寺田屋考(5)ー再興寺田屋の終焉ー

はじめに

寺田屋が明治39年に再開してからの展開を中村氏は詳細に追っている1)
京都法務局伏見出張所に保管されている旧土地台帳(以下台帳)、移記閉鎖簿冊(以下簿冊)が基本の資料です。中村氏の著作はこの基本資料の読み方に問題があり、それにもとづく想像も非事実が多いので、あらためて読み直してみたいと思います。中村氏の間違いについては都度指摘いたします。

登記簿表題部
登記簿は譲渡者、被譲渡者合意の上で登記され、権利関係を公証するものです。土地と建物は別簿冊です。南浜263については土地登記は1回、建物登記については既存2棟の建物登記が壱番でおこなわれ、2番で平家の滅失が登記され、3番で平家新築が登記されています。

再興の事情

明治38年5月1日に寺田屋伊助は江崎権兵衛から南浜263を「契約」により登記されています。譲渡の日付は前日の4月30日と記されています。中村氏はこの土地と建物を伊助が「購入」(169P)としていますが、台帳には「所有権移転」、簿冊には「契約」により登記と書いてあります。「売買」の文字はありません。
すでに述べたように、この譲渡は再開寺田屋が、九烈士や坂本の遺品を展示、顕彰する施設としての役割を果たすことを条件として行われた無償譲渡ではないかと考えています。

所有権入手から平屋建て替えまで

明治38年5月1日、「契約」によって旧地・旧宅を所有した伊助は即日にこれを抵当入れて広島のKT氏から1400円を借り(①)て開業資金にしました。これについては明治41年3月19日に弁済(②)し、再び即日に伏見町のCK氏から3000円を借り(③)ています。これは中村氏も指摘するとおり、北側平屋建替の資金(A)だったのでしょう。

寺田ハナの経営努力

明治42(1909)年1月7日にハナが伊助死去にともなって家督相続(B)しました。3月9日に600円をCK氏から追加で借り(④)ました。中村氏は、すでに3000円借りているのによく借りられたとし、この年の9月にハナの名義で一族の墓が建てられているので「香華料」として融通されたと推定しています。ただし、中村氏の本ではこの追加に借りた日付を1908年12月31日(192P)となっていますが、これはおそらく校正ミスでしょう。この④については翌年9月に弁済(⑤)しています。③はまだ完済されず、⑧に持ち越されています。中村氏はCK氏からの借金を完済(192P)したとしていますが、これは間違いです。
そして、明治43(1910)年3月と翌年2月に滋賀県のMS氏から合計3000円借り(⑥⑦)ています。この借金を明治45(1912)年4月、京都市の資産家小泉新七から7000円借り(⑪)て、CK氏への借金(③)とともに返済(⑧⑨⑩)しました。
大正 2(1913)年には京都市のOS氏から400円を借り(⑫)ています。中村氏は小泉氏からの7000円も返せていないのに、400円は借りることはできないとして、何か「裏」(193P)があるとされました。さらに7000円がいつ返されたかわからない(192P)とされますが、返済も抵当権抹消として必ず登記され、⑮すなわち土地・建物がハナの手を離れてから「免除」されていることがわかります。
中村氏はこの⑮には触れられず、⑪は⑫の前に返されたはずとして、その解答を次回の連載にわざわざ持ち越して、「家宝(遺墨や遺品)」の売却だと想定(200P)しますが、この想定は当然間違っています。
ハナは実際には合計7400円の借金(⑪⑫)を抱えたまま、大正 2(1913)年10月に京都へ来た皇太后に面会(C)して下賜を受けます。しかし、満足のいく現金は手に入らず、その同じ10月に伏見町会議員の越山氏から1200円を借り(⑬)ることになります。そして、翌年3月5日に越山氏への「売買」が成立し、越山氏の所有権の仮登記が3月14日付けで行われています。仮登記というのは、所有権の移転はまだだが、将来的に越山氏が所有する権利があることを、第3者(たとえば、あらたな買い主)に対抗するために行われます。最終的に越山氏の手にはいることは時間の問題となりました。同時に同じ日付で、越山氏からの借金⑬は⑭弁済として処理されました。
中村氏はこの時点で、土地・建物が越山氏の手にわたったとしますが、不正確です。越山氏の所有権が登記されるのは1918(大正7)年になってからです。

再興「寺田屋」の終焉と「家宝」のゆくえ

この越山氏仮登記から正式登記までの約3年間に何があったのでしょうか。
表にはDEGFHIJとして示しました。
まず、最大の支援者である江崎権兵衛が亡くなる(E)直前に越山氏の仮登記(D)がおこなわれ、その後、12月には土地・建物が伏見町から差し押さえ(G)られます。税金の滞納でしょうか。まだ所有権はハナにあるので、納税義務はハナです。ことここにいたって、ハナも「家宝」もやむおえず質にいれなければならなくなったのでしょう。この伏見町からの「差押」は注意しなければなりません。ハナは困ったでしょう。「家宝」があってこその再興寺田屋なのですから。なお、この差し押さえは越山氏に所有権が正式登記されるまで付いたままです。税金がはらえないほど経営は追い詰められていました。
「家宝」が手を離れた。それを救ったのが、元薩摩藩士の樺山資紀、東郷吉太郎らです。彼らが「家宝」を400円で買い戻しました(F)2)。彼らはなぜ「家宝」が人手にわたったことを知ったのでしょうか。ハナから窮状が伝えられのだと思います。
こうして、元薩摩藩士の所有となったことで、一年後に開かれた龍馬50年祭のときにはハナも晴れて参加(H)し、龍馬遺品を参列者に披露することもできたでしょう。中村氏が指摘するこの当時刊行された寺田屋冊子『忠魂義胆』に「家宝」が掲載されていることも理解できます。それらは買い戻されて「所蔵」ではなかったけれど、寺田屋に実際にあったのです。樺山らが私蔵しても彼らにとって意味はありません。中村氏が想像するような商売のために所蔵しているふり(200P)をしているわけではありません。実際、手元にないものを掲載して、見せて欲しいと言われたらどうするのでしょうか。
しかし、龍馬50年祭から4ヶ月後、樺山らは寺田屋「家宝」を京都府立図書館に寄贈(I)します。ここで、寺田屋から「家宝」が永久になくなりました。先に江崎と伊助の「契約」は再興寺田屋で遺品や遺墨などを展観することが条件のひとつであったことを推定しました。それが時代の趨勢の中で経営がたちゆかなくなりました。「家宝」の危機まで招いたことでハナも決意したのでしょう。「家宝」が離れた今、再興寺田屋はここに終焉を迎えたといっていいでしょう。この時期は日露戦争後、第一次大戦前で極めて厳しい不況に日本が喘いでいる時期でした。日露戦争の軍神となった坂本龍馬も寺田屋をまもりきれませんでした。
一年後、越山氏の手に正式に所有権が移り(J)ますが、その際には小泉新七氏とOS氏からの借金7400円が抵当権として付いたままでした。この処理はさらに1年後、⑮と⑯のように処理されます。⑮の免除の理由がわかりません。小泉新七氏はこの年にはもう喜寿こえる年齢で、翌年には死去しています。また、7000円もの大金を経営が苦しくなっていた寺田屋に融通したのは商売抜きであったのでしょう。小泉新七は呉服商を営む資産家で、京都府会議員もつとめています。また、八坂神社西門の狛犬も明治15年に仲間とともに建立していたりします。史跡寺田屋に対する援助的な意味があったのかも知れませんが、詳しいことはわかりません。なお、この寄進された狛犬は現在は西門内に移動しています。現在門前にあるものとは異なります。

おわりに

以上、見てきたように寺田屋の再興は地元の江崎氏を中心に元薩摩藩士の後援があって実現しました。彼らの最大の目的は無念に亡くなった薩藩九烈士の顕彰と、その現場であった寺田屋遺址の保全だったのでしょう。おとせの縁者である伊助やハナは元薩摩藩士によっては余人に代えがたい親しみがあったでしょう。彼らからの熱心な勧誘によって伊助ら寺田家は再興を決意したと思われます。中村氏の説かれるような伊助と妹婿荒木が商売気を出して再興したとは思えません。逆にそんなことなら彼らも応援する気にはならなかったでしょう。
再興「寺田屋」が開業したのが、明治39(1906)年5月で、経営に行き詰まり「家宝」が最終的に手を離れたのが大正6(1917)年3月、約11年間の営業でした。
※ 最後に登記簿などから判明したことを列挙しておきます。
  • 現在の寺田屋建物は江崎権兵衛が明治27年に土地とともに購入し、伏見殉難士建碑事務所をおいていた既存建物を、明治38年5月1日に江崎の所有物件としてはじめて登記し、即日寺田伊助に「契約」の上で譲渡されました。
  • 江崎が死去した大正3年に越山元之助が1200円の債権をもとに仮登記を行い、将来の買収権を確保しました。所有権はまだ移転していません。
  • 同じ頃、伏見町からも差し押さえを受けていて、このころ経営が極めて苦しく、「家宝」も質にいれざるをえない状態になったことが推定されます。
  • 旧薩摩藩士樺山らが窮状を知り、坂本龍馬50年祭に間に合うように「家宝」を買い戻しました。
  • その後、「家宝」は樺山らによって京都府に寄贈され、大正7年3月23日には現寺田屋は寺田家の手を離れ、再興「寺田屋」は一区切りとなります。

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