「御花畑」屋敷研究深化のために~まとめ~

2016年、薩長同盟締結の地ではないかと、京都と鹿児島でのあいつぐ資料発見によって報道、注目された「御花畑屋敷」。今も、その直後の原口泉氏のコラムはまだネットでみることができます
その後、京都における資料発見者の原田良子さんを手伝って、「薩長同盟締結の地『御花畑』」(2016年9月)を西郷南州顕彰館の機関誌『敬天愛人』に公表しました。2020年3月になって、同志社大学の佐野静代氏が 「近衛家別邸『御花畑』の成立とその政治史上の役割: 禁裏御用水・桂宮家・尾張藩・薩摩藩との関わりについて」( 同志社大学人文学会)という専論を公表されました。こちらは同志社大学のリポジトリにも公開されていることもあって、Wikipediaなどにも引用文献としてURLが掲載されることが多くなっています。
2016年に至らぬながら最初の報文に関わったものの責任として熟読し、新たに提示された史料を調べ、論文の論理構成を吟味しつつ、批評を3つにわけて私的ブログサイトに公表しました。
以下、概要です。
佐野論文の眼目はそのサブタイトルにあります。
第一に「禁裏御用水・桂宮家」についてです。御花畑屋敷が禁裏御用水の流路を取り込めた理由を桂宮家の小山御屋敷が前身であるとする新見解を出されました。水辺の環境について歴史地理的研究を積み重ねられてきた佐野氏ならではの視点も盛り込まれていました。しかし、原田良子氏によって桂宮家の別邸の場所が別場所にあることが江戸中期の絵図によって特定されたことで、その意義を失いました。桂宮家は御花畑屋敷とは関係ないことがわかり、また禁裏御用水がとりこまれている事情についても不明なままであることをブログで明らかにしました。
第二に「尾張藩」との関わりです。天保年間に尾張藩によって、近衛忠煕生母で尾張藩第九代藩主の徳川宗睦の養女として近衞家に嫁した維君の隠居所として御花畑屋敷が整備されている史料を提示されました。この史料については筆者も知らなかったので有力な情報をえた思いでしたそして、幕末尾張藩京都留守居役尾崎忠征の日記の記録から慶応3年9月の段階で、武力討幕へと急進化する薩摩藩に不快感を示した近衞家が薩摩藩に貸していた御花畑屋敷の使用停止の意志を尾張藩に漏らしたという見解を出されました。しかし、佐野氏が引用された尾崎の日記の、あえて引用されなかった前後を含めて全体を読めば、そのような見解は成り立ちませんでした。近衞家が尾張藩に求めたのは本邸内に造作する敷舞台の用材の提供であり、尾崎はそれは時節柄不可能として、断る方針をとるように本藩に進言したという内容にすぎませんでした。
第三に御花畑屋敷と密接な関係にあった桜木町屋敷と「薩摩藩」の関わりです。現在も未翻刻である陽明文庫所蔵の近衞忠房日記を引用して、安政の大獄で御花畑屋敷に謹慎していた近衛忠煕が丸太町通鴨川東にある桜木町屋敷に転居することを希望し、安政7年の2月4日に、それまで薩摩藩所有下にあった桜木町屋敷が近衞家に引き渡され、そのことが前提となって尾張藩との関わりが深かった御花畑屋敷が薩摩藩に提供されたと論じられました。そこで、該当の忠房日記は全文引用されていなかったので京都学・歴彩館にいってデジタル史料で確認したところ、原文は「薩之別荘今日廻方より請取引渡候也」とありました。廻方について考察したところ、これは薩摩藩士の桜木町屋敷管理人の事で、この原文から所有権の移転が行われたとを読み取ることができませんでした。

以上、論文サブタイトルに関わるもっとも重要な指摘については原史料にもとづいて全く異なる結論をだしました。

最後に、御花畑屋敷に関わる多くの史料にあたられ今後の研究の手がかりを提示されました。特に尾張藩との関係や、小松寓居となる以前の薩摩藩による御花畑屋敷活用を示唆する史料など、筆者としても学ぶところが多かったことを明記しておきます。
詳しくはブログを参照いただくようお願いいたします。

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