寺田屋考(2)ー寺田屋の再開ー

3 現在の寺田屋敷地の来歴を考える

現在の寺田屋 2020/10

2007年に中村武生氏が現寺田屋についての考察を『京都民報』紙に「寺田屋伝説の虚実」として連載1)をしました。事件の舞台となった寺田屋敷地は現寺田屋の東隣であり、現在の寺田屋は「龍馬在世中の建物や土地とは無関係」であると結論しました。
この連載をもとにして週刊ポストが特集記事(2008年9月12日号)を掲載して、当時の寺田屋が幕末のままであるとして宣伝をしていたことから、「観光偽装」、『平成の「寺田屋騒動」』として問題にしました。そのことが新聞各紙にも報道されました。
京都市も調査に乗り出し、「顕彰銅碑」がたつ敷地が幕末当時に寺田屋が存在した場所で、その建物は戊辰戦争の戦火で焼けたと2008年に結論しました。その論拠と結論が京都市歴史資料館の調査で報告2)(以下「歴史資料館報告」)され、広く報道されて全国の龍馬ファンをがっかりさせました。
しかし、先に見たとおり現寺田屋敷地は幕末寺田屋所有地でしたが、中村氏と週刊ポストが火をつけた「寺田屋騒動」は「偽物」ということが強調され、幕末史跡として価値なしということになってしまっています。
中村氏は著書の後書きで「現在の寺田屋にいかなる『非事実』があろうが、その歴史的意義ははなはだ大きい」と書いています。しかし、その「歴史的意義」は語られていません。ただ「全国の龍馬ファンがその心のよりどころとして尋ねたい場所として変わることはない」と書いているだけです。ここは雰囲気を楽しむ場所にとどまるということなのでしょうか。
現在の寺田屋およびその敷地の本当の歴史的意義を明らかにしたいと思います。

4 江崎権兵衛について

現在の『薩藩九烈士史蹟表』銅碑

まず、明治39年の寺田屋再開事情をみる前に「顕彰銅碑」を建立した江崎権兵衛についてみてみましょう3)
江崎権兵衛は弘化1(1844)年の生まれで、幼名を源三郎といいます。近江屋という屋号で材木商を営む家でした。ちなみに、龍馬らが逃げ込んだ材木置場の所有者は近江屋三郎兵衛と伏見奉行所の報告書4)にあります。彼は明治元年に家督を継いで父の名を襲名して権兵衛となりました。その後江崎の姓を名乗ったようです。奉行所報告書にある三郎兵衛が江崎当人であったか、父権兵衛を指すのかはわかりませんが、家業に就いていたことは確かでしょう。明治22年5月には初代伏見町長に就任し、明治31年には第5義会で衆議院議員を務めました。

本人は実業に関心が深く、家業の材木商の他、淀川汽船、伏見倉庫、伏見銀行、伏見酒造などの設立・経営に関わり、米穀市場の開設なども行いました。伏見の代表として京都商業会議所の設立にも参画しています。地租100円余りを納める資産家で、明治37年の直接国税が205円余りでした。ちなみに、現寺田屋敷地の地租は66銭余りに過ぎず、この稿で問題にしている寺田屋敷地の地租額は全部足し合わせても1円90銭余りです、江崎にとっては保有する土地資産の50分の1以下ということになります。また、伏見町内における明治31年の時点の江崎の所得税額はトップの招徳酒造経営の木村の39円82銭につづく、37円86銭と記録5)されています。

結論をいえば、寺田屋の再開は江崎ら伏見の有力者が望んだことだったと思います。勤王史跡として伏見町として誇るべきものが寺田屋だったからです。しかし、その寺田屋は交通発達の趨勢によって廃業を余儀なくされてしまいました。それをどのように残すかが課題だったのでしょう。当初の江崎らの関心は文久2年の寺田屋騒動にあったことは明らかです。有馬新七らが実際に血を流した建物は戊辰戦争で被災し、その後なくなってしまいました。
江崎にとっては、南浜262にあった建物は血が流れた寺田屋建物の「遺址」であり、隣接する南浜263は薩藩九烈士ゆかりの寺田屋「遺跡(蹟)」だったのです6)

5 寺田屋の再開

さて、「海軍守護神坂本龍馬」の報道のあと、5月に元薩摩藩士で逓信大臣を務めていた大浦兼武も往事を偲びに寺田屋をたずねてきました。江崎は当然応接にあたり、以後坂本龍馬に俄然注目することになります。
先に寺田屋伊助が龍馬の遺品をもって大浦兼武を尋ねたことは書きました。なぜ、大浦を頼ったのでしょう。伊助に大浦来訪の事実をしらせ、遺品の持参をサジェスチョンしたのは江崎ではなかったでしょうか。成功すれば、「伏見」寺田屋の名前が世にでて、伏見町や九烈士の顕彰がさらに進みます。その思惑は大成功し、伊助らは皇后から恩賜まで受けました。
これを契機に寺田屋の再興が企画されたのでしょう。江崎は伊助に最大限の援助を申し出て寺田屋再開を促したのでしょう。伊助が出した寺田屋再開の新聞広告7)に「貴顕方ノ御勧誘ト御懇情ニヨリ」再開とわざわざ記しています。「御勧誘」に注意をして下さい。江崎が手に入れていたかつての寺田屋所有地は「顕彰銅碑」敷地を除いて伊助に譲渡されました。さきほどみた江崎の資産状況をみると寺田屋再開を条件に伊助に無償譲渡した可能性もでてきました。

南浜263 土地登記簿権利部

法務局に保管されている旧土地台帳の表題部には伊助への権利移動は「所有権移転」と書かれています。また、権利部には、明治27年6月1日に江崎がこの土地を入手したことが先頭に記載されています。この記録は明治38年5月1日に以前の帳簿から移記されたとあり、南浜263の現存する旧土地台帳などは江崎から伊助に譲渡が成立した日に作成されたことがわかります。あとで見ますが、建築登記簿も同様でした。そして、江崎から伊助への譲渡の事由は「契約」によったと書かれています。「契約」というのはめずらしく、この台帳だけをみても以後は家督相続を除いて売買が続くので、条件付きの無償譲渡であったことがうかがえます。
再開広告をみると旅館業再興としていますが、現代的に言えば囲碁、将棋、謡曲などのイベント会場、会社総会用の貸会議室、仕出し弁当をとっての宴会場などとしての使用も想定されるものだったようです。川舟遊びの営業もしていたようです。現寺田屋の展示に寺田屋の旗を掲げた寺田屋浜に停泊する屋形船の写真も展示されています。幕末とは異なる業態での復活だったのです。(つづく)

明治39年5月の再開広告

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