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寺田屋考(3)ーおとせが建てたー

2021年1月22日

5 現在の建物をどう考えるべきか

いよいよ、現在の建物そのものの変遷を時代順に考えてみます。

(1)慶応4年戊辰戦争直後の寺田屋建物

「歴史資料館報告」では、寺田屋の主要部分が焼損したことは確かですが、全焼であったか否かまでは明確ではなく、「焼けた」と結論されています。先述の寺田屋伊助申立書には、志士からもらった詩歌の書などもあったが「家屋諸共焼失し」惜しいことをしたと書いています。注意すべきは焼失したのは詩歌の書であって家屋も書と同様に焼失したといっているわけではありません。
さらに寺田屋おとせから龍馬の妻おりょうにあてた手紙1))があります。その中で「内もかり(仮)屋」を建てたということをおとせが書いています。「内も」というのは敷地内という意味にとっておきたいと思います。
おとせの長女の回顧談2)では船宿の収入源は船賃からの手数料、乗客の酒飯代、茶代であって、不特定多数の者を宿泊させる宿ではなかったとあります。「よほど懇意の人でなければ宿泊は断っていた」ともあります。したがって、戊辰戦争で建物が焼けたとしても船客のための差配業務は必要で、すぐに営業を再開しなければならなかったはずです。

(2)明治5年の天皇行幸

地籍図と被災範囲をしめす瓦版

明治5年5月23日に明治天皇が西国行幸したとき、大阪から船で遡って伏見に上陸しました。その時の記録に「寺田屋前浜より御上陸」という記載3)があります。上陸後、天皇は旧本陣(福井与左衛門邸)で休息しています。この福井邸を示す石碑があったようですが、現在は不明です。しかし、南浜の地籍図には福井とメモ書きされている大きな地所があるので図に示した範囲が旧本陣となります。この福井邸は「資料館報告」に掲載されている当時の瓦版類の被災を示す範囲に含まれているのは明らかです。しかし、この被災時からわずか4年余りで天皇を迎えられる建物となっています。

南浜は完全に焼失したという状況ではなかったのではないでしょう。建物ごとに被災状況はまちまちだったのでしょう。明治天皇紀にははっきりと寺田屋浜と明記されていますから、この行幸の時点で寺田屋は、営業していたことがわかります。

(3)西村天囚の記録

「歴史資料館報告」中の検討資料9に明治29年4月19日、すなわち「顕彰銅碑」建立のまる2年後に、ここを訪れた朝日新聞記者西村天囚の記録4)が掲載されています。

ここで注目したいのは「寺田屋は,伏見の兵火に焚けしかば,家の跡を取拂ひて,近き比此に銅碑を建てゝ,寺田屋は其西に建てけり」という記述です。先に触れたように、この西村のいう寺田屋は2年前の明治27年8月、ここに「伏見殉難士顕彰碑事務所」が設けられていた建物になります。西村が来訪したときにはこの建物にいた2人の人物と往事を語り合い、『伏見殉難士伝』をもらっています。この時点ですでに、南浜263には建物が建っていました。

(4)明治39年の寺田屋再開時

建物登記の権利部

また、この敷地の建物登記簿の権利部を見ると、江崎から伊助に土地所有権移転の日付と同じ明治38年5月1日に、江崎所有の建物としていったん登記受付がなされ、前日4月30日に江崎から伊助に「契約」による所有権移転が行われた事実が同日付で受け付けられています。その後、寺田ハナに対しては「家督相続」による移転、次の越前某に対しては「売買」で移転が行われています。以後はすべて「売買」による移転が続きます。土地についても同様であることはすでに述べました。その1年後に寺田屋は再開しています。江崎が土地とともに買収した建物がそのまま伊助に引き継がれていることがこの登記簿からわかりますから、この時点で建物が新築された記録はありません。江崎が土地とともに買収し事務所とともに使用していた建物がそのまま伊助に引き継がれたと考えていいと思います。

皇后からの下賜が明治37年8月、12月に「恩賜の碑」が建立、そして、年明けて5月に江崎から伊助に条件付きの譲渡が行われました。この間に江崎と伊助との間で交渉が進められ、寺田屋を旅館として再開することを条件に南浜263の所有権移転が行われたのでしょう。こう考えると寺田屋再開広告の「奮(旧)宅ニ帰リ」は文字通り、以前居住していた宅(建物)に帰ってきたと告げていたことになります。江崎は伊助に旧宅を寺田屋再開を条件に返したと言えます。

(5)明治38年新築説に対する反証

<登記簿の件>

登記簿をもって、現建物はこの時に新築されたという意見が多く見られますが、この記録は登記がはじめてこの時に行われたということを示すだけで、新築を証明するものではありません。実際は西村天囚の記録にあるとおり、明治27年にはすでに存在し、建碑事務所として使われています。西村はこの建物を寺田屋と呼んでいます。5月1日に江崎と伊助の所有権が同時に登記されているのは二人の間の「契約」を公的な記録に残す意味合いがあったのです。
このように、伊助が寺田屋を再開したときは、その地に建っていた既存の建物を利用したのです。わずか三年後に浴室を増設するために北側平屋建物を建て替えていることも傍証でしょう。この時に新築したならそんなことは必要ありません。

<伊助が写った写真>

現在寺田屋に、再開当初に寺田屋訪問記念として「顕彰銅碑」とその前に坐る老人が写った来訪者向け土産用の記念写真が展示されています。老人は顔つきから江崎ではありません。また、右上のスタンプが寺田屋を示すものなので、この老人は伊助当人と考えるのが妥当です。伊助は烈士の遺墨や龍馬の遺品を大切に保管し、皇后から恩賜まで受けた有名人ですから写り込む価値がありました。
伊助は明治42年の1月にはなくなっているので、再開間もなくの写真であることがわかります。記念写真の方は老人の左手に建物が鮮明に写っていて、2階欄干や大屋根軒裏は新しく補修造作されたように見えますが、それ以外は板張りの様子などから既存建物を感じさせます。旅館として機能させるための改装が1年の間に行われたのでしょう。
現寺田屋に展示されている記念写真です

建物土地の所有権が伊助に移った5月の月末29日にはこれらを抵当に入れて広島県の河村某から1400円の借金をしています。おそらく、旧宅の改装を含む開業資金としたのでしょう。この後も自転車操業であったことは中村氏が細かく追跡しています。

『維新史蹟図説』寺田屋とおとせの写真
1階庇屋根に注意 駒寄せはない
玄関先の右人は七代目伊助のようである

<再興直前とされる写真について>

さて、中村氏の著書の185ページに「再興直前と推定される寺田屋建物の写真(皆川真理子氏蔵)」が掲載されています。「1階の屋根瓦がまだふかれておらず、建物の前の駒寄せも未完成」とキャプションのみで触れられていますが、『維新史蹟図説、京都の巻』5)に掲載されている寺田屋建物写真の屋根と同じ仕様です。さらに、こちらには駒寄せに相当するものは敷設されていません。また、駒寄せらしきものも、現在の建物と一体化された駒寄せとは異なるもので、一時的な施設かもしれません。決して建築中の写真ではないと思います。営業再開後、いずれかの時点で1階屋根庇の全面瓦葺と建物一体の駒寄せを加える軽微な改築が行われたとみるべきでしょう。

(6)建築時期についての小結

現建物の建築機会について考えます。
    1. おとせが明治5年の寺田屋浜への行幸までには再建。
    2. 江崎が263敷地を購入後新築。
    3. 寺田屋再開時に新築。
②については、江崎が土地を入手したのは明治27年の6月で、その2ヶ月後には「伏見殉難士建碑事務所」として使用しているので、この時に江崎自らが新築したというのは無理があります。
③について、3年後の一部建て替えや、江崎から土地と共に既存建物も譲渡されていて、その建物登記が継続するので可能性はありません。また記念写真の建物の様子から考えにくいと思います。したがって、もっとも可能性が高いのは①であると結論します。
①については、小説家の徳永真一郎氏が「寺田屋おとせ」6)という作品を書くにあたって取材した一端を「余録」として掲載していますが、その中に「おとせの百円普請」という評判が地元にあったことを書き残しています。

<結論>
現寺田屋建物はおとせが戊辰戦争での被災後間もなく船宿として再建した

(5)現建物焼け残り材料の再利用について

現在の寺田屋の屋内には薩摩藩から贈られたという大黒柱が据えられています。説明貼り紙には「天保年間改築の際、島津家より贈られたる大黒柱」とあります。天保年間といえば調所広郷による改革がすすめられていた頃です。のちに調所の功績を書き上げた「重豪公以来ノ財政整理卜調所笑左衛門ノ功績」7)の箇条書き部分に「通坂人之為兼春文珠居宅造替」とあり、大坂と行き来する人員のために伏見薩摩藩邸向かいの旅宿「兼春」の居宅の建て替えをしたとあります。貼り紙は中村武生氏の著書では「江戸後期」と書いてありますがが、実際に見に行くと「天保年間」とありました。単に「島津家から贈られた大黒柱」と書いてあれば信憑性も疑われますが、わざわざ天保年間と書いてあるのは何らかの記録か伝承があったのではないかと思います。十四代伊助氏(安達清)が、そこまで考えて「天保年間」と捏造したとは思えません。中村氏はこれを全面否定していますが、「天保年間」と書いてある以上、保留としておきたいと思います。
『京都維新史蹟』8)という昭和3年刊行の写真帳には寺田屋趾についての「現今の建物は旧宅の木材をもって縮小せるものといふ」という記述があります。中村氏はそんなことがあったのなら七代目伊助の申立書に書きそうなものであるとし、それがない以上「歴史学の方法論」として誤伝と断定されますが、明治時代を生きた七代目伊助にとって遺跡地として大事なのは遺墨や遺物、遺品を所有展示していることであって建物自体に価値は置いていません。先の再開広告にも建物のことは触れられていません。建物に価値を見いだすのは戦後のことです。七代伊助にとって廃材が利用されたことはたいした問題ではなかったと思われます。なので、歴史学的には可能性はあると見るべきだと思います。

おわりに

現寺田屋について新しく次のようなことがわかりました。

  1. 幕末寺田屋は「顕彰銅碑」が建つ敷地だけではなく、その北側および現寺田屋建物がたつ敷地も含んでいた。
  2. 「皇后の夢」を発端とする明治39年の寺田屋伊助による再開には江藤権兵衛らの全面的な協力と勧誘があった。
  3. 現建物については、お登勢が存命中に再建した可能性が最も高い。
  4. 再建にあたっての部材の再利用については、可能性があるが確実なことは言えない。
今の寺田屋建物は戊辰戦争で被災したあと間もなく、おとせ自身が寺田屋の敷地内に「船宿」として再建した建物である蓋然性が高まりました。
2008年の騒動以後、SNSなどでは京都市認定の「偽物」と呟かれていますが、京都市が確認したのは寺田屋騒動で血が流れた、龍馬が命からがら脱出した建物ではないということだけです。「おとせの寺田屋」としては「本物」である可能性があります。また、その時期に建築されたということは実際に焼け残った建物の部材を利用している可能性もあります。むしろそれは普通のことだったと思います。
京都市は幕末時の建物そのままであるという宣伝は不適切として是正を求めました。刀傷や弾痕は、それであるとは今となっては断定できないでしょう。「お龍の風呂」も後世に持ちこまれたものであることは寺田屋さん自身が認めています。本来、そんなことをことさらアピールせずとも立派な史跡建物として通じると思います。
また、政治史がらみの史跡だけではなく江戸時代の淀川水運を支えた当時の姿を残す貴重な「船宿」遺構として捉え直す必要があると思います。本来、あのあたりに伏見港の歴史を展示・学習できる資料館があるべきだと思います。ちなみに大倉酒造「月桂冠」の資料館にいくといくつか淀川水運にかかわる史料の展示がされています。そのような資料館があれば、現在の寺田屋建物は現存する展示物としての真価を発揮することができます。
今でこそ伏見は京都市に編入されていますが、みやこである京都とはことなる城下町、港町、宿場町としての独自の歴史があります。江崎権兵衛らが寺田屋を懸命に顕彰したかったのもそのあたりの思いがあったのではないでしょうか。

付:寺田屋騒動当時の寺田屋スケッチ

寺田屋騒動後、町人出身ながら挙兵計画の中心にいて、京都で連絡役を務めていた是枝柳右衛門が筆記した文書9)に寺田屋を描いたスケッチ(リンク先PDFの2頁目)が残っています。それをみると入口が左右に2つあり、西側の入口からはすぐに二階に上がれる階段がえがかれています。挙兵側の誰がどの部屋にいて、鎮撫使側の誰がどの入口からはいったかなどを記入したスケッチですので、正確な図ではありませんが、信憑性の高いものです。
間口4間で描かれています。向かって右手の入口は右側壁に接していますが、左手の入口は側壁から半間分離れています。2階の欄干の様子などはよく似ていて、大勢の人間が集まっている様子が描写されています。右の方に平屋の別棟がのぞいています。これは母屋の背後にあるものが描かれたのでしょうか。こうしてみると現寺田屋建物とよく似ています。左右反転しているようにもみえます。主屋と庭の位置が反転したことによるものでしょうか。
入口が二つなのは船の出入りにあわせて、多くの船客があわただしく出入りするためでしょう。旅館のように帳場の前に出入口がひとつというわけではなかったと考えられます。現寺田屋の建物が、被災後まもなく再建したものが原型だとすれば、入口はふたつあったと思われます。そのような痕跡が現寺田屋建物にないかどうかなども調査する価値があるのではないかと思います。
もう一度、現寺田屋の歴史的意義、文化財的意義を考え直すべきではないでしょうか。

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Posted by takahisa