寺田屋考(4)ー船宿「寺田屋」ー

寺田屋は船宿でした。船宿とはどんな様子で営業していたのでしょうか。
以下、参考文献をもとに寺田屋の情報も付け加えてお伝えしたいと思います。以下の文献を参考にしました。
<参考文献>
宗正五十緒「伏見船宿」(「名所図絵と伏見」『伏見の歴史と文化』京・伏見学叢書第1巻 聖母女学院短期大学 伏見楽研究会 清文堂 2003年)
京都府伏見町御大礼記念京都府伏見町誌』368頁「経済編 水運」1929年

船宿のにぎわい

落語『三十石』

上方落語の定番に『三十石、夢の通い路』というのがあり、そのなかで船宿の業務が描写されています。
京都見物を終えて大坂に下るために伏見湊へやってきた江戸っ子二人が、夜船にのるために寺田屋にはいります。相部屋の待ち部屋にとおされると、番頭が上がってきて実の名前と所を申告して欲しいといってきます。この頃は嘘の名前をいう輩が多いとのことで、お役人に届けなければいけませんのでということらしい。そのうちにちょっとした食事がでてきます。そとで「船がでるぞ~」という声が外から聞こえてくるとでてきます。あつあつで客がたくさん食べられないことを見越して、おかわりさせないということらしいのですね。これは落語ですけど、そんなこともあったんでしょうね。参考にした本によると、旅客船の中心は三十石船で、大きさは長さ17m、幅2,5mほどの船でした。乗船定員は28人で、船頭は4人でした。天保8年と乗船案内によると、下りは84文で上りは倍以上の180文となっています。大きくは昼行と夜行があり、夜にでた便は寝ている間に大坂に着くのでずいぶんと重宝されたらしいです。しかし、あまり早く大坂についても仕方がないので途中で時間調整もされました。
伏見と大坂の船宿はセットになっていて、天保8年の乗船案内によると伏見宝来橋寺田屋は大坂八軒屋堺屋と組になっていました。八軒屋浜は天満橋の南詰西側にあり、現在は大阪水上バスの乗船場になっています。
以上のような内容は、前に紹介したおとせの娘の回顧談にもあります。当時の三十石船の船頭は6人が普通でしたが、寺田屋の船には8人いて船足が速く、ずいぶんと人気があって繁盛したそうです。朝、昼それぞれ三艘、夜は四,五艘下り船がでて、上り船もそれぐらいあったそうです。船賃は下りが天保銭1枚=約80文と記憶されています。また収入は船賃からの手数料、酒飯代、茶代などで、常連でなければ宿泊は出来なかったようです。薩摩藩はここを藩士の定宿としていました。龍馬も最初は薩摩藩からの紹介であったとのことです。

文久元年の案内書

『淀川両岸一覧』(文久元年刊)より

『淀川両岸一覧』という文久元年発行の案内書があります。そこには伏見京橋を描いたさし絵もあります。手前に大きく描かれている橋が京橋で、その向こうにみえる橋が蓬莱(宝来)橋です。その間、浜の前に寺田屋はたっています。さし絵では現在の寺田屋と外見がそっくりな平入り2階建ての建物がみえます。寺田屋の住所は「南浜町宝来橋西へ入」です。

次の図は伏見のどこかわかりませんが、船宿の中の様子を描いたさし絵です。こちらは「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」内で公開されている、坪内逍遙旧蔵のものです。上の京橋の様子についても収録されています。
昼の混雑時分のようです。帳場には主人とその内儀がいます。内儀の後ろの小状刺というのは船宿気付で届いた手紙を保管しておく場所です。客に相対しているいるのは番頭でしょうか。右下では船待ちの客が飲食中です。左下には表座敷でのんびり過ごす上客が描かれています。奥の座敷にとおされようとしているのは家来をつれた武士です。
これをみると船客の多数である庶民は土間に板敷きの座で待合したようです。お金持ちの町人は2階表座敷、侍は奥の式台付の座敷が利用されています。寺田屋は奥座敷があったようにはみえないので、家来をつれた武士などが利用するところではなかったのでしょう。
朝早くから夜遅くまで上り下りの船客で船宿は始終賑わいをみせていたでしょう。おとせや龍は一日中働きづめで、入浴も深夜になろうかです。旅館というより、船の待合所といった風情です。待合所ですから人の出入りも多く、寺田屋もかなり開放的なつくりになっていたのでしょう。前に紹介した入口が二つある是枝柳右衛門のスケッチは割とよく実際を伝えているようにみえます。

「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」よりリンク画像

船宿の終焉

すでに述べたように伏見と大坂の船宿はセットになっています。大坂八軒屋堺屋からでた船は必ず、伏見宝来橋の寺田屋に着き、そこで下船をすることになります。なので、寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで被災してもすぐに営業を再開しなければなりませんでした。いろいろな付加サービスに苦労はしつつ、基本的な乗客の送り出し、受け入れはしなければならなかったと思われます。寺田屋もおとせの龍への手紙にあるように「内にかり屋」を建てて営業を再開したのでしょう。
しかし、明治と改元されたこの年の11月には新政府によって淀川水運での蒸気船利用をすすめる政策が打ち出されました。社会変革の大きな波がやってきました。
12月には大坂の綿屋が伏見役所に汽船就航のための浚渫を願いでています。この時に綿屋は汽船にのってきて南浜馬借前に停泊させました。馬借前というのは寺田屋浜の並び、宝来橋より東に位置します。明治5年に、政府は船舶運航に税金を課しています。この年には17トン級の2隻の蒸気船が運航しています。しかし、「然れども従来の諸船は猶活躍し、水運は依然旺盛を示し」(伏見町誌)という状況だったようです。大阪にも伏見にも汽船会社がつくられ隆盛するのは明治20年頃で、それ以後急速に三十石船は衰退しました。25年後に伊助がもどってきて寺田屋を再開するとき、それはもはや「船宿」ではありえなかったのです。
すでに明治5年の行幸頃にはおとせによって寺田屋は再建されていたと推定しました。まだ、この頃は蒸気船は主役ではなかったのです。おとせがなくなるのは明治10年なので、まだまだ寺田屋の需要はあったと思われます。しかし、その死後3年にして後継ぎの伊助は廃業してしまいます。過書奉行所支配下の水運は、それに関わる商人達の独占権も保証していました。明治になると自由競争の時代です。伊助には資本主義時代を乗り切れる商才がなかったのでしょうか。

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