新選組「不動堂村屯所」の位置と規模の確定

はじめに

 長年、議論のあった新選組3番目の屯所にして、洛中最後の屯所であるいわゆる「不動堂村屯所」の位置と規模がついに確定しました。
 2019年4月に京都龍馬会が発行する会紙『近時新聞』に位置を特定する論考が4月、6月とあいついで掲載されたのです。

●『近時新聞』号外(2019年4月発行)
 日野市立新選組ふるさと歴史館元館長 藤井和夫氏
  「新選組第三番目の屯所、ついに判明!『不動堂村屋敷』伝説終焉!」
●『近時新聞』36号(2019年6月)
 京都女子大学等非常勤講師 中村武生氏
「新選組最後の洛中屋敷、所謂『不動堂村屯所』の位置考」

 筆者は、この二つの論文に興味をもち周辺情報を調べてみたところ、京都学・歴彩館に所蔵されている明治十七年の『下京区地籍図』1)にひと目で屋敷構えの濠と見受けられる矩形水路を現京都リーガロイヤルホテル敷地(京都市下京区松明町の西半分にあたる)に確認しました。(図①)。
 しかも、この位置は、これまで伝えられている西村兼文や永倉新八、さらには子母沢寛が伝えた元新選組隊士の「証言」ともあまり矛盾をしない場所でした。さらに藤井氏が確認先の論文で紹介した個人蔵の『風説記』2)に書かれていた新選組屯所を示す「西本願寺抱屋敷古御旅通之屋鋪」という表現どおり、この敷地は古御旅通(梅小路通)に面していたのです。しかしながら決め手となる決定的史料がなく、推定地の域を出ませんでした。
 そこで、新選組専門の資料館である「日野新選組ふるさと歴史館」に、集めた資料と簡単な考証を文章にして送付し、助言を求めることとしたのです。ふるさと館ではすでに本願寺文書を借り受けられて展示されている実績があり、そこに期待を寄せました。
 その結果、藤井氏が本願寺史料を再調査され、西九条村小字松明田を慶応3年3月に西本願寺が新選組屯所用地として買収を完了している史料を発見され、近時新聞37号に発表されました。

●『近時新聞』37号(2019年9月)藤井和夫氏「新撰組伝説逍遥 其の27」

 これによって現京都リーガロイヤルホテル敷地(現京都市下京区松明町)が慶応3年6月15日に新選組が使用を開始した屯所であることが確定しました。
 実に、その敷地規模は「南北六十二間、東西四十間」です。これで場所については決着したわけですが、筆者は当該地の土地利用の経過をたどる資料をいくつかみつけ、屯所建設過程をさらに具体化することができるようになりました。その成果をここで公表したいと思います。

図① 下京区地籍図(京都学・歴彩館蔵)より作成

図① 下京区地籍図(京都学・歴彩館蔵)より作成

一 『近時新聞』掲載の藤井氏・中村氏論考の内容と筆者の疑問 そして新史料の発見

 先にあげた「号外」で藤井氏が注目したのは、2019年4月から始まった日野市立新選組ふるさと歴史館の企画展示に出品された西本願寺史料研究所保管の『本願寺文書』中の「諸事被仰出申渡留慶応二丙寅年七月より」という史料です。本願寺の事務文書を綴ったもので、展示されていた大部の簿冊に添えられていた付箋に「新選を西九条へ転居」の文字を確認されたのです。この西本願寺からでた出所明白な史料によって、すでに藤井氏が確認していた個人蔵の筆者不明の『風説記』3)に書かれていた新選組駐屯地である「西本願寺抱屋敷古御旅通之屋鋪」が西九条村に存在することが確実になりました。その上で、現存する町名、下京区古御旅町に一部がかかる梅逕中学校(2007年、統合により現在は廃校)を比定地とされたのです。ここで注意したいのは屯所の位置として「古御旅通之屋鋪」と表現していることです。「通」であって「町」ではない。この名称からは東西に通る古御旅通に面していた「屋鋪」と理解することはできても、必ずしも古御旅「町」に所在地を限定するわけにはいきません。
 『近時新聞』36号で中村武生氏は、雑色「五十嵐氏記録」4)に含まれる西九条村百姓から五十嵐氏にあてた口上書を呈示されました。この史料は従来から知られてましたが、新選組研究者は誰も取り上げてこなかったとのことです。口上書は、五十嵐氏の知行地が新選組に譲りわたす土地の範囲に含まれているが、年貢については、以後は西本願寺が負担するので了承を願いたいというもので、慶応3年2月の日付があります。この文書には添付図があり、現在の下京区志水町の東半分の南北七三間、東西二七間の敷地が示されています。しかし、この文書はあくまで交渉経過を示す文書で、うまくいかなかった可能性もあります。中村氏はさらに、本願寺末寺興正寺の日記5)の慶応3年に4月6日記事に富島頼母に対して新選組転居尽力の褒美が与えられているので、それ以前に土地の選定が終わり、大急ぎで邸宅が建設され、6月に転居が成ったと結論づけられました。つまり、2月以降、4月6日までに用地選定が終わったと推定されました。しかし、3月から建設が開始されたとしても移転まで2ヶ月半ほどしかありません。これはあまりに建設期間が短期間すぎます。

 さて、先に述べた藤井氏が本願寺文書を再調査され、『近時新聞』37号に公表された新史料は次のようなものです。

「慶應三丁卯年三月 諸日記 留役所」
(中略)廿五日、晴(中略)
一、新選組屯所引移地所、西九条村ニおゐて御買入、尤會津役知、東寺領入組之地所也、右村方引合相済、會津承知、西町奉行所届済、則右所地南北六十弐間、東西四十間余、是迄上畑地也、右御當方懸りえ引渡相済、譲渡一札懸り百之助より差出
一、字松明田
   上畑六反四畝拾壱歩
       分米拾弐石八斗
  御本所會津御役知   七升弐合
一、同 同所
   上畑五畝歩  分米壱石
  御本所東寺領
     代料金七百両也
        御境内名代人
          二文しヤ新兵衛充也

 これは西本願寺が新選組に提供する敷地として字松明田を代金700両で買いとり、そのすべての手続きが完了して百之助より「譲渡一札」が差し出されたことを明瞭に示す史料です。字松明田とは現在の下京区松明町(明治10年に西九条村から下京区に編入される際に松明町となる)にあたり、現在の京都リーガロイヤルホテル敷地そのものです。
 藤井氏は、これまでは田畑であったところに短期間で屋敷をつくることは不可能であるとの先入観から、幕末明治はじめには田畑であったことが明確な松明町、志水町を比定地候補から外していたと述べられています。藤井氏は享保期の西九条村絵図(図②)6)も呈示され、そこには堀川から取水する水路が描写されており、そこから明治にいたるまで一貫してこの地は田地として利用されてきたとし、地盤改良もそこそこに屋敷は建設され、やがて不同沈下をおこして問題になったであろうと想定し、わずか半年しか使用されなかったことで幸いにも問題にはならなかったであろうとされました。
 これで場所は確定したわけですが、筆者は、中村氏、藤井氏が述べられているような突貫工事で建設されたとは到底考えられませんでした。逆にその規模や建設過程をもう少し明らかにすることによって、この時期の新選組という集団を歴史的にどのように位置づけるかに寄与すると考え、さらに資料にあたりました。

二 字松明田の土地利用の変遷

 藤井氏が紹介された、享保期の西九条村絵図と同様の水路が天明7年と記された村絵図7)にも描かれていました。田地用の水路であることは間違いありません。
 ところが、藤井氏が確認された慶応3年3月の文書には「上畑」との記載があります。また、一方図①では地目はたしかに「田地」です。これについて若干の史料探索を行った結果、土地利用の変遷をトレースできる資料を確認しました。

慶応元年閏五月の志水町古文書 

 松明町の堀川を挟んで西隣の志水町に次のような古文書8)がありました。

就尋口上書(慶応元年閏五月)
東寺領用水堀川筋字正(松)明田と申畑地、同村百姓太兵衛所持候処、元来地味惡敷作物難立、此度同村百姓市郎右衛門、同常七ぇ借受、右川筋続在来井路筋より、巾弐尺長サ弐間之箱樋を以水掛り仕水車を掛ヶ、同所ニ四間ニ七間之水車小屋取建、右水車を以米麦雑毅類賃舂渡世仕度、且又北之方堀川筋え村内之もの通行之ため、巾三尺長サ三間之板橋を掛ヶ申度旨御願申上候付、場所御見分之上、私共儀は地境幷川下等二相成候付御呼出、右願之通被仰付候而も差支無之哉御尋御座候。此儀右之趣願人市郎右衛門・常七より前以私共え掛ケ合在之。兼而承知仕罷在、願之通被仰付侯而も聊差支之儀無御座候。尤御地頭表えも相届ケ置候儀二御座候。就御尋ニ此段奉申上候。(以下、南東・南・東北地境の百姓、木津屋町・清水町・志水町の年寄、上鳥羽村の庄屋の署名あり)
【本文現代語訳】東寺領用水堀川筋字松明田という畑地は、同村の百姓太兵衛が所持しているところです。もともと地味が悪く作物がつくれず、この度、同村の百姓市郎右衛門、同じく常七がここを借り受けて、堀川筋よりつづく在来の井路筋から幅2尺、長さ2間の箱樋をつくって水掛かりする水車を設置し、同所に4間×7間の水車小屋をたて、この水車を使って麦雑穀類を有料で舂く営業をし、同時に(水車小屋の)北のあたりの堀川筋に村内の者が通行するための、幅3尺長さ3間の板橋を掛けたいと(奉行所に)申し上げていることについて、(奉行所も)ご見分された上で、境界を接したり、川下に当たる私どもをお呼び出しになり、この願い通りに許可してもいささかも差し支えないかとのお尋ねを下さいました。このことについては願い人の市郎右衛門・常七よりまえもって私どもに相談がありました。かねてから承知いたしております。願いの通り許可されてもいささかも差し支えはございません。また、御領主様にも届けているところです。お尋ねにつき、このように申し上げます。

 奉行所よりの問い合わせに住民が答えた文書です。水車小屋建設とその北側に板橋の設置が申請されているが、住民としては差し支えはないかとの問い合わせに対し、水車小屋建設はすでに建設主から話を聞いているので差し支えなしとしています。文書の末尾には堀川筋の下流にあたる上鳥羽村百姓、水車小屋隣接地の西九条村百姓等、架橋に関わって堀川筋西隣の木津屋町、清水町、志水町の年寄の署名があります。架橋の位置は水車小屋の北とあるので、松明田に水車小屋がつくられ、その北、清水町あたりで堀川を渡る橋が計画されていたのでしょう。なお、翻刻では「松」明田となるべきところが「正」明田とされており、原本も「正」と読めるのですが、原本末尾の署名の下には印の文字があるだけで、実際には捺印がありません。そこから、この文書は写しとして保管されてきたものと考えられ、その際の誤りだと考えられます。
 これによって松明田は当時、「地味惡敷作物難立」と表現される、よくない地味の畑であったことがわかります。ところが、この文書に要望されている橋は架けられた形跡はありませんし、水車小屋が稼働した記録もありません。おそらく、この水車小屋計画は新選組新屯所敷地となったため実現しなかったと思われます。

鉄道敷設関連文書より

 松明町北端部分は明治六年になって大阪京都間の鉄道用地として政府に買収されることになります。最初の東海道線は、現在より北を通っていました。鉄道敷設関係の文書綴りが京都学・歴彩館に行政文書として残されています。
 明治9年の用地買収報告9)に用地の土地利用や家屋の持ち主を示した絵図(図③)があります。そこでも松明町にあたる部分は畑となっています。やはり、慶応期から明治はじめまでここは畑地であったことがうかがえます。

図③ 鉄道用地報告(京都学・歴彩館所蔵)

図③ 鉄道用地報告(京都学・歴彩館所蔵)

 では、明治17年に田地となっているのはなぜでしょうか。同じ文書綴りなかに、従前の井路が線路で分断されるので線路下を底樋で通じさせたいとの西九条村西尾小兵衛ら署名の要望書10)があり、青色で従前の井路、朱引で新規の井路が描かれた絵図(図④)がありました。青色で描かれた井路は図①の現松明町を矩形に取り囲むようになっています。ただし、その北辺部分は線路にかかっているので線路外の南に平行移動しなければならなかったようです。掘り直した新規水路が朱線でしめされています。また、従前の井路が矩形に曲がる手前のところで西に分岐して、底樋で堀川を超えたあと南行する水路も描かれていますが、この水路も線路で分断されるので、平行移動した新規水路の屈曲部分から西に延びる新規水路が朱線で描かれています。結果この地点で、北からの水路が東西水路とT字交差するように赤く描かれています。ただし、西に延びる水路は途中で行き止まりになっていて、その部分の計画が申請時点では固まっていなかったようにみうけられます。しかし、明治17年の図①にはこの西に延びる水路は全く描かれていません。

図④ 井路付け替え申請(京都学・歴彩館所蔵)

図④ 井路付け替え申請(京都学・歴彩館所蔵)

土地利用の変遷

 以上のことから次のような土地利用の変遷が想定できました。
1.江戸時代のある時点で堀川から取水し、現リーガロイヤルホテル敷地の真ん中を南流し、梅小路に至る水路がつくられ、水田化され、松明田という小字名の由来となった。
2.しかし、幕末この地は畑地となっていて、水路を利用した水車小屋建設が計画されるが、新選組新屯所として利用されることがきまり西本願寺が買い上げて計画は頓挫した。
3.水路は屯所の濠として矩形に取り囲むように付け替えられて屯所が新築されたが、明治元年九月に西本願寺は屯所の売却を決定11)した。
4.それを購入したのが、西尾小兵衛らで、水路が再整備されたことを利用して、西隣の志水町地所も含めて水田化しようと計画し、西側に分岐する水路をつくった。
5.ところが、すぐに鉄道線路敷設がきまり、小兵衛らは水路の一部付け替えを余儀なくされたのち、明治十年の線路開通後、水田化した。しかし、西側へ延びる水路は確認されないので、そちらは計画が中止されたと思われる。
 このような経緯は京都坊目誌に記載された松明町の項目にある「中古以来耕地たり明治十年鉄道開通に際し開くる所なり」12)という記述とも合致します。明治20年代の法務局保管の土地台帳に現れる松明町の所有者は西尾小三郎とあり、西尾小兵衛の縁戚であることは間違いありません。その後、この土地は大正4年には村井倉庫(現京神倉庫株式会社)の大規模な倉庫が建設されるにいたります。

三 洛中最後の屯所の実態から新選組を考える

新選組洛中最後の屯所について新たに確定されたこと

 以上の検討から、『下京区地籍図』に描かれた松明町を中心とした堀川と矩形の濠で周りを囲まれた地こそが新選組洛中最後の屯所であることが確定されました。
 以下のような特徴をもちます。
① 堀川とかつての用水路を付け替えた矩形の濠に敷地は囲まれていた。
② 広さは藤井氏発見の文書によると南北六十二間(約113m)、東西四十間(約73m)で、8200㎡を超える大規模なものであった。
③ 幕末期その敷地は西九条村領内であり、紺屋御方町の南側に隣接する町村接続地域に存在した。
④ 屯所は南を梅小路(古御旅通り)、東を醒ヶ井通り、西を堀川に区切られていた。

※古御旅通りの名前のもとになった古御旅所とは伏見稲荷大社の御旅所の一つでしたが、豊臣秀吉により天正年間に廃止され、その後、安永7(1780)年八月に住民氏子によって再興が呼びかけられ、天明2(1782)年8月に普請中であることが確認されるものです。現御旅所(油小路八条下がる)以前の御旅所なので古御旅所といい、油小路通りから古御旅所まで通じる道(すなわち平安京梅小路)が古御旅通りとよばれていました。

 これまで、この新選組屯所の場所については多くの先行研究があり、比較的多数の支持を集めていたのが明治16年に番組小学校である安寧小学校が移転してきた土地13)です。しかしながらその根拠は不動堂村を不動堂町と読み替えて、町屋ではないそれなりの規模をもった敷地を探した結果です。しかし、敷地を提供した西本願寺文書から、行政的には屯所は西九条村領内にあったと判断でき、さらに藤井氏が決定的な文書を明らかにしたことによって意味がなくなりました。

志水町敷地について

 中村氏の論考によって確実に新選組に提供されることが予定されていた志水町の土地(南北七十三間、東西二十七間)は、さらなる屋敷の充実をはかるための用地として交渉が進められていたと考えられます。新選組が洋式調練に熱心であったことは大石学氏14)や吉岡孝氏の近著15)に詳しく記述されています。吉岡氏によれば新選組は1864(元治元)年の禁門の変以後に洋式調練をはじめ、主力兵器は雷管式和銃であり、月12回の実射訓練がおこなわれて、その経費は幕府持ちであったといいます。さらに、新隊士が増加した慶応3年3月から5月の間に洋式調練を拡大していると推定されました。この時期はまさに屯所移転の直前の時期です。新選組はなにより、広い調練場所を欲していたのでしょう。
 また、中村氏は4月以前に普請がはじまったと想定されていますが、移転までの日数を考えるとそれでもあまりにも短期間と思われます。藤井氏はこの志水町敷地は五十嵐氏の反対によって実現せず、3月に松明町敷地を買収できて普請にかかったとされますが、これではさらに建設期間が短くなり賛同することはできません。新屯所が完成に近づいた慶応三年二月頃の段階で、敷地拡大が構想された結果、残った文書がこの口上書ではないでしょうか。施設建設が始まる前に幕末最終局面になり、年明けには戊辰戦争がはじまり、計画は立ち消えになった可能性が大きいと考えます。

屯所は大名屋敷に匹敵

 幕末、京都の郊外には多くの大名屋敷が農地を買収する抱屋敷として造営されました。鴨東はその中心で、岡崎にあった加賀藩邸や百万遍京大敷地にあった尾張藩邸は見取り図が残っていて、いずれも屋敷の周りを濠が囲っていることが判明しています。また、尾張藩邸の北向かいにある陸援隊本部となった土佐藩邸(現京大農学部キャンパス)にも濠があったことが発掘調査の結果判明16)しています。この時代、京都に新設された大名屋敷は農村部を買収した抱屋敷として建設され、多くの兵士を収容し、また内部で調練を行う軍事施設でありました。新選組も当然そのような屋敷を求めたと思われます。
 元治2(1865)年3月、西本願寺に転居してから、数ヶ月、元治が改元されて慶応元年の6月には膨れ上がった隊士の生活環境改善のために西本願寺側と交渉する土方の姿も近年明らかになりました17)。『新選組始末記』18)のなかで西村兼文は慶応元年九月におこった熊本藩との紛争を「幸トシテ」、吉村貫一郎、山崎蒸などが中心になって西本願寺による新屯所建設を承知させたと記しています。熊本藩との紛争は直に西村が立ち会った事件であり、それをきっかけに新屯所建設の要求があったとする内容は信頼してもいいでしょう。この時、移転要求理由の一つとして「種々其不要害」というのもあげられていることから、新屯所の屋敷を囲む濠の敷設は必須要求でありました。先に示した慶応元年閏五月の志水町文書にあった水車小屋計画は、この九月段階で立ち消えになったのでしょう。

新屋敷は永世相続

 しかし、莫大な費用がかかる事業を西本願寺が負担するにあたっても、新選組からの要求だけで動くものでしょうか。宮地正人氏の前掲註(2)132頁に翻刻が掲載されている近江八幡の平田派国学者西川吉輔による『風説留』の慶応2年1月記事19)に、近藤に対して「新屋敷一カ所取建、永世相続の可相成様内命も有之由」との伝聞記述があります。この内容はかねてから情報交換していた京都の国学者仲間である村田が西川のもとを尋ねてきた時に語った内容です。西川、村田とも西本願寺とは関係なく、内命を出した主体は、幕府筋からのものと考えるのが自然です。文書の内容は新屋敷が建設中で、この屋敷について近藤家が永世相続してもよいという内命があったと理解できます。
 今回明らかになったように新屯所は大名屋敷並の構えでした。吉岡孝氏は新選組の本来の役割は市中取締ではなく、攘夷戦争も実行できる洋式軍隊をめざしていたと説かれています。幕府や大名家も次々と洋式装備や軍隊を整える方向にありました。。近藤も新選組を率いてその一翼をになうつもりであったのでしょう。また、このような屋敷の造営を許した点で、幕府もそのような期待を新選組に抱いていたのだと思います。ただし、資金面では苦しかった。この時点で朝廷は一会桑によって抱え込まれていますので、西本願寺はこれより先に引き受けた御幸橋(現荒神橋)架橋20)と同様に朝廷への勤王の証として新選組屋敷建設を引き受けさせられたのでしょう。

四 各証言の検討

 所在地が松明町だったと判明した今、多くの先行研究が紹介してきた「記述」や「証言」が創作や思い違い、記憶違いとしなくても理解できるようになりました。
 西村兼文は『新選組始末記』で、新屯所の場所を「堀川通ノ東、木津屋橋ノ南」と記述していますが、これに松明町は合致します。また広さは「一町四方(9900㎡)」としていますが、今回の史料から計算される広さは8200㎡を超えています。問題の「不動堂村」ですが、醒ヶ井通りを南下してくると左手に不動堂、右手に屯所の塀が同時に見えてきます。また、不動堂村は青物市場が形成されたことから江戸時代の途中から町となりましたが、町代を触頭とする町組には入っておらず、触頭も京都雑色の松村家21)でした。町と称しながら町ではない要素があり、近郊農村である西九条村との接続地域に存在したのです。先に紹介した享保期の西九条村絵図には「不動堂村領」の記載が見られます。領というのは年貢を領主に負担する耕地の存在を示します。この同じ部分が天明期の絵図にも「不動堂領」として記載されます。ここには「村」の字も「町」の字もありません。不動堂町の内部に年貢を負担する「領」が天明期にも存在していたことを示します。おそらく幕末に西九条村などとともに雑色支配だったのはこのせいでしょう。これらの実態から西村が不動堂町を不動堂村と主観的に考えていた可能性があります。幕末不動堂村なるものは存在しないので、新選組とは無関係として切り捨てることは歴史研究としては大事なものを見落とす結果となります。
 子母澤寛が元隊士の池田七三郎(稗田利八)から昭和4年に聞き取った話22)として「醒ヶ井通り七条下がる三丁目にあった屯営で」と証言があります。醒ヶ井通は当時、通りの名前の由来ともなった五条下がるの佐女牛井町を貫いて南下する通りで、西本願寺門前では境内地をさけて東よりに流路を変えた堀川の東沿いの道となり、七条を一筋下がった魚之棚通りで堀川は再び西よりに流れを変え西側に堀川通をともなって南下します。醒ヶ井通りはまっすぐ南下しそのまま三百メートルほど下がれば松明町に到ります。三丁目を三町(約三百三十メートル)とすれば、七三郎の証言は正確に新屯所の場所を教えていることになります。ちなみに現在法務局でたどれるもっとも古い明治20年代の土地台帳の松明町の台帳表紙には「醒ヶ井古御旅上ル」と書かれており、新屯所の南側の東西通りが古御旅通、東側の南北通りが醒ヶ井通であったことは間違いありません。
 『浪士文久報国記事』で永倉新八も「七条堀川下ル所」23)としていて、まさにそのとおりです。藤井、中村両氏がもっとも信頼できる一次資料とする宮川信吉書簡も「七条通下がる」となっています。

おわりに

 「不動堂村屯所」について、2003年に京都リーガロイヤルホテル敷地内に建立された碑(木村幸比古氏撰)があります。この建碑は翌年から大河ドラマ「新選組!」が始まるタイミングで行われ、新聞報道もされました。報道の中で、「木村氏の調査によって坂本龍馬の使人菊屋峰吉の証言が判明した」結果とされているが真相は異なります。
 木村氏が霊山歴史館に就職された1975年頃、霊山歴史館の所蔵資料充実のため、昭和初期の京都市教育会の幕末史蹟建碑に関わった寺井万次郎氏24)を自動車にのせて市内各所を撮影して回った際に、直接寺井氏から聞いたエピソードがもとになっています。寺井氏が晩年の菊屋峰吉を実際に連れ歩いて、幕末遺蹟の場所を特定していく中で、現リーガロイヤルホテル敷地を指さして新選組屯所跡と証言したといいます。
 また、1978年12月からリーガロイヤルホテルの前身の京都グランドホテル社長に幕末、京都見廻組の隊士であった波多野小太郎の孫にあたられる、住友銀行副頭取であった波多野一雄氏が就任されました。当時霊山歴史館の館長であった松下幸之助氏は同じ住友系列のグランドホテルをたびたび利用していました。館員であった木村氏も波多野氏と懇意になり、波多野氏から直接「新選組屯所跡にたつホテルの社長にまさか自分がなるとは思わなかった」という述懐を聞き取ったそうです。その後、霊山歴史館は一雄氏から小太郎の遺品の寄贈を受けられ収蔵されました。
 しかし、伝聞なので確実とはいえないので「この附近」と控えめに書かれたのだと思います。
 確かに、史料批判をへた確実な史料によって歴史研究は進められるべきことは言うまでもありません。しかし、時代が近ければ近いほど伝聞で得られた証言や語りもまた重要な手がかりとして検討に値することもあります。それが突破口となって確かな史料が現れることもあります。この場合は木村氏は間に一世代はさんだだけの証言の証言者として史実の一端を現代に伝えられたとも言えましょう。
 一方、2009年に塩小路西洞院交差点南西角に「新選組洛中最後の屯所跡」という解説文を中村武生氏が書いた碑が「此附近」として建ちました。碑の文面からは、史料にある「七条堀川下がる」という表現のみに依拠して建てられたようです。しかし、これはリーガロイヤルホテル前でも当てはまります。また、不動堂の位置もそれに該当します。なのになぜ、屋上屋を重ねるような碑を建てられたのかはわかりません。現在多くのツアーでこちらが最後の屯所跡として紹介される事例が多く、史実を伝えるという意味では問題になろうかと思います。
 図⑤は現代の地図上に今回確定した8200㎡(2400坪あまり)にもおよぶ屯所を描いたものです。中村氏論考の志水町敷地は屯所各拡張予定地としました。
 今回、藤井氏、中村氏によって西九条村関係の新史料が明らかにされたことで、従来「まぼろしの」と言われてきた屯所敷地を確定することができました。また、これらの論考を掲載された京都龍馬会のご尽力の賜物でもあります。この史実確定が「歴史の中の新選組」論の進展に資することがあれば幸いです。

以上 2019年11月9日成稿

 

図⑤ 周辺図

図⑤ 周辺図(国土基盤地図より作製)

<追記 2019年11月10日>

 論考のこのような発表形態はイレギュラーで、できるだけわかりやすくと書いたつもりですがいろいろと不備があります。査読誌媒体ですと、何ヶ月後からに批判原稿がのり、著者がそれに答えるという形になるのでしょうが、このような発表形態ですから、これも異例ついでに順次気付いた時点で追記という形で行いたいと思います。本文の変更は原則として誤字、脱字、重字など以外は行いません。
 さて、新屯所建設開始時期ですが、「屯所は大名屋敷に匹敵」の項で、慶応元年閏5月には水車小屋計画があったわけですから、この時点では建設用地とはなっていません。しかし、水車小屋建設および架橋はなされた形跡がありません。一方、新選組始末記にある9月の熊本藩とのトラブルをきっかけに新選組からの働きかけが本格化したという西村の記述は信頼できるとしました。さらに「新屋敷は永世相続」の項で、慶応2年の1月の西川吉輔の風説記の記述からこの時点で新屋敷は建設中であると考えました。したがって、新屋敷建設開始は慶応元年9月以降年末までの間と考えられます。この時点からなら慶応三年の六月まで一年半あまりの建設期間を見込めます。代金の決済は、土地が確保された時点ではなく、実際に土地の上に建物が建った時点で行われたのだと考えています。

<訂正 2019年11月11日>

 本文のアラビア数字と漢数字の不統一を整えました。日野新選組ふるさと歴史館に資料を送って意見をもとめた記述が二カ所にほぼ同文で重なっていたところがあったので、後の方を削りました。読点が二つ重なっているところを直しました。以上、読者の読みやすさを向上させるために訂正いたしました。

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