慶応期西郷隆盛寓居の検討

はじめに

図① 昭和5年9月の中外商業新報記事(京都府立図書館蔵)

 中外商業新報(日本経済新聞の前身)の1930(昭和5)年9月18日と19日のいずれも7面に「京都梁山泊時代」と題するコラム記事(以下、18日記事、19日記事)が掲載されています。相国寺の東、塔之段にあった西郷隆盛寓居の場所を特定し、そこでの西郷ら薩摩藩士の生活ぶりを回顧した記事(図①)です。これは、幕末に薩摩藩士が宿所とした浄土宗大本山清浄華院の資料編集室の松田道観氏が関係資料をあたるなかで偶然発見され、ご教示を受けたものです。記事中に記された場所は下塔之段町のすぐ南、今出川通との塔之段段通の交差点東北角地にあたり、所在町名は革堂内町となります。以下の報告は以前におこなった報告「慶応期西郷隆盛寓居の検討から『薩長同盟論』にいたる」(『霊山歴史館紀要』24号 2019)の前半部分に寓居の検討に若干の追加情報を加えたものです。薩長同盟論については含まれていません。

一 塔之段所在の西郷隆盛寓居について

 西郷の寓居が「塔之段」にあると指摘されたのは桐野作人氏1)です。ただし、ピンポイントな場所の特定には至られていません。桐野氏は1935(昭和10)年刊行の伝記『元帥公爵大山巌』2)の中に塔之段寓居の記述があることに気づかれました。今回確認された新聞記事は、この伝記出版の5年前に掲載されたもので、記者が伝記の実質的な執筆、編集者である猪谷宗五郎を取材して記事化したものです。伝記中の塔之段寓居についての記述は、猪谷が直接「当時の生き残りの唯一人」であった旧薩摩藩士寺田望南(弘)翁に聞き取った結果であることがこの記事から新たにわかりました。18日記事の所在地についての記述は以下の通りです。

 その南洲翁の梁山泊たりしところはどこかといふに、それは今出川舊二條家邸の東側塔の段入り口の分銅屋といふ豆腐屋の隣にたい堀造りの家があつて、その裏に三軒ばかり二階建の長屋があり、そこのとつゝきの家がそれであつたといふことである。今では町名も今出川寺町西入北側革堂西町となつてをり、當時の建物は全くなくなつて、その跡に青山といふ人が新築居住してゐるはずである、然るに今の新しい家を、昔のまゝの南洲翁僑居あとゝして、これをひきとりたいと申込む者があるのである。

(中外商業新報 1930年9月18日付け7面)

 「たい堀造り」は「大塀造り」の誤り、「とつゝき」は「とっつき」と解してよく、「革堂西町」は現在の町名は革堂内町なので、西は誤植であると考えられます。「大塀造り」は「だいべいづくり」と読み、富裕な商人が通りに面して塀を巡らし、庭を挟んで居住用の母屋をたてたもので、普通の町屋とは異なり、建物本体が通りに面していないのが特徴です。

図② 昭和二年に作成された「京都市明細図」(長谷川家住宅所蔵版)

 図②は昭和二年に作成された「京都市明細図」(長谷川家住宅所蔵版)にえがかれた革堂内町です。この図は大日本聯合火災保険協会(現:日本損害保険協会)京都地方会によって作成されたもので、火災保険業務の必要から当時の建物の形状やその他様々な情報が書き込まれてきたことが分かっています3)。18日の記事に掲載されていた西郷寓居跡付近を撮影した写真は記者が現地で撮影したもので、明細図とほぼ同時期の写真であり、写り込んだ塀や道路の形状、さらには通りが別の大通りと三叉路になっており、その向こうに御苑の木々が望めるところから、図②に描いた矢印方向に撮影したものとわかります。記事の本文と照らし合わせると青山氏の居宅を写したものと思われます。さて、この青山氏ですが大正の地籍図4)では革堂内町517番地の所有者として青山長祐の記載があり、記事内容を裏付けることができます。

図③ 明治17年『下京区地籍図』「革堂内町」(京都学・歴彩館蔵)

 図③は明治十七年作成の地籍図で京都学・歴彩館が歴史資料として所蔵しているものです。革堂内町の範囲で長屋とは見なせない地籍は518番地です。図②では517番地と518番地が合併され、計3軒が517-1と記載されています。

 記事中にある分銅屋という豆腐店は塔之段入り口にあったとあるので、図③の517がそれにあたり、隣にあった大塀造りの家というのは518にあたると考えられます。その裏の三軒ばかりの二階屋がどれをさすかですが、素直に考えると518の東につづく、519・520・521の三軒があてはまるように思えますが、522・523についてはどうなのか、「三軒ばかり」との表現はあいまいで判断ががつけられません。ただし、記事にそえられた写真の塔之段通の左手にうつる建物を西郷寓居跡とする説明「左の旗の出てゐる家が南州翁僑居の跡」というのは517の青山氏宅を指すと思われます。

 つまり、幕末、517は豆腐屋の敷地と大塀造家の敷地に分かれており、のちに517に統合され青山氏居宅が建築されたと思われます。517の面積は大正の地籍図付録のリスト5)によると111.01坪となっています。幕末時の518はこの4分の3程度ですから、こののこりを西郷寓居とすると83坪程度のものであったようです。これは大久保の石薬師邸60坪よりも広い敷地ですが、19日記事や先の大山巌伝記からは多数の若手藩士を同居させており、大塀造りである以上庭が設けられていたでしょうから、かなり手狭な二階屋であったと思われます。

 記事が簡略で、写真も不鮮明であり、西郷時代の建物自体がこの当時すでになかったので、以上の推定が正しいかどうかは問題の残るところではありますが、この記事によって大山巌伝記中の記述が、存命していた寺田望南からの直接の聞き取りによるものであることがはっきりし、その証言にもとづく寓居場所の特定も信憑性があると考えられます。

二 相国寺惣門前の寓居

図④ 同志社大学サイト 「八重のみたキャンパス」より
土塀の仕様が同一であることがわかるように筆者が配置してみました

 ところで、もう一つ西郷邸とされる有力な場所があります。二本松藩邸の跡地に創立された同志社英学校の最初の神学館で「三十番教室」とよばれた家屋です。創立当時、校内での聖書講義を禁じられた新島は道一本へだてた校外に私宅としてこの家屋を購入し、ここで聖書講義をおこないました6)。図④の左は新島が明治9年購入と裏書きした三十番教室の写真です。二階建て建物の前を走る水路は相国寺総門から御所今出川門に延びる禁裏御用水路です。ここが「同志社五〇年裏面史」に「西郷隆盛が起臥した伝説の家」と紹介7)8)されているのです。

図⑤ 明治17年地籍図と二本松藩邸図
図⑥ 京都市及接続町村地籍図 相国寺門前町(国立国会図書館 オンラインより)
左 地籍図  右 所有者リスト 1912年

 図⑤の左図は京都学・歴彩館蔵の明治17年の地籍図です。これをみると、御付武家役宅の地番は631で、その北側に632、633、634と地番が付された宅地があります。図⑥は1912(大正元)年の地籍図9)です。631と632の地籍はそのままで、633と634の地籍が合わさって635となっています。この地籍図付録の面積、地価、所有者のリストには631および632は同志社所有となっています。地籍図の635はリストでは633と表されていて所有者は相国寺となっています。図④に付した説明のように、三十番教室は631のかつての御付武家役宅敷地の北側に隣接してました。したがって、地籍図の632にあたる敷地が三十番教室であると理解できます。

 ではここが同志社での伝承どおり西郷寓居だったのでしょうか。原田良子さんよりご教示いただいた三井文庫が所蔵している薩摩二本松藩邸の維新直後の図面で、その東端の部分(図⑤の右図)にも明治17年地籍図と同様の地籍が描かれています。この図は全体として薩摩藩管理建物のみを描いた図で、すべての建物に書院、長家、土蔵などの注記が施されています。633と634の地籍にもそれぞれ「長家」、「貸家」の注記がありますが、632の地籍は空白です。ここは薩摩藩管理外の敷地であった可能性があり、633、634は確実に薩摩藩管理のもとにあったと考えられます。また、632の敷地は20坪ほどの敷地で西郷邸とするには寓居であるにしても小さくて相応しくないように思えます。むしろ633、634(大正元年の地籍図では633あるいは635の地番で合地)が198坪あり、西郷邸に相応しいと思われます。三十番教室で学んだ同志社の学生達の間で伝承されていくうちに事実関係があいまいになっていったと思われます。

 『甲東逸話』に大山巌談として「維新前西郷は相国寺の門前に一家を構えて10)とあります。相国寺門前とは、惣門をさします。また、『品川子爵伝』11)には、慶応3年12月9日王政復古クーデタの数日後に、品川が世良修蔵と二本松藩邸から寺町の方に歩いて行くと麻裃を着た西郷に出会い、いっしょに下宿まで帰ってくれといわれ、下宿で有栖川宮様が参内してくれずに困っているとの話を聞いたことを回想しています。品川は「其頃西郷は相国寺門前の東側に、家がございまして其所の町屋に下宿して居ました」と述べています。623・624の薩摩藩管理の長家、貸家がまさに品川のいう場所に該当します。この地は地名「塔之段」(足利義満建立の七重の大塔にちなむ地名で、相国寺の東側に所在)のうちにはふくまれないので、「塔之段寓居」とは別の居所であることはあきらかで、『甲東逸話』の大山は『元帥公爵大山巌』に記述された「塔之段寓居」とは異なる西郷寓居のことを話していると考えた方がよいでしょう。

 以上から、明治17年地籍図に残る相国寺門前町633、634の敷地が相国寺門前東側の西郷寓居であると結論します。

関連位置図

まとめ

 ではなぜ、西郷寓居が二カ所もあるのか。慶応期の西郷は大久保や小松とは異なり京都では妻帯をしていませんでした。霊山歴史館紀要に書いた拙稿では西郷の役割として、薩摩藩若手藩士や西郷をたよってきた他藩脱藩浪士らの世話役を、おそらくすすんで勤めていたようです。中外商業新報の記事の表題は「京都梁山泊時代」です。19日(下)の記事では慶応2年2月28日付けの川口量次郎宛ての手紙が紹介されています。そこには弟に甥も2人同居し、さらに食客6人も居候している様子が記述されています。漢詩の素養を磨いたこともでてきます。

 大久保は薩長同盟締結時に一端帰藩し、とんぼ返りで帰京し、石薬師に邸宅を入手します。大久保が帰京したのと入れ替わりに慶応2年3月に西郷は小松や龍馬とともに帰藩します。次に上京するのは10月です。この間に塔之段寓居とは別に相国寺門前の邸宅に住まいするようになったと思われます。三井文庫の藩邸図を考慮すると相国寺門前宅は藩邸の一部で、大久保の石薬師の邸宅とは成立事情が違うようです。京都で妻帯していなかった西郷にとっては塔之段宅も相国寺門前宅も本来の意味での「寓居」仮住まいであったのでしょう。

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