新選組「不動堂村」屯所についての補足

2020/6/8京都新聞

2020年6月8日付けの京都新聞で「新選組『西九条村に屯所』論争決着?」という見出しで記事が掲載されました。個人的には論争は決着したと思っていましたが、一部専門家の方から、まだ確かめなければならないことがあるという意見も強くだされたようで、見出しには「?」がつけられました。

まず、すでに「字松明田」という資料を見分していたのですが、それを広く公表可能とするための許諾関係が不明で、論争決着にはそこまで必要ではないだろうと考えて出していませんでした。その後、京都市歴史資料館に行って調べたところ、これらの資料はすでに市史編さんの資料として写真撮影がされ所蔵されていましたので、いまだ写真公開はできないものの見分は可能でしたので、それにもとづいて補足をいたします。あわせて『史料京都の歴史』にも所収されている文書とも関連付けて説明をしておきます。
また、長年「不動堂村屯所」とよばれていたので、「不動堂村」にこだわられる向きもあるので、そのことについても補足説明をいたしました。
さらに、木村幸比古先生が、リーガロイヤルホテル建碑の時に話された菊屋峰吉の「証言」についても、すでにブログで書きましたが再度ご紹介しておきます。

松明町と字松明田の関係

西九条村字松明田は京都市下京区第29組松明町であるとするのは飛躍があるとの指摘が、いまだありますので、改めて補足いたします。
京都市歴史資料館には、市史編さん時に市内各所に残されていた文書を撮影したものが所蔵されています。安寧校区の自治連会長であった佐々木壽夫氏が所蔵されている文書もあります。その中に第29区の町ごとの地籍図も複数含まれています。「下京区区第廿九組松明町」という表題と「明治十六年一月調 内務省出張員に差出ス」という記載がある地籍図に「字松明田」と明記された地籍が三筆あります。面積とともに長さも記載されてあり、南北にならぶ三筆の東辺を足し合わせると合計で五十三間、東西辺は北辺で三十六間三分と表記してあります。本願寺資料には南北六十間、東西四十間とあります。敷地の北辺は明治10年の鉄道用地で削られているので、もとは六十間あったのかも知れませんが、東西はややせまくなっています。
他に松明町の北にある紺屋御方町の地籍図の堀川よりのところに字松明田の記載がある地籍がありますが、鉄道敷設で松明田が分断されたので、この北の部分は分離して紺屋御方町に編入しました。
この絵図の記載を裏付けている文書があります。京都市編『資料京都の歴史 12 下京区』(1981 平凡社)の安寧学区の資料を掲載した482pに「西九条村の一部が市街地に編入され、学区域が広がる」という題名のもとに2通の文書が収録されています。20番の佐々木壽夫氏所蔵の文書は明治10年の6月に第29組の区長が京都府知事槇村宛に提出した文書の写しで、「市郡境界御改メ組込伺」との表題があり、そのうちの一項に「西九条村之内戊己庚印之分は人家も在之候間、更ニ町名相附ケ申度、且字松明田と申処も御座候ニ付、向後松明町と相唱へ候而可然哉」と明記してあります。つづいて、「前同村之内辛壬印之分は御方紺屋町え組込候而可然哉」としています。この文書にはもともと朱引きされた地図が附属していたようですが、所蔵資料の中にはありませんでした。
つづく、21番の9月19日付けの「御伺書」は町名変更について追加の伺いを立てたものです。内容は、先に松明町にしたいと伺いを立てたが、西九条村の時は「油小路より『南』が油小路組、醒ヶ井通より『南』を寺之前」と称しており、この2つを一ケ町にしたいので町名についてご指示を下さい」となっています。また、鉄道線より北の醒ヶ井通りより『南』に五戸ありますが、これは紺屋御方町に附属したいのでお伺いをたてます」というものです。なお、油小路も醒ヶ井通も南北道なので、文書で『南』となっている部分をは『西』の誤りです。この文書の原本写真版も確認しましたが、『南』でした。おそらく、この文書は府へ提出した文書の写しで、現地の事情をしらない筆写者が誤ったものと思われます。紺屋御方町に鉄道線より北側の字松明田を編入したということも地籍図と符合します。
以上を総合すると、明治10年の6月と9月に区長からの京都府への下京区編入の申請がなされ、松明町の町名や鉄道以北の字松明田部分を紺屋御方町に編入したいという希望はとおり、明治16年に内務省に差し出した地籍図のようになったことがことがわかりました。
ちなみに、21の文書によって現在の松明町部分が西九条村時代は寺之前、その醒ヶ井通を挟んで東側が油小路と称していたことも明らかになりました。
油小路通も醒ヶ井通も南北道なのに「南」とあるのは、それぞれの道の「南延長部分」という意味だと考えられます。醒ヶ井通の南延長部分の東西が寺之前組、油小路通の南延長部分の東西が油小路組と西九条村時代はよばれていたようです。この21番文書ではこの二つの組を、「字松明田」という地所もあったりするので「松明町」にしたいと申請されたわけです。
しかし、結局のところ二つの通りにまたがる町編成は認められず、具体的に字松明田が存在する寺之前組は松明町に、そうではない油小路組は南油小路町になったようです。同時に寺之前組の鉄道線路以北は御方紺屋町に申請どおり編入されました。寺之前組という名前はおそらく醒ヶ井通りが西本願寺の正面を通る道なので寺之前通という別名があったのでしょう。なお、現在は醒ヶ井通の東にあたる部分は西油小路町となっています。この町名は明治27年の地籍図にはなく、松明町の一部のままです。
これらの史料から、字松明田の部分が現在の松明町であることは証明されました。新選組の用地としては御方紺屋町に編入された部分が買い上げの対象にはいっていたかどうかはわかりません。
(訂正日:2021/2/20 なお、このあたりの見解をまとめた図版を作成予定です)

不動堂村について

不動堂村については西九条村絵図が京都市編『史料京都の歴史 13 南区』(1992 平凡社)の口絵に享保7年(1722)の絵図が掲載されています。この中に「不動堂村領」という文字が見えますので享保の頃は不動堂村であったと確認できます。ただし、中村武生氏はすでに承応2年(1653)の絵図には「不動堂丁」とあることを指摘されています(「新選組最後の洛中屋敷、所謂『不動堂村』屯所の一考」『近時新聞』36号 2019年6月)が、事実は、それより後の享保七年の地図にも「不動堂村」とあるということです。つまり不動堂あたりが「町」か「村」かはゆれがあるのです。京都学・歴彩館が所蔵している天明7年5月の同様の絵図には「東塩小路村領」と並んで「不動堂領」という記載があり、村の字が抜けていると同時に逆に町とも書いてありませんでした。
また正徳4年(1714)の「近世京都町名一覧(「洛外町続町小名并家数改帳」をもとに作成)」(『史料京都の歴史 4 市街・生業』1981 平凡社 所収)では不動堂町は家数は13で雑色の松村氏支配であったことがわかります。この記録から不動堂町は洛外と位置づけられていて、洛中の町組の中には位置づけられていないことがわかります。この洛中、洛外の中間地帯的な性格があったところから、承応2年や正徳4年よりあとの享保7年の絵図でも不動堂「村」と記載されてしまう原因になっていると思われます。なので京都の町行政に関わっていなかった西村兼文が不動堂村と思っていたとしても不思議ではなかったでしょう。これをもって西村の情報があてにならないことにはなりません。

【菊屋峰吉のはなし】

2020/6/8京都新聞

最後に菊屋峰吉が現在のリーガロイヤルホテルの地を屯所と示したという話しですが、これはブログでも書きました。もともとは歴史家、寺井萬次郎氏(1896~1986)が若い頃に晩年の菊屋峰吉(1851-1916)とともに幕末維新史蹟の特定にまわった時に峰吉から直接聞いたことがもとになっています。それを木村幸比古氏(1948~)がさらに聞きとられたということなのです。

木村さんが聞かれたのは霊山歴史館の学芸員になられたころで、歴史館の展示の基礎資料とすべく当時、歴史館によく出入りされていた寺井萬次郎氏を自動車にのせて幕末維新史蹟を写真に収めに回られていた時のことだったということです。
建碑の根拠は、これとリーガロイヤルホテルの前身グランドホテル時代の社長としてこられた京都見廻り組隊士波多野小太郎の孫にあたる方からのお話にもとづくものでした。
ですから、峰吉のこの証言を記載した文献は、こういう経緯ですのでありません。今回屯所の場所を特定する作業の中で木村さんに直接取材をしてわかった次第です。

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