薩長同盟成立プロセスの考察(3)ー西郷来関問題ー

© OpenStreetMap contributors

慶応元年5月、坂本龍馬は薩摩藩の庇護下にはいったが、鹿児島で海軍操練所の仲間とはわかれて、5月16日に鹿児島を出発し、熊本の横井小楠を尋ねたあと大宰府に入り、五卿に拝謁した上で薩長連合を説き、長州に帰還した木戸との会談を求めた。

当ブログでは大宰府で龍馬から木戸との会談のセッティングを依頼された楫取素彦および時田少輔の回顧談をもとにして、十分な史料批判を加えながら経緯を復元し、次の結論をえた。
  • 龍馬は鹿児島で、4月30日に木戸と会談した中岡慎太郎の情報を大宰府経由でキャッチし、木戸との会談を目的に大宰府へ向かった。
  • 大宰府で、五卿に拝謁し薩長連合を熱心に説き、さらに大宰府に来ていた楫取素彦、時田少輔に面会をして、木戸との会談セッティングを依頼した。この間の大宰府での活動で、木戸の長州藩での地位を確認する。五卿および在宰府薩摩藩重役の支持を背景にしていることはあきらか。
  • 楫取素彦と龍馬が1年前に旧知であったとか、楫取の方から木戸との会談を勧めたという町田明広氏の説は成立しない。
今回は、その後におこった俗にいう「西郷すっぽかし事件」についての史料と考察を行いたい。龍馬は下関に渡った後、京都から下ってきた土方久元に会い、西郷・木戸会談を策するも、西郷が来なかったという事件である。

坂本龍馬手帳摘要より(青空文庫にリンク)

慶応元年閏五月
朔日 黒崎平町乗船、赤間間(関カ)ニ至ル、西の端町入江和作ヲ尋、但小田村ノ示ニヨル。城ノ腰綿屋弥兵衛ニ宿ス。(但シ官ノ差宿也。)
二日 曽病アリ、依而養生ノ為、宿ヲ外浜町村屋清蔵ニ取、□□(不読)医ヲ撰(えら)ンデ長府かなや町多原某を求、不日ニ平癒スト、期一七日トス。
四日、此日一夷舶アリ、馬関ニ泊ス。
五日、長府時田重次郎馬上
六日 桂小五郎山口より来ル。
七日 船腹ニ横一白色ノ蛇腹アリ、砲門ノ如ク見ユル。十日英船大サ順動丸ノ如シ。
スコールステヱン二ツ
ラツト
ラアトルカストの色黄色ニ見ユル。
西大寺ノ前西南ノ地方ニヨリ泊ス、売買船也。然ニ上陸ノ者四人アリ、皆剣ヲ帯ビ士官ト見ユル。
夜ニ入、椋梨伝八郎来ル。

土方久元『回天実記』第二集 15P(9コマ目)

慶応元年閏五月


同三日早朝 出帆長州福浦ニ五ツ時頃着船其ヨリ上陸晝後ヨリ白石正一郎ヲ訪ヒ報国隊副官福原和勝ニ面会七ツ時頃興繕五六郎馬上ニテ迎ニ来リ同伴長府ニ行キ本陣ニテ一泊大場傅七原田順次福原和勝興繕五六郎等ト相会シ京摂之模様并ニ薩長和解之儀ニ付彼是談論小酌時ヲ移ス九ツ時頃一同帰去ル
同四日 三好内蔵之助熊野清左衛門原田順次大場傅七福原和勝興繕五六郎等追々来八ツ時半頃迄小酌談論セリ其ヨリ福原原田興繕三人ト連騎ニテ馬関ニ来リ白石方ニ行キ一同ト相分ル
同五日 坂本龍馬安喜守衛(黒岩直方)二面会宰府之事情共承ル時田庄輔亦来り面會今日ヨリ束南部綿屋弥平衛ト申ニ転宿暮頃ヨリ時田亦来り小酌閑談四ツ時頃帰ル
同六日 朝桂小五耶時田庄輔来訪此度西郷吉之助薩州ヨリ上京懸ケ当地ニ立寄候手筈ニ付当藩ニテモ城壁ナク腹心ヲ以テ篤ト相談ヲ遂ケ申度既往之小忿ハ國家ノ大事ニ難換ハ勿論将来両藩提携ヲ以テ盡力有度旨色々申談其ヨリ小酌閑談之上九ツ時頃帰去、七ツ時ニ至リ野村靖之助之来訪暫時對談之後帰ル
同七日 時田庄輔、桂小五耶、太田市之進、福田良輔、旅宿ヲ訪ヒ其ヨリ白石正一郎方ニ行キ暮頃帰ル
同八日 桂小五郎来ル宿ヨり酒肴差出候ニ付小酌ス暮頃ヨリ外出
同九日 薩長和解ノ議モ愈相纒り最早用向モ相済候ニ付此ヨリ諸卿方ヘ復命之為帰西ニ相決シ九ツ時ヨり乗船福浦迄参候處海上不穏ニ付滞留上陸小茅屋ニ宿ス
同十日朝 出帆九ツ時頃筑前黒崎ニ着船同夜古屋瀬ニ宿ス
同十一日 黎明出足暮頃山井駅着一泊
問十二日 日出頃出足四ツ時頃大宰府着 母里左七郎と申周旋役来り直ニ面会其ヨリ五卿方へ参殿拝謁之上京摂之事情并ニ薩長和解之義ニ付縷々申述候薩州人黒田嘉右衛門(清綱)今日当地出足上京之由ニ付面会今夜ハ一同ト小酌閑談ス

  • 『龍馬手帳摘要』と土方の『回天実記』から、龍馬は閏5月1日に赤間関の入江和作の邸に行き、城ノ腰の綿屋に宿をとった。5日には上方から下ってきた土方久元および時田少輔と面会して、土方も綿屋に同宿することとなった。6日には桂小五郎と時田少輔がやってきて西郷来関について話している。この夜には野村靖之助(靖)が尋ねてくる。『土佐勤王史』832P(507コマ目)によれば、薩長連合には反対との趣旨を伝えにきたようだ。
  • 7日、8日には単独で木戸(桂小五郎)がやってきて話しをしている。
  • 9日に土方は「薩長和解もいよいよ纏まった」として大宰府に五卿への復命の為に帰ることにことが決定され、昼頃に赤間関から船で彦島の福浦までいったが、海上があれていて、翌日10日の朝に出帆し、昼頃に筑前黒崎に到着している

龍馬は、京都の薩摩藩邸で薩長連合について支持を得て、中岡とともに下ってきた土方から「木戸を説得するために下関で自分は下船し、中岡は西郷を説得するために鹿児島へ向かった」という話しを聞いたようだ。このことを聞いて龍馬は在大宰府の渋谷彦介に手紙を書いた。芳即正『坂本竜馬と薩長同盟―竜馬周旋は作り話か』(高城書店 1998年)には手紙の写真も掲載されている。

坂本龍馬書翰(青空文庫にリンク)

坂本龍馬(在下関)発 渋谷彦助(在大宰府)宛 慶応元年閏5月5日付け

二白、本文ニ土方楠左ハ国本より出候ものゝ内ニハ一寄咄合て遣候ものニて候よし、時情も存候ものなり、以後御引合在之候時ハ必此者かよろしく候、かしこ

其後益御安泰奉大賀候、然ハ此度土方楠左衛門上国より下り候、此者の咄、将軍家曽て伝聞の通り既二発足、東海道通行軍旅候て、人数五万と申事のよし、一件ニ付岩下左兄早々蒸気船を以て御国許ニ帰られ、今月十日頃ニハ西吉兄及小大夫なと御同伴のよし承り候、夫ニ付てハ私より書状は御国へハ出し不申、兎も角も御考の上雅兄よろしく土方楠左より長及時勢被聞取の上くハ敷御国に御伝へ可被下候、先ハ早々謹白候

末五月五日        龍馬

渋彦大人   足下

追々
末五月六日桂小五郎、山口より参り面会仕候所、惣分長州の論とハかわり余程大丈夫ニてたのもしく存候、当時小五郎ハ大二用られ国論をも取定候事書出候よし二て、ともに/\よろこひ候事二御座候、かしこ

【現代語訳】

追伸 この手紙にある土方楠左衛門は国元(土佐)出身者で話しあって派遣したものだそうです。現在の事情もよく知っており、今後必要な連絡がある時は、必ずこの者がよいと思います。かしこ

その後、ますます御安泰、大いにお慶び申し上げます。ついては、この度、土方楠左衛門が上方から下ってきました。この者の話では、将軍家についてはかねての伝聞どおり、既に(江戸を)出発し、東海道を行軍しています。人数は5万ということです。この一件については岩下左治衛門(方平)兄が早々に蒸気船で、御国元(薩摩)に帰られて、今月の10日頃には西郷吉之助兄および小松大夫(家老)様が御同伴で来られるとのことをうけたまわりました。それに付いては私から書状を御国(薩摩)へはだしません。兎に角もお考えの上で、あなた様には土方楠左より長州と上方情勢をお聞き取りの上で、くわしく御国(薩摩)にお伝えください。まずは早々謹白。

閏5月5日     龍馬

渋谷大人 足下

さらに追伸
閏5月6日に桂小五郎が山口より来て面会をいたしましたところ、おおかたの長州の論とは異なって余程大丈夫でたのもしく思います。今は小五郎は大いに用いられて国論を決定して文書を出しているということで、共々喜んでいます。


いったん本文を書いた後、土方の紹介文を冒頭の余白に小さな文字でしたため、さらに、翌日の桂小五郎(木戸)との会見後、追加を別紙に書いたようである。
この5日付けの書状の時点で、龍馬は土方から聞いた10日頃に西郷と小松が一緒に上京するという情報を伝えている。そして、さらに翌日の追伸で、「当時小五郎ハ大二用られ国論をも取定候事書出候」と書く。この評価は龍馬が木戸本人との会談のあとに書いたものである。

若干の考察

実は木戸の評価については、同じような言い回しで、もう一つ別人の書状がある。5月26日に京都経由で江戸詰を命じられて鹿児島を発った黒田清綱の閏5月12日付けの西郷宛の手紙である。そこには「桂小五郎ニも帰参、要路ニ被用、当分其手当盛之由相聞得申候(帰参して、要職に用いられ、今は彼の手当が盛んであると聞きます)」「手当」の意味は処置の意味があるので、ここは「桂の処断が勢いをもっている」という意味である。
「木戸が要職に用いられ、藩の方針に大きな影響力をもっている」というのは龍馬の書翰と同じ言い回しであり、龍馬・土方と木戸との会見が発信源と思える。黒田は、上京途中に福岡、久留米両藩の党派争いを周旋する仕事もおこなっており、『回天実記』をみると閏5月12日に土方と面会したあと、ようやく大宰府をでている。よって、この手紙の情報は龍馬・土方による木戸評価である。木戸との会談を目指して鹿児島を出発した龍馬の成果の第一報として黒田は鹿児島に届けたといえる。やはり、この手紙は木戸帰参の報告が主眼ではなく、木戸の現在の立場を報告するものであった。
こうしてみると、土佐浪士グループである龍馬の動きと土方・中岡の動きにはそれぞれが薩長連合という同じ目的があったものの連動はしていない。しかし、両者とも五卿への入説とその支持、および在大宰府、京都の薩摩藩の主要人物の支持が背景にある。鹿児島にある島津久光の意図は、そこには全く見えない。西郷や大宰府、京都にいる薩摩藩重役は薩長連合が喫緊の課題であると考えていたものの、この時点では久光の意向のもとにそれが藩是とはならないので、西郷はこの杜撰な計画には乗れなかったのであろう。家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』(ミネルヴァ書房 2011年)115~116ページの見解が妥当あると思う。家近氏の見解に加えるのはこの計画の杜撰さに西郷が引いたからという点である。この杜撰さを2001年に山本栄一郎さんは指摘している。
このように西郷に上京ついでに下関で木戸と会談して欲しいというのは、あまりに急ごしらえで、龍馬や五卿との連携もとれていない。西郷がもし来るとすれば、久光を説得した上で五卿と予め面会せずに来るとは考えられない。10日頃に西郷が来ると言っていた土方が9日に大宰府に帰ったのも、西郷来訪どころか大宰府からの知らせも一向にないので、しびれをきらして様子を確認しにいった可能性がある。
しかし、結局、この会談は実現しなかったので、土方は『回天実記』では、自分たちは用意周到にしていたのに、西郷がすっぽかしたと自分たちの計画の杜撰さをたなにあげて正当化したのではないだろうか。西郷はおそらく鹿児島出発の時から下関へはいくつもりが無かったのだろう。西郷の船は豊後水道を抜けて佐賀関を経由して上京する最短コースをたどっている。
山本栄一郎さんは『真説・薩長同盟』で、「『十日前後に西郷は来る』と自信を持って言い切った男なら、西郷が来るのを見届けて去ってもよさそうなものだが、『九日』という時点で去るというのは、どういう料簡であろう」と問題提起し、 しかし一向に西郷が来る気配がないので、期日の十日になる前に「実際には、大言した『十日前後』になったため、不安になって逃げ出したというのが真相ではないだろうか」として、土方のあまりに楽観的な計画の破綻を指摘している。「実際には」以下は一般書としての性格を踏まえた上での小説的な想像だと思う。私は龍馬が来関した経緯を別記事のように考えたので、龍馬からすれば、西郷が来るとすれば同じように、まずは大宰府に行くだろうと考えた。そういうことも踏まえて土方が9日に龍馬・木戸も合意の上で大宰府に帰ったと考える方が自然である。
ところで、町田明広氏は『新説 坂本龍馬』のもとになった大学紀要論文で、この部分のいきさつについて、次のような記述がある。
「土方の急な出発の真意は詳らかにできないが、そもそも西郷の来関は土方の希望的観測に過ぎず、しかも、その期日を十日前後としたのは土方の推断である。連日の会談で木戸から言質を求め続けられたことによって、下関に滞在しづらくなった可能性があろう。」(大学紀要12p)この記述は山本氏が小説的に想像した土方不安説と同じである。山本氏のこの説は直接の根拠がなく山本氏のオリジナルな推察である。もし、これに依拠して町田氏も推察されたのなら、いくら一般書とはいえ、山本氏の著作に触発された、あるいは同意するとしておかねば学術論文としては成立しないと思われるがどうだろう。
また、町田氏は、よくわかない間違いをされている。上記の部分に続けて「なお、閏五月五日に土方と再会していた坂本龍馬の書簡(渋谷彦助宛、閏五月五日)には、『<この部分上記の渋谷宛龍馬書翰[追々]を引用>』と、木戸の復帰による長州藩の変化を喜んでいるものの、西郷の来関については一切触れていない」(大学紀要12P)とするが、これは「追々」の内容であって、先にあげたように本文で龍馬は西郷来関のことについて触れているので、これを根拠とする「龍馬も来関に自信がもてなかった」も「土方が渋谷らに西郷来関のことを言及していない」という推測も成立しない。「追々」部分は単独の書翰ではない。

【まとめ】

いわゆる「西郷すっぽかし事件」というのは、慶応元年閏5月、将軍進発の報に対応するために西郷が上京するついでに、下関で木戸との会見を約束していたにも関わらず、それをすっぽかした結果、長州側の態度が硬化したという事件である。
大正6年に行われた、坂本・中岡の没後50年式典で行われた、土方久元および中原邦平の講演(『坂本中岡両先生五十年祭記念講演集』に収録)によって、語られたものである。
この会談計画は周到に準備して木戸との会談にこぎつけた龍馬と西郷との会談説得に下関へやってきた土方が偶然出会ったことによって生まれたもので、もともとは土方が山口で木戸を説得して下関に連れてくるという計画だった。実際、土方は彦島の福浦に上陸したあと龍馬の滞在場所を素通りして、まずは長府へ向かっている。そもそも、これに木戸がのったかどうかはわからない。木戸が来たのは龍馬が大宰府で入念な準備をして直近の五卿の支持をえて木戸を呼び出したからである。土方にはそれがなかった。一方、中岡の西郷説得も十分な準備はなかった。
木戸は龍馬をどのような使節ととらえていたかがよくわかる史料が次のものである。

●木戸孝允書翰 慶応元年閏五月四日付 太田市之進宛 『木戸孝允文書』2 63~64P

【原文】「(前略)弟も暫時出萩可仕と愚考仕居候處條公よりの御人も有之馬関まで罷出様子次第筑紫罷越候都合に御座候(後略)」
【訳】「(前略)私もそろそろ萩に出仕すべきと考えていたところ、三条公よりの使者も馬関まで出てきている様子で、次第によっては筑紫(大宰府)いく場合もあります。(後略)」
龍馬を三条公の使者と認識している。木戸は龍馬と旧知であるから土佐浪士であることは承知の上で、土佐出身五卿付き浪士と考えたのである。そして、場合によっては大宰府にいくことが予定されている。直近の五卿の支持という裏付けがあっての下関行きであることがよくわかる。土方・中岡の計画にはこれがない。
結局、中岡・土方の計画に西郷が乗れなかったのは、準備不足につきる。土方はそれを自覚していたのかわからないが、回顧談でそのようなことは触れないのは当然である。西郷が事前に会談を約束していたという事実はないと断定してよいと考える。約束していたという話しは、最初は予定していたが、佐賀関で大久保からの知らせを受け取って急遽上洛を急いだという話しが前提であるが、そんなこととは関係なく、最初から予定はなかった。ただ、船上で中岡が説得をつづけただけだった。