおとせは大恩人であり、ハナはその嫁なのです。窮状を救うのにためらいはなかったでしょう。
そして、寄贈は、江崎と伊助が約束した史跡寺田屋の経営がいよいよ行き詰まり、ハナがその経営を断念したからに他ならないと思います。ここに再興寺田屋は終焉したのです。

おわりに

以上、中村氏の著作は残念ながら、寺田屋の真実を叙述したとはいえません。幕末期の建物そのままという説明は虚偽であることを暴いただけにすぎないといえます。しかし、この著作がきっかけとなって現在の寺田屋建物の価値が不当に低く評価されていることも事実です。
以上のべてきたように、現寺田屋建物は歴史的にはおとせが再建した寺田屋建物であり、江戸時代の伏見船宿の姿を伝える貴重な遺構である蓋然性が非常に高くなりました。『淀川両岸一覧』のさし絵にも寺田屋とそっくりな建物が、その位置に描かれています。
しかし、中村氏の著作を読んだ幕末史ファンは「私も騙されていた。明治後期に再建された観光用の建物なのか」との感想をもってしまっている人が多数います。
あまりに問題が大きくなったことに驚いたのか、中村氏は週刊ポストの記事と自分は関係ないと書き、さらに「現在の寺田屋にいかなる『非事実』があろうが、その歴史的意義ははなはだ大きい」と書いています。本文著述のどこに,その歴史的意義が抽出されているのでしょうか。中村氏自身、多くの「非事実」を推測や想定ではなく「事実」として書いてしまっています。
また、「建物が後世のものであろうが、建設地が幕末の位置の隣地であろうが、全国の龍馬ファンがその心のよりどころとして尋ねたい場所」とも書かれていますが、この著述をよめば龍馬ファンはがっかりするばかりです。この著作を乗り越えて、正しく現在の寺田屋を評価すべき時がきているように思います。

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