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桂久武上京日記の分析
ー上杉宗次郎(近藤長次郎)自死の報ー

2021年1月13日

二月八日

一 毎之通寝覚、此日隨分天気も宜敷候間、勘兵衛同伴ニて御室より
高雄・槙尾・栂尾見物、帰り二御室飯茶屋江相休昼飯遣ひ、夫よ
り帰り掛一条通ニて秀吉愛之樹五色之椿という有之見物す、尤天
川屋茂(儀)兵衛旧跡墓所有之候所也、暫時立寄見物、帰り二新町通菱
屋江立寄候也、
一 此朝伊勢・い十院・遠竹見舞也、福島勇七も見舞、佐野仁左衛門
江戸より当所江到着候由ニて今日出立とて見舞二預候也

二月八日

一 いつもの通り目覚める、この日はずいぶん天気もよいので、勘兵衛を同伴して、御室から高雄・槙尾・栂尾を見物し、帰りに御室の飯茶屋で休んで昼飯を食べた。それから帰る途中の一条通で秀吉がめでた五色之椿というものがあったので見物した。そこは天川屋茂(儀)兵衛の旧跡墓所があるところである。しばらく立ち寄って見物し、帰りに新町通の菱屋に立ち寄った。
一 この朝は伊勢・い十院・遠竹がやってきた。福島勇七もやってきた。佐野仁左衛門が江戸よりこちらに到着し、今日に出立ということでわざわざ会いに来てくれた。

●五色之椿と仮名手本忠臣蔵にでてくる天川屋儀兵衛の墓所があるのは京都市北区大将軍にある地蔵院で通称椿寺と呼ばれ現存する。赤穂義士の物語では天野屋利兵衛とされる天川屋儀兵衛だが、茂兵衛となっている、久武の間違いか翻刻の間違いかはわからない。この日は随分と遠出をしている。帰国が近いので名所見物に励んでいるというところか。紅葉の綺麗な秋でなかったのが残念。

二月九日 朝立晴夕曇寒し

一 毎之通寝覚、定刻より出勤、小松家・諏訪家も出勤無之故、御用
も無之候間、早々退出也、麦飯いたさせ候間、種城・有七・中村
源吾・猿渡勘兵衛・堀剛十郎参候様申置、八ッ時分より参候間相
振舞、夫より列立歩行いたし、四条・三条辺通行いたし、帰りに
又々旅宿列立、ゆるゆる相咄候也

二月九日 朝立晴夕曇寒し

一 いつもの通り目覚める。定刻に出勤すると、小松家・諏訪家も出勤していないので、仕事もないので、早々に退勤し、麦飯をつくらせているので、種城・有七・中村源吾・猿渡勘兵衛・堀剛十郎らに来るように伝えて、午後2時ごろに来たので、それぞれ振る舞って、それから連れだって外出し、四条・三条辺に行った。帰りにまたまた旅宿へ連れだって帰り、ゆっくりと話をした。

同 十日 朝立晴夕方より・雨頻ニ降ル

一 毎之通寝覚、今日ハ出勤不致、勘兵衛同伴二て四ヅ時分より致歩
行、八ッ時分より豚飯いたさせ候間、種子城・有七・鎌孝・中村
源・堀剛・猿渡勘兵衛参様申置被参候、尤ヒル手当申付候得共、
無之由也、皆々手当ゆるゆる相咄候、処今日ハ有七より藤井・
村山其外岡崎辺江遊歩之致約束置候処、不相閉目由ニて近せん方
江重之物手当有之、此方江致持参候様申付候ハ近せん亭主子供
両人召列参候間、ゆるゆる深更迄相咄候、尤舞などいたさせ候
也、
一 此日西郷氏より書状到来、上杉宗次郎自殺一条小松家抱え錦戸
広樹より野村宗七より之書状致持参候由ニて小松家より被相廻候
とて到来、誠ニ遺憾之次第也、

同 十日 朝立晴夕方より・雨頻りに降る

一 いつもの通り目覚めた。今日は、出勤せず、勘兵衛を同伴して10時頃から外出した。午後2時頃から豚飯をつくらせているので、種子城・有七・鎌孝・中村源・堀剛・猿渡勘兵衛らに来るよう言っておいたのでやってきた。昼飯の手配を申しつけていたが、これがなかった。皆々に手配され、ゆっくりと話をしていた所、今日は有川七之助から藤井(良節)・村山(下総)その他と岡崎辺りへ散歩する約束をしていたところ、うまく予定があわなかったが、近せんに重箱にはいった弁当を注文していたので、こちらに持ってくるように申しつけていたところ、近せんの主人が子供2人を連れてやってきた。ゆっくり話をして、舞などをした。
一 この日に西郷氏から書状が来た。上杉宗次郎(近藤長次郎)が自殺した件について小松帯刀が面倒をみている錦戸広樹(陸奥陽之助)、および野村宗七からの書状をつけて小松家から廻ってきたということだった。まことに残念な事である。

●「近せん」というのは料理屋のようで、京都には今も「近又」という料亭がある。「せん」は千本通の千か。ユニオン号の買い付けを薩長間で周旋した土佐の上杉宗次郎(近藤長次郎)の訃報が記録されている。知らせは陸奥陽之助(陸奥宗光)と野村宗七から小松帯刀のもとへ来たようである。「小松家抱え」というのを小松帯刀が面倒を見ているとした。ここでわざわざこう書いているということは久武は少なくともこの時点で陸奥らのいわゆる「社中」を薩摩藩士とは見ておらず、小松が私的に面倒を見ている一団と考えている。

二月十一日 朝立晴昼頃より尤寒し

一 毎之刻限寝覚、四ツ前より小松家江参、上杉一件委敷承候、夫よ
り出勤、諏訪家・西郷氏も出勤也、八ツ時分退出なり、
かてらに袋物屋堺屋江参、夫より西之方諸所見物いたし、暮ニ及
帰宿也、

二月十一日 朝立晴昼頃より尤寒し

一 いつもの通りに目覚めた。10時前から小松家に行き、上杉の件について詳しく聞いた。それから出勤した。諏訪家・西郷氏も出勤した。午後2時頃に退勤し、途中で袋物屋の堺屋へ行き、それから西之方のいろいろな所を見物して、夕暮れになってから帰宿した。

●前日に報告があった近藤長次郎の事件について、久武は小松のところへわざわざ出向いて詳しく聞いている。前回の記事で久武は薩摩藩の第一次留学生、長澤鼎の縁者の訪問をうけたり、翌月に出発する第二次留学生に木藤市助を決定したりしている。深く留学生事務に関わっていたと思われる。近藤の切腹は、彼の抜け駆け的な英国留学の企てが咎められた結果というのが通説であるが、よくわからないところもある。しかし、木藤の件でもわかるようにこの時期に薩摩藩の二次留学生の計画と人選が行われていたことは間違いない。町田明広氏は近著『新説 坂本龍馬』(2019年 インターナショナル新書)で近藤が薩摩藩留学生として予定されていたと言及しているが、たしかに事務に携わっていただろう久武が、ここで大きく関心を示している点から、なにがしかのリンクをしていた可能性がある。しかし、久武は陸奥を薩摩藩士とは認識しておらず、その仲間であった近藤もそうであるならば、薩摩藩留学生として選ばれる条件はなかったのではないだろうか。ただし、近藤が薩摩藩留学生派遣の機会をとらえて、ともに日本を離れることを希望していた可能性は高い。

寅二月十二日 朝立晴夕曇寒し

一 毎之通寝覚ノ此日出務不致、四ツ後より勘兵衛同伴、荒神口橋普
請見物として参候、土持ニて町方より異形之粧ひニて多人数出候
右より四条縄手辺致見物、暮前帰宅、
一 此晩藤井宮内参度との事故、有七・村山下総同道参候様申入置候
得共、有七ニハ大津辺江參候由ニて両人被参、ゆるゆる及深更候
也、藤井、村山同役ニ被仰付度内情之事共承候、藤井初てゆる
ゆる被参候ニ付、酒一瓶頂候也、

寅二月十二日 朝立晴夕曇寒し

一 いつもの通り目覚めたこの日は出務しなかった。10時過ぎから勘兵衛を同伴して、荒神口橋の普請見物に行った。「砂持ち」で町方から異形之粧いをこらした多くの人々が出た。ここから四条縄手通の辺りを見物し、暮前に帰宅した。
一 この夜に藤井宮内(良節)が来たいということで、有川七之助・村山下総を同道して来ると申し入れてきていたが、有川七之助は大津あたりにいったということで、2人でやってき来た。じっくりと夜更けまで話は及んだ。藤井と村山を同役に仰せ付けて欲しい内情などを聞いた。藤井は初めてじっくりときたので、酒一瓶を頂いた。

●今の荒神橋は御幸橋と当時は呼ばれ、鴨東に展開した諸藩の抱屋敷から洛中への通路として計画され、西本願寺が勤皇奉仕として建設にあたったものである。薩摩藩調練が行われていた岡崎屋敷も鴨東である(参考:原田良子「薩長同盟締結地『御花畑』発見とその後の研究成果」『地名研究』16号  京都地名研究会 2018年)。この二月から工事がはじまったばかりであった。鴨川の土砂を浚える作業を「砂持ち」久武は「土持」と書いているが同じ意味だろう。この浚えた土砂は社寺の境内に寄進されることで、都市祝祭化された。異形の粧いとあるのはまさに祝祭化された工事の様子をあらわしている。安政年間の洪水対策の浚えの時の様子を描いた絵馬が上御霊社にのこされているようだ。(参考:鈴木栄樹「幕末の鴨川水害と鴨川浚計画」(『京都市政史編さん通信』41号 2011年)

二月十三日

ー 毎之刻限寝覚也、定刻出勤也、諏訪家・西郷氏出務也、此日退殿
後終日在宿也、余り淋敷故勘兵衛江申遣、そば切共振舞候也、然
処中村源吾・堀剛より致歩行候処、見出候とてひる沢山ニ預候間
幸ひ相披き候也、

二月十三日

ー いつもの通り目覚めた。定刻に出勤した。諏訪家・西郷氏も出務していた。此日退勤した後は終日宿舎にいた。あまりに淋しいので勘兵衛を呼びにやって、そば切などを振る舞おうとしていたところ、中村源吾・堀剛十郎が歩いているところを見たといって連れてきた。幸い大勢になったので、大いにくつろいだ。

二月十四日 朝立晴昼より曇少々風立        暮時分地震也

一 毎之通寝覚、定剋より出殿、諏肪家・西郷氏・吉井氏出勤也、八
ツ時分より勘兵衛同伴、室町通より七条通、八千本通より四条上
りゆるゆる歩行ニて暮時分ニ帰り候也、此晩風呂たかせ候也、

二月十四日 朝立晴昼より曇少々風立            暮れ時分に地震あり

一 いつもの通り目覚めた。定刻から出殿し、諏肪家・西郷氏・吉井氏も出勤していた。午後2時ごろから勘兵衛を同伴して、室町通を七条通に下がり、千本通を四条まで上がって、ゆっくり歩いて、暮れ時分に帰った。この晩は風呂をたかせた。

●千本通りは室町通より西の南北の大通りで、実際の歩行距離は8キロオーバーである。

二月十五日 朝より終日雨降ル

一 毎之通寝覚、定剋より出勤、諏訪家・西郷氏出勤也、錦御屋敷よ
り御蔵引直し方ニ付、直し先見分致くれ候様承候間参候処、取究
候場所不宜候間、相国寺内竹林中能き場所有之候間、相談致度申
談置候事、此晩勘兵衛参ゆるゆる相咄候也、

二月十五日 朝より終日雨降ル

一 いつもの通り目覚めた。定刻から出勤した。諏訪家・西郷氏も出勤していた。錦の御屋敷から御蔵を移築することについて、移転先を見分して欲しいと聞いたので行ったところ予定していた場所はあまり良くないので、相国寺内の竹林の中に良い場所があるので、相談しておきたかったとのこと。この晩は勘兵衛がきてゆっくりと話をした。

●三井文庫に所蔵されている明治初年の鹿児島藩京都藩邸絵図にL字型の屋敷敷地の烏丸通側の北境に「相国寺藪地」との記載が見え、その横に「板蔵」との表記がある建物が描かれている。土蔵を移築するのは難しいので、この記事にでてくる蔵はこの「板蔵」を差している可能性がある。何を所蔵するための蔵なのであろうか。

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幕末

Posted by takahisa