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閑話休題:嵯峨根良吉と坂本龍馬の接点

2020年7月31日

嵯峨根良吉とは

嵯峨根良吉は宮津藩領内の村医の子として生まれ、藩命で緒方洪庵の適塾に学び、その後長崎で英学を学び、慶応2年の5月には鹿児島の薩摩藩洋学所である開成所の教師として雇われ、翌年には正式に薩摩藩士に列されましたが、惜しくも翌年の6月に鹿児島で病死した人物です。
良吉については慶応3年の5月に島津久光に対して「国事建白」を行った記録があったが、その内容はよく知られていなかった。ところが、子孫の家に良吉の義弟がまとめた史料が残されており、その建白は『時勢改正』と題され内容がわかった。2006年3月11日には京都新聞記事として、坂本龍馬の「船中八策」よりも1月はやい、新政権構想として紹介されました。もっとも、この資料中の良吉の経歴は明治42年にまとめられた『国事鞅掌報効志士人名録、第1輯』に拠っているので、同時代人が残した史料ではあるが、一次史料とはいえません。
京都新聞記事にもありますが、嵯峨根良吉顕彰に尽力されたのは京丹後市在住の岡田孝さんで、曾祖父が良吉の妻の弟にあたられる方です。
岡田さんは、先祖が残された史料だけではなく、さらに資料を探索され、2009年『龍馬より早く新時代構想を建議した男 嵯峨根良吉』という冊子にまとめられました。まとめられるにあたって別にいくつかの資料を提示されています。この記事もその冊子に拠っています。
その冊子の中で、赤松小三郎のことも取り上げられ、やはり慶応3年5月に赤松が松平春嶽に出した、『御改正之一二端奉申上候口上書』とほとんど同じ内容であったことを確認されました。その上で、赤松と嵯峨根は親しい間柄でいずこか、いずれの時期かに建白の内容を話しあったと想定されています。
坂本龍馬については、最新の研究で『船中八策』の存在は否定されていますが、龍馬が新政体の構想をもっていたことは確かで11月には龍馬自筆の『新政府綱領八策』が残されていることからも明らかです。しかしながら、坂本龍馬があまりに英雄的すぎて、龍馬は一人先をみていたというような見方がいまだに多く世間には広まっています。
しかし、実際の歴史は当時、この嵯峨根良吉も含めて外国事情に通じていたひとかどの人物ならば誰もが新政体についての構想を考え、語り、書き残していたに違いないと考えた方がいいでしょう。

『上京日記』からの発見

さて、このサイトでは桂久武の『上京日記』を読んで来ました。慶応2年2月20日条に
【原文】「此日岩山壮八郎・田中喜太郎江戸より差越候で参合候、花川金之進ニも参候、宮津藩某御頼入いたし列下り候由ニて参候間逢取候也、此日終日在宿也」
【私訳】「この日は岩山壮八郎・田中喜太郎が江戸から来て面会にきた。花川金之進もやってきた。宮津藩の某が頼んで一緒に下ってきたというので面会した。この日は終日在宿した」
という記事が出てきます

この「宮津藩某」というのが誰か随分悩んで幕末の宮津藩関係を調べていくうちに嵯峨根良吉にたどりつきました。
前述の岡田孝さんの冊子によると、慶応元年の12月に緒方洪庵の妻八重が良吉に職がないことを心配しているという内容が記述された息子宛の手紙が残されているとのことです。
「御頼入」という言葉から、この人物が頼み込んで京都まで連れてきてもらった様子がうかがえます。「列下り」ですが、一緒に江戸から下ってきたと考えるとおかしなことになります。当時、江戸から京都へは上るであり、下りではないからです。しかし、これはこの一行の目的地が京都ではなく、最終的に鹿児島であるならば、問題はなくなります。京都からさらに鹿児島へ「下る」わけです。久武もそれを念頭において「列下る」と記したのでしょう。
つまり、前年末に職がなかった良吉は必死の思いで知り合いの薩摩藩士に薩摩藩への仕官を頼み込んだのでしょう。洋学者としての実績をアピールすれば採用もされると期待していたに違いありません。
面会した久武は他にも木藤市助を第二次薩摩藩留学生として推薦したり(2月5日条)、海外渡航希望者と上京中にも面会(1月2日条)しています。また、第一次留学生の長澤鼎の縁者の磯永という人物(2月1日条)とも面会したようですので、海外留学生や洋学関係者の担当をしていたようにも思えます。この日の久武との面会は面接であったのかも知れません。
一緒に京都にきた岩山壮八郎は西郷の妻の糸子の従兄弟で当時は27歳だったようです。良吉は29歳です。岩山は維新後アメリカ留学して農政を学び農商務省で活躍し、日本牧羊の父となります。田中、花川についてはわかりません。彼らの方から無職であった良吉に英学の実力をもって薩摩藩への仕官をすすめたのかもしれません。
この月末には西郷、小松、桂久武らは龍馬夫妻をともなって帰国の途につきます。良吉もこれに同道して3月はじめに鹿児島に入り、5月には開成所の教師として雇われることになります。その翌年5月に建白書をだし、10月には薩摩藩士となりました。宮津藩では村医の子にすぎないので扶持もなかったでしょうから本人にとっては大出世だったでしょう。

嵯峨根良吉と坂本龍馬、赤松小三郎はこの時京都にいた

慶応2年2月から赤松小三郎は京都に私塾を開き、10月からは薩摩藩に頼まれて京都藩邸で藩士教育にあたってます。また、龍馬は薩長同盟に立ち会った後、寺田屋で幕吏に追われて重傷を負い、薩摩藩邸に匿われていた時期です。
奇しくも、坂本龍馬、赤松小三郎、そして嵯峨根良吉が、この慶応2年2月20日から月末にいたる時期に京都いたことになります。赤松とは後述のように長崎時代に接点があるので、京都でも面会はしたでしょう。龍馬はこのころは生涯の中でもっとも動けない時期だったでしょう。龍馬と同行していた三吉慎蔵の日記には大勢の薩摩藩関係者が龍馬のもとをおとずれていることが記録されています。薩長の接近、龍馬が薩摩藩邸に匿われていることは当時は半ば公然となっているので、良吉も知るところだったでしょう。薩摩藩邸内で両者が知り合った可能性はあると思います。

良吉と赤松小三郎、寺島宗則との接点

岡田さんの冊子では、良吉は嘉永7(1854)年5月に適塾に入門し、塾頭の伊藤慎蔵とともに安政3年5月に越前大野藩の洋学館に移り、半年後の11月に長崎へいったことを確認されています。この安政3年の時期には幕府長崎海軍伝習所があり、この1期生として勝麟太郎とその従者として赤松小三郎がいます。長崎での良吉については先の『国事鞅掌報効志士人名録』によります。それには、安政5年に行われた勝を総督とし、指導のオランダ人と日本人が乗りこむ咸臨丸による長崎から薩摩への実習航海が実施され、その乗員として良吉は活躍したようです。山川港からは島津斉彬も乗り込んで鹿児島まで回航されました。赤松小三郎とはこの時に接点ができています。また、その時斉彬の側には松木弘安(のちの寺島宗則)が通訳としていたようです。『国事鞅掌報効志士人名録』では良吉が慶応2年に薩摩藩に招聘されたのは寺島宗則の推挙があったからだとされているのは、ここに接点があったからだと思われます。しかし寺島宗則(松木弘安)は薩摩遣欧使節団の一員としてこの時期渡欧しており、3月に帰国しています。2月、良吉が京都で久武にあったころは日本にはいませんでした。良吉の鹿児島入りには寺島は直接の関係はなかったでしょう。その後、鹿児島で寺島と再会し、その推挙を受けたということは考えられます。

まとめ

まとめると、良吉は慶応元(1865)年の年末には無職で江戸にいて、薩摩藩への仕官を目指して翌年2月、薩摩藩士とともに京都にでて在京中の家老桂久武と面会しました。その月末に西郷や小松、桂久武、坂本龍馬夫妻らと薩摩に下り鹿児島に到着、5月に開成所に教師として雇われたという流れになります。開成所に雇われるにあたっては寺島や京都の赤松らの推挙があったかも知れません。以上が、今回『上京日記』の中にみつけた「宮津藩某」という記録からの推論です。
赤松、嵯峨根、龍馬が慶応2年2月に京都で出会っていた可能性と新政体構想にどれだけ関係するかは今はわかりません。
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