続・寺田屋考(4)建物そのものを観察

建物そのものを観察、考察する

現時点で、様々な史料から現寺田屋建物は慶応4年9月に明治と改元されるまでには、もとの建物の西隣に船宿として再建されていたと考えられます。決して、明治後期に新築されたものではないと見ています。今回は建物そのものに、考古学的な微証があるかどうかについて見当してみたいと思います。
<外観の一致>
1861年に出版された『淀川両岸一覧』という淀川水運周辺の名所図会があります。
こちらの図は、伏見京橋の図(早稲田大学図書館古典籍総合データベースにリンク)です。川に架かる手前の橋が京橋、向こうの橋が蓬莱橋で、寺田屋はその間にあります。その間に浜が描かれていて、その左手に切り妻二階建て平入りの建物が描かれ、軒屋根と欄干も見えます。形状的には現在の寺田屋建物と同様の建物であったことがわかります。1861年には寺田屋は存在しているので、これを書いた絵師は寺田屋を見ながらスケッチしていることは間違いないでしょう。
<濡れ縁の傾斜>

南側濡れ縁の前方への傾斜

外観から見える欄干付きの濡れ縁ですが、中からよくみると表側に向かってわざと傾斜させてあります。係の方の話しによると雨にぬれても水がたまらないようにしてあるとのことです。たしかに船宿であれば、多少の雨が降っていても外の船着きの様子は見なければなりませんから、雨戸はめったに閉めなかったでしょう。

<改修・部材転用の可能性>
現在の寺田屋建物は再興時に旅館に転用されていますから、相当の改修が行われています。
船宿であれば、1階部分は船客の待合所ですから、やはり『淀川両岸一覧』の伏見船宿の図(早稲田大学図書館古典籍総合データベースにリンク)にあるように、広く土間が打たれていたはずです。1階床板の下にその痕跡があるかもしれません。
2階の部屋の敷居の2箇所で不自然なほぞ穴を見つけました。『京都維新史蹟』という写真帳に現建物は「旧宅の木材をもって」建てたとあります。このイレギュラーなほぞ穴は旧宅からの転用材であることを示している可能性はないでしょうか。しかし、見つけることができたのはこの2箇所だけで、お客さんも多かったので、また非見学エリアもあるので、こういうのがもっとあるのかどうかまで仔細には見分することはできませんでした。

2階座敷敷居のほぞ穴1

2階座敷のほぞ穴2

<風呂について>

風呂については、現在据えられているものは戦後になって古民家から出たものをもらい受けたものだそうです。形式は木樽の中に煙突と焚き口をもった金属製の箱を据え付け、それに薪をくべて樽の中の水を温めるもので、『鉄砲風呂』といわれるものです。江戸時代から戦後まで広く、長く使われていました。
ただ、関西の方は『五右衛門風呂』という形式で、底に鉄鍋状のものをおいて、それを熱し、その上に組み立てられた樽に張った水を温めるものです。木製の樽ではなく、底の鉄鍋と樽が一体に鋳造されたものもありました。1960年代まで筆者の田舎の風呂がこの形式で、木製の床板(ゲス板)を底に沈めてから入りました。うっかり沈め損なうと火があたっている面に足が触れるので相当あつかった経験がありますが、当然水があるので、やけどをするほど熱いわけではありません。母屋とは独立して据えられていて、焚き口から薪をくべていました。アルミホイルに包んだトウモロコシを放り込んで焼いて食べていたことを想い出します。
幕末の寺田屋にある風呂は鉄砲風呂です。母屋の外部に据えられていて、焚き口も屋外にあったはずです。風呂のまわりには簡単な屋根と目隠しの板塀が設けられ、まわりには簀ノ子が置かれていた程度のかなり開放的なものだったんじゃないでしょうか。
『東海道中膝栗毛』の小田原の風呂は五右衛門風呂で、鉄砲風呂しか知らなかった弥次喜多はゲス板を沈める要領もわからず底が熱いので下駄をはいてはいり、底を抜くというへまをやらかしています。さし絵でも風呂は屋外に据えられています。練馬区町づくりセンター所長ブログに鉄砲風呂と五右衛門風呂の解説があります。
寺田屋の風呂は今、建物が建っているところがかつての寺田屋の西隣空閑地で、その母屋に接する一角に据えられていたと考えれば、風呂にはいっている人物が寺田屋の表を取り囲む様子も見えたことでしょう。その風呂の横には勝手口があり、”おりょう”はそこから梯子階段をのぼって急を告げたことになります。もっとも荒木家の家伝によれば、この時風呂に入っていたのは当時12歳の英一の妻”きぬ”であったと先に紹介した荒木の略伝にはあります。

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