続・寺田屋考(2)寺田伊助の義弟荒木英一

寺田屋関係を投稿したついでに、寺田伊助の義弟荒木英一のことについてわかったことを書いておきます。

寺田伊助の義弟荒木英一

2019年に日蓮正宗の源立寺から明治・大正期に日蓮正宗(最初は日蓮宗大石寺派)の活動家だった荒木清勇の略伝が出版されました。この清勇こそ本名英一だったのです。

菅野憲道『忘れられた総講頭 荒木清勇居士略伝』 源立寺 2019年10月

この本にもとづいて以下お伝えします。
荒木英一は嘉永4(1851)年長州萩の刀剣商福重家に生まれ、荒木家の養子にはいり鳥羽・伏見の戦いにも参戦したようです。いったん郷里に帰り、明治4年に大阪に出て、米相場師の丁稚になったそうです。このころ法華経の講義を聴いて日蓮宗に帰依しました。明治8年には”おとせ”の三女”きぬ”と所帯をもち、木屋町二条に住居しました。明治10年に”おとせ”が病没し、明治12年に荒木夫妻は大阪堂島に移住し、米相場師として活躍をはじめます。
伊助夫婦は明治13年に伏見を離れて大津に転居しました。これは日蓮正宗の記録にあります。
大津は先年あらくらゆう氏が”おとせ”の実家を大津の郷宿桝屋と特定(あさくら氏ブログにリンク)されました。伊助は母の故郷に最初移住したのです。
一方、荒木は大阪で成功を収め、米取引所の理事にもなり、商工会議所代表として大阪市会議員もつとめます。日蓮正宗の記録によると伊助も遅くとも明治34年ごろには大阪に転居したようです。成功した荒木に呼ばれたのかも知れません。
日蓮正宗の側の記録によると伊助は明治41(1908)年10月14日、57歳没、ハナは大正9(1920)年8月19日、55歳没となっています。数え年の記載なら英一と伊助は同年産まれになります。
英一は明治40年正月からの日露戦後恐慌で大損をして寺田屋に関わる余裕もなくなったようで、以後は基本的には布教活動家となり、いくつかの著作も清勇名で出してます。
したがって、寺田屋の再興は英一の羽振りがもっともよかった時期です。商売になるという動機だけで、子供もなく還暦まじかの伊助等が寺田屋を再興したということはないと思います。実際、伊助は再興2年余りで亡くなります。
ちなみに、”おとせ”の長女”りき”、は十津川郷士で陸軍中佐となった殿井隆興に、五女”かの(鹿野)”は京都師範学校校長を務めた八代規(元薩摩藩士で東京市長も務めた田尻稲次郎の兄、長男の則彦は住友銀行会長)の後妻にはいっているので、伊助の兄妹の嫁ぎ先も名門ぞろいでした。寺田屋は結局縁者に引き継がれることはありませんでした。
荒木英一は大正12年、その妻”きぬ”はそれより早く大正10年に亡くなっています。

コメント