薩長同盟成立プロセスの考察(5)-核心部分-

京都、伏見の位置関係です。右端の大津をいれて距離感をわかるようにしています。

桂久武の慶応元年末から翌年2月までの京都滞在中、決して退屈に過ごしていたわけではなく、上京前には予想もしていなかった緊張感の中で過ごしていたことがわかってきました。この日記をしっかりと読み込めばこの時に薩長会談の真実も見えてくるように思います。その結果、これまであまり問題にされてこないことが浮かび上がってきました。

1 京都藩邸内の関係者のそれぞれの立場

西郷派 薩長連携を推進していきたいと考えているが、久光からは信用はされていない。これには、大久保、西郷を慕う黒田了助、坂本龍馬とも親しい吉井幸輔、薩長同盟を希望する太宰府の五卿付きであった黒田嘉右衛門などです。
反西郷派 筆頭は奈良原幸五郎でしょう。寺田屋事件では鎮撫使として久光の意向を受けて同志を討伐し、生麦事件にも関係しています。また、山本栄一郎氏が紹介(『真説・薩長同盟』2001年、以下山本氏の見解はすべてこれに依拠)された田中光顕の回想(『史実参照・木戸松菊公逸話』妻木忠太・昭和10年)で、木戸を送り届ける船の中で奈良原が木戸に無礼を働いたことからも最強硬派であったといえるでしょう。海江田信義も生麦事件を経験しています。のち、奈良原は武力討幕に反対し、維新後も冷遇されました。海江田は弟2人を桜田門外の変に絡んで失っています。特に次兄は幕府の意向を配慮した藩から自刃を命ぜられました。もちろん幕府や藩に対する反発もあるかに思いますが、国父である久光の命に従うのが藩士の務めであるとの意識を強く持っていたのではないでしょうか。のちに大久保・西郷が指導する新政府に不満をもった久光との調停にも尽力していることからもそれはうかがえます。
小松帯刀・島津伊勢(諏訪甚六) この二人は桂久武と同様の家老職にあります。在京薩摩藩の責任者として、西郷の方向性と久光の意向のずれに悩む立場であったでしょう。小松はこれ以前に長崎で、長州藩が薩摩藩名義で武器を購入する斡旋をしていますから、薩長同盟は不可避であるとの認識は当然もっていて、西郷の考え方に近かったのは間違いないでしょう。しかし、在京トップとしての立場から慎重に行動しなければならないことだったでしょう。
桂久武 家老職にあり、久光の名代として天機伺いと「御趣意」の徹底を任務に上京しています。久光の疑いを受けている西郷をなんとしても国許にいったん連れ帰ることが最善と考えて上京してきた立場です。西郷の大島在住以来の親友としての立場もあります。

2 上京日記に見る藩邸内の動き

(1)久武上京直後

久武上京には小松も大久保も西郷も伏見まで出迎えに来ています。到着早々の12月18日夜に久武は小松および大久保と懇談をし、翌朝払暁に西郷を訪ね「御趣意」を説得したことが上京日記にでています。よっぽど西郷のことが心配で、小松、大久保も同様であったことがうかがえます。西郷が思いのほか納得してくれたことに安心し、「仕合せ」とまで書いています。20日は二本松藩邸で久光の「御趣意」を皆に早速伝達します。病気で寝込んでいた島津伊勢の病床にまで踏み込んで伝達していますので、久武にとってこの任務がいかに重要であったかがうかがえます。
この後、年が明けて木戸の上京までは2人は親友らしく。22日、23日、24日と3日連続で西郷と個人的な話しをする機会を設けています。25日には国許に西郷が送るべき手紙についての内容を確認しにいってます。この時の手紙は12月25日付けの久光側近の蓑田伝兵衛宛のもので、「御教諭の御事、実に恐れ入る次第に御座候」と書いています。これと同時に簔田伝兵衛宛に上方情勢を伝えた手紙を送っていますから、こちらの方は実質的に久光宛のものでしょう。久武の「口合わせ」が一応成功しています。

(2)木戸上京

木戸が上京してくると藩邸内は慌ただしくなります。木戸到着の正月8日、西郷が伏見に木戸を出迎えにいったあと、島津伊勢(諏訪甚六)から話しに誘われます。ここには海江田、奈良原、谷村がくるということだったのですが、結局海江田しか来ず、吉井が少し顔をみせたことが記録されています。先述したそれぞれの立場からすれば、奈良原は最強硬派として木戸を迎え入れることに反対していたはずです。谷村も同様だったかもしれません。海江田もそれに近い立場だったのでしょう。吉井は西郷派ですから、もし奈良原らと騒動になっていたらまずいと考えて様子を見に来たのでしょうが、奈良原が来ていないのを知って帰ったと考えられます。
11日には木戸を連れてきた黒田了助と話しあっています。木戸を賓客として迎えいれた場合には当然、木戸に会わねばならず、その時の情報収集をしたと思われます。黒田にしてみれば久武に事情を聞いて欲しかったのでしょう。
12日に西郷が小松とともに久武に木戸からの贈答品である「箱入付鍔大小」が久武の宿所へ持参してきます。この贈答品を持ってくるという時点で、小松、西郷は木戸を長州からの賓客として迎える決定をしたということです。さらに、久光名代の立場にあった久武がこれを受け取ることで、京都藩邸における手続は完了したとみることができます。おそらく、この日をもって木戸一行は西郷のもとから準藩邸である「御花畑」に移動できたのではないかと思います。品川弥二郎の回想録にも西郷のところに「三四日西郷の邸に滞在して、我々は近衛公の小松別荘に移つた」とあり、符合します。品川は「相国寺近辺の西郷の邸宅」と言っているので、相国寺惣門脇の邸宅に入ったのではないかと思います。西郷寓居についてはすでに当ブログで考証しているように、のちの同志社大学30番教室の北側に隣接した邸だったと思います。塔之段寓居はまさに「梁山泊」状態で、薩摩の若者や諸国の志士の下宿のような状態だったので、木戸一行が旅装を解くということは考えにくいのではないでしょうか。
14日についに久武は御花畑にいた木戸に会いにいきます。会談後、諏訪(島津伊勢)、西郷、黒田嘉右衛門と会議ではなく、連続して懇談して帰宿します。ところが、その後諏訪がたずねてきて、そのあと追いかけるように海江田、奈良原がやってきます。論者によっては「同断」という文言を3人は一緒にやってきたように解釈する向きもありますが、海江田、奈良原は一緒だったでしょうが、諏訪は先行しています。諏訪とは直前に話していることを考えると、諏訪は海江田、奈良原の訪問に立ち会うつもりでやってきたのではないかと思われます。おそらく、海江田、奈良原は諏訪から久武・木戸会談のことを聞いて久武のもとを尋ねると諏訪は思ったのでしょう。諏訪は何らかのトラブルがおこらないかと心配して駆けつけたように見えます。

15日には江戸に行っている、もう一人の家老岩下方平の用人宅にいって話をしています。木戸上京とそれにともなう混乱を岩下へも知らせる必要性を感じたのではないでしょうか。どのような話をしたかはわかりませんが。

17日には国許から久武へ内田仲之助と奈良原を伴って帰国せよとの手紙がもたらされます。久武は木戸が只今上京しているなかで、この手紙は心乱れるところだったでしょう。

18日には有名な「国事会談」が御花畑で開かれます。出席者は小松、西郷、諏訪、大久保、吉井、奈良原に久武が加わります。このメンバーでは奈良原が長州に対する最強硬派でしょう。久武は久光名代としての立場を守らねばなりません。小松は全体の責任者ですから自由な発言はできないでしょう。このメンバーで一致できる方針は「薩摩藩は長州の汚名を雪ぐためにあらゆることを行うので、いったん幕府の処分を受け入れよ、処分については骨抜きにするから」というものであることは青山忠正氏が「吉川経幹周旋記」をもとに復元され、定説化しています。これに対して木戸は「武備恭順」方針を主張し、幕長一戦も辞さずの態度に終始します。この時、久武は上京する途中、12月13、14日に寄港した上関の様子を思い浮かべていたことでしょう。久武はこの時、坂本龍馬の消息を気にしつつ、臨戦態勢にある長州の雰囲気をできるだけ探ろうとしていますが、十分ではありませんでした。この場で木戸の決意を聞いてあらためて長州の決死の覚悟が伝わったのではないでしょうか。一方、木戸はこの会談の内容には不満足で、これはもはや望みなし、離京するという決意を固めたようです。とてもではありませんが、六箇条などあらあらでも成立しようがありません。薩摩藩が一方的に長州の汚名を雪ぐ努力をするという言い方さえ、奈良原には受け入れがたいものだったのではないでしょうか。このような状況の中で木戸の方から同盟を切望するなどというのは憐れみを請うに等しいこととなります。木戸は有名な「自叙」のなかで、朝敵でもない薩摩藩に同盟をしてくれなどとこちらからいえるはずもなくと述べていますが、逆に木戸はこの場で何度も同盟を請いたかったでしょうが、信頼関係の雰囲気が全くないこの場でそんなことを言い出すことはできなかったのです。18日に六箇条があらあらでも成立したとはいえない状況だったと思います。

3 坂本龍馬の登場

坂本龍馬は19日に伏見に着き、20日に上京します。山本栄一郎氏が指摘したとおり、龍馬がまず会ったのは西郷でしょう。そこで、話が全く進展していないことに驚きます。おそらくその対策を練ったことでしょう。
木戸の「自叙」には「薩州亦俄に余の出発を留む。一日西郷余に将来の形情図り六條を以て将来を約す。良馬亦其席ニ陪ス。其翌京都を発し浪華に下り留る数日」とあります。薩摩側は具体的にどように木戸を引き留めたのでしょう。「一日」の意味はなんでしょう。「六條」を西郷と約した日はいつなのでしょうか。その翌日に木戸は離京したと書いています。

(1)同時代史料から

木戸のものは後年の回想です。このことについての同時代史料はどうでしょうか。龍馬の同行者三吉慎蔵日記には1月23日の項に「過ル廿一日」に桂小五郎(木戸)と西郷の談判が行われて約決したと龍馬から聞いたことが明記してあります。坂本龍馬手帳摘要には「廿二日木圭、小、西、三氏会」とあり、22日に小松を含む会談が予定されていたことが記されています。
「上京日記」には21日に前日急遽帰国が決定した大久保が「谷村・奈良原・黒田嘉右衛門・同良介・大久保・得野良介・堀直太郎等」のメンバーを久武が見送る記事がでています。多くの論者はこの時に木戸ら一行も大久保等とともに下坂したとみています。その通りだと思います。さて、注目すべきは、この記事の中で谷村の次に奈良原の名前が記されています。この二人は木戸を迎え入れたことに不満をもっていたと思われます。両黒田と大久保はもちろん薩長提携に前向きな人物です。あとの二人は得野と堀直太郎は宴会メンバーなどで名前がでるだけで薩長会談には関わっていないようです。この記された順番に久武の意図を感じます。さらに堀直太郎については、このあと柴山良介に送った手紙の中で正月5日に江戸から上京し、そのうちの帰国準備をしていたところ前日になって急に大久保ととともに帰国することを命ぜられたとあります。(『忠義公史料』4巻61P)大久保帰国の決定は20日ですので、堀直太郎もそのときに命ぜられたのでしょう。そして、21日に大久保とともに久武に出発を見送られた。ところが、この手紙の中で直太郎は「先月廿二日京出立」と明記しています。これはどうしたことでしょう。

(2)木戸は伏見で坂本に会った

以上が同時代史料です。では回想録は木戸の「自叙」や「品川弥二郎述懐談」などが中心ですが、山本栄一郎氏が『真説・薩長同盟』で注目すべき回想録を紹介されています。それは明治33年に末松謙澄が著した『維新風雲録:伊藤・井上二元老直話』です。この中で伊藤博文は「木戸は、不十分ながら京都を去ったのである。そうすると坂本龍馬が京都に居って、木戸を追駈けて伏見まで来て」と言っています。このあと伊藤は龍馬が木戸に六箇条を書かせて、それを京都に持ち帰り、西郷、大久保に見せて龍馬が朱書きをして木戸に渡したと語っています。この部分に末松は、朱書きが入る手紙は大坂で木戸が書いたもので、だいぶ遅くに木戸に返送されてきたものだから伊藤公の話は違うとしつつ「伏見にて坂本に逢い、談合の不十分なりしを語りしに、坂本がそれでは不可とて再び中間に斡旋したとの事は、予また親しくこれを木戸公に聞けり」ととわざわざ割註で書いています。また、木戸は末松に上京途中の龍馬にあったと語ったのですが、これも末松は龍馬には三吉慎蔵が同行していたはずだからおかしいとも書いています。
ここに末松謙澄の歴史家らしい部分がでています。回想には記憶違いがつきものと考えています。伊藤の話にしても直にきいた木戸の回想もおかしいところはおかしいと指摘し、その上で、なお「伏見で坂本にあった」という共通項があることを伝えています。別々の人物が別々の機会に木戸本人から伏見で坂本に会ったと聞いている事実は重要です。結局、末松はこのことを後日明らかにしたいと書きながら果たしていません。以下の考察では伏見で木戸と坂本は会ったということを全面的に採用して論を展開します。

(3)六箇条成立の経緯

すでに筆者は「慶応期西郷隆盛寓居の検討から『薩長同盟論』にいたる」(『霊山歴史館紀要』24号2019)で、坂本の登場、説得によって再度の木戸との会談をセッティングを西郷、坂本らは考えたのでしょう。しかし、18日のような状態では進展がのぞめません。そこで、大久保が最強硬派の奈良原や谷村を引き連れて帰国することによって彼らを京都藩邸から引き離すことが目的であったと考えました。
20日、大久保の帰国決定がされたあと久武は大久保とともに帰宿してそこで昼食をともにとり、報告内容の打ち合わせをしています。そして、大久保がこのあと西郷に会うというので今晩の別盃には不参加であると伝えて欲しいと言っています。従来、この部分は久武が大久保宅を尋ねたと解釈されていますが、近年上京日記を全訳(志學館大学人間関係学部『研究紀要』第39巻掲載)された鹿児島志學館大学の有松さんも筆者と同様の解釈をしておられます。久武は西郷と直接会うのを避けています。
さて、この別盃では薩摩琵琶の名手でまだ少年だった児玉天南が演奏をしています。この演奏に感じ入った木戸は漢詩を詠んでいます。木戸孝允関係文書8巻に所収されたものには「發京前一日薩州士某訪我潜居彈琵琶」と表題があります。潜居とは御花畑を指します。内容は「別離在近欲分袂忽聞坐邊四絃彈/曲是悲壯第一曲人是少年第一人/追懐往事感迫骨不覺紅涙自潜々/知是明朝淀水夢半在京城半故園」です。自ら帰国を決意した。会談内容を思い返すと紅涙があふれそうである。明日には淀川を下る。故郷にも帰りたいが京都にも思い残すことがある。というような意味です。とても会談が成功したようには見えません。この漢詩の揮毫を他日にも頼まれたみたいで、少し字句の違うものが複数伝わっています。いずれにしても18日の国事会談は木戸にとっては恨みの残るものだったです。
21日に予定どおり、大久保らとともに京都を離れます。かなり大勢なので、高瀬船ではなく、徒歩で竹田街道を南下したことでしょう。伏見につくと伏見藩邸とその向かいの兼春に分宿です。ここで、追いかけてきた坂本は木戸は会います。木戸から会談の顛末を聞いて、坂本は西郷とも合意の上で木戸とともに京都に引き返すことを木戸に強く勧めます。木戸の自叙に「薩州亦俄に余の出発を留む」とあります。ここまで同行してきた大久保も坂本とともにそれを強く勧めたに違いありません。思いがけなく坂本が伝える西郷の意思と目の前の大久保の言によって木戸は「俄に余の出発」を留められたと感じたのでしょう。
木戸は坂本とともに再び西郷と会談するために引き返します。この時、付き添いとして正真正銘の薩摩藩士である堀直太郎が付けられたのでしょう。
堀直太郎は桐野作人氏の「さつま人国誌2」によると、この当時江戸留守居役の補佐を務めており、慶応元年には左遷された勝海舟のもとを頻繁に訪れて海軍建設についての情報を得ているという。小松帯刀からの書状を勝に届けたり、坂本龍馬以下の海軍塾メンバーを薩摩に引き受けてもらうことにも関与した小松の信任があつい有能な人物でした。坂本とともに木戸と同行する人物としては適任だったでしょう。
他にも同行者はいたかも知れませんが、夜のうちに京都に入り、木戸と西郷は坂本立ち会いのもと再び相対します。ここで三吉慎蔵日記の龍馬いわく「六條の約決」が行われたでしょう。この時に六箇条に関わる書類が作成されたことは鳥取藩史料「京坂書通写」から分かります。これについても当ブログで書きました。場所は、最初に木戸が到着した西郷邸であったと思われます。なぜなら、この時点では秘密会談なので藩邸は避けられ、また御花畑には小松がいます。
そして、翌日22日、最高責任者の小松も加えての最終的な会談がセッティングされ、龍馬は手帳に「廿二日木圭、小、西、三氏会」と書くことになります。22日の会談後、木戸は堀直太郎に同行されて離京します。堀が22日離京したと書いた理由です。大久保らの一団に伏見で追いつけたかどうかはわかりません。午前中、京都に荷を運んできた高瀬舟の下りに乗船すれば意外と早くに伏見に到着できた可能性があります。もしそうできなくても淀川を下る夜行船が運航されているので、遅くとも23日の未明までには確実に大坂に到着したことでしょう。木戸は大坂に到着してすぐに坂本に六箇条の内容を自分なりにまとめて坂本に送りました。23日に龍馬が寺田屋で遭難したときに押収された書類の内容から22日の最終結果は後日、木戸の元へ届けられる予定であったと思われますが、木戸のせっかちさと龍馬の遭難、それをきっかけに盟約の内容が公になってしまい、さらに龍馬救出に薩摩藩が相当な決意をもって臨んだことによって確たるものになったといえます。決然たる行動は言葉の真実性を裏付けます。23日の朝の時点では一抹の不安を感じていた木戸もその後の展開を聞いて、小松や西郷は十分信頼にたる人物であると確信したに違いありません。

4 薩長会談後の木戸の薩摩への信頼

国会図書館デジタルアーカイブで見ることができる『吉川経幹周旋記』4巻の525頁に、薩長会談後2月3日に山口に帰着した木戸と山口詰めの岩国藩士山田右門が会見して藩庁に報告した文書があります。その中で木戸は以前は薩摩を信用しすぎるのは如何かという態度であったが、今回は「薩人ハ真正義ニ而一点之私心無之様相見」と極めて高い評価に豹変したことを報告し、木戸から会談の内容を聞き出しているのです。
木戸は岩国藩だから打ち明けるがと前置きしながら「実ハ常時之勢迚も薩之力ニ及不申、此上ハ是非ニ不能幕長一戦ニ相成可申歟、争端開候而も半年一年ニ勝負決候様ニハ参申間敷、一戦ニ及候ハヽ其節薩之言被行候と存込候」と答えたといいます。つまり薩摩は、幕長一戦はできないと考えていて、もし戦端が開いても半年一年は勝負がつかず、一戦がおこれば薩摩の約束は行われると確信していると答えてます。これはもう六箇条そのままの文言です。木戸がよほど、この盟約が結ばれたことを喜んでおり、またこのことをもって薩摩に対する信頼を深くしたかがうかがえます。木戸は幕長開戦前の薩摩の挙兵は求めておらず、そうなったあとの薩摩藩の実行力に信頼感を置いていたといえます。会談後の西郷らの動きがのんびりみえるのは木戸が幕長開戦時の薩摩挙兵を求めていないからで、西郷らの心情は、長州よとにかくここは踏ん張れ、おのが未来を自ら開けという気持ちだったでしょう。
なお、「是非ニ不能幕長一戦ニ相成可申歟」を「この上は、幕長戦争が勃発しても致し方ない」と訳しておられる研究者もおられるが、「不能」なのは「幕長一戦」で、書き下すと「是非に幕長一戦能わずに相成ると申すべきか」、直訳すると「きっと幕長一戦はできないことになるだろう」と訳した方が会談当時の薩摩の考え方に即しているように思います。幕長一戦は仕方がないというような無責任な態度であったならば木戸の信頼感も損なわれたでしょう。
桂久武はこのような経緯をほぼ知っていたと思われます。それについては当サイトの上京日記分析の「運命の三日間」に書きました。大久保が帰京するまで久武は国許の反応が気になって仕方がなかったでしょう。
大久保は2月21日に帰郷し、早速その足で報告にきています。翌日の22日には休日であったにも関わらず西郷、諏訪、伊地知、大久保、久武の5人で昼頃から夜の10時ごろまで会議を開いています。小松はこの時は病気で参加できていません。ここで今後の方針について議論をしたのでしょう。小松、西郷、桂久武が坂本龍馬夫妻を伴って薩摩に帰国することが決定されたのでしょう。大久保の帰国報告が国許で受け入れられた結果でした。上京最終日、久武は西郷とともに藩邸執務室に暇乞いにいっています。
これ以後、薩摩藩の指導権は小松、西郷、大久保等にうつり、割拠方針をとっていた久光の指導は後景にひいていきます。兵力の着実な上京や、小松原演習場の整備、諸藩への工作、兵站の整備などやることはやまほどあったでしょう。薩摩に向かう船の中で、小松や西郷は考えることが山ほどあったことでしょう。
5月26日:脱字修正と若干の補足をしました。
6月3日:赤字部分、堀直太郎について追記しました。

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