薩長同盟成立プロセスの考察(2)薩長連合の発端

下関と大宰府の距離感

薩長同盟プロセスの直接の始まりは、慶応元年5月、薩摩藩の庇護下にはいった坂本龍馬が、いっしょに引き取られた海軍操練所の仲間と離れて、鹿児島から大宰府に入り、さらに長州藩に入って木戸と会談したことにはじまる。龍馬が大宰府に薩摩藩士の支援を受けて入ったときに、大宰府に来ていたのが楫取素彦である。龍馬は長州入りを楫取に依頼をした。

山本栄一郎さんは、『防長史談会雑誌 第33号』(大正元年)に掲載された楫取素彦の回顧談を引用して、このとき坂本と楫取は紹介者を介して面談し、坂本の方から下関に木戸がいるので会いたいと申し出たとする。
では、龍馬に木戸が下関にいることを知らせた人物は誰かと問をたて、それは4月30日に下関で木戸と面会した中岡慎太郎以外にはいないとした。中岡はこの重要情報を直ちに大宰府に伝え、鹿児島にいる龍馬にも伝わり、5月16日に龍馬が出発することになったと考察している。すなわち、龍馬は鹿児島出発の時点から木戸に会うことを目的として出発したとしている。
今回は山本さんが依拠された楫取と時田の回顧談を次に掲げコメントした上で、具体的なプロセスを考えてみたい。
さらに、龍馬が渡関してきたことを楫取と木戸に知らせる閏5月2日付の時田の書簡も掲載する。

薩長連合の発端 楫取素彦回顧談(抜粋) 大正元年 『防長史談会雑誌 第33号』より

※原典は「子爵(男爵の誤り)楫取素彦史談速記」(伊内太郎速記)で山口県文書館毛利家文庫に所蔵。一坂太郎『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』(KADOKAWA 新人物文庫 2014年)の解題によれば、「明治31年3月14日納庫ス」と注記があり、雑誌収録版とは原本と細かい点を除いて違わず、毛利家文庫には原本と思われるものと、その浄書本が所蔵されている)

應答 男爵 楫取素彦翁談
質間   中原邦平翁

問 伺ひ度いのは慶應元年にあなたが太宰府へ御出でになりまして、坂本龍馬に御逢ひになりましたことです。
答 逢ひました。それが薩長講和の開始であつた。
問 其時坂本は京都から鹿児島へ往つて帰りがけに太宰府へ寄ったものと見へます。
答 さう云ふことで、其時會合したのだが、吾輩に坂本を紹介したのは誰やらであつた。尤も變名して駈けあるく頃であったが。
問 楠元文吉とか谷晋とか申しませぬでしたか。
答 御維新後にも縷々面會した人でしたが、谷守部、否、安藝守衛さ云ふ變名の人でした。
問 それは今の黑岩直方君の變名です。太宰府であなたが御逢ひにあったとき、坂本が薩長聯合の事を御話したのは是から長州へ往つて斯う云ふ事を相談するが、其先容をあなたにしてもらいたいと云ふ恃みでしたか。
答 固よりさうだ。私の旅舘へ龍馬が來て、貴様に願ひたいが私はかう云ふ考を持つて居るからと云ふことであつた。所が吾輩が太宰府に往く時分に既に其事はどうしてもやらなければならぬと云ふ論があった、私が太宰府へ往く途中で例の鹿兒島の大山格之輔と逢った。吾輩は太宰府に往かふとする、格之輔は太宰府を出で京都へ上らうと云ふ。そこでピッタり逢ふて京都の形勢はどうかと言ふから、チョット其所で話さうと云つてどこであつたか能く覚えぬが、腰掛茶屋で話をして別れる時、大山が私は是より京都へ上った以上は考へも段々あるから京都に着した上で其考を詳しく話さうが、毛利家の方の考へはどうかと言ふから、それは格別はないが前の考を一應聞いて見てもどうしても薩長が反目して居つては事が行はれぬ、どうかして協和しなければなるまいと思ふから、其邊は安心するがよい、京都へ上ったら、どうか京都の形勢を報知して呉れと云ふて、腰掛茶屋で別れてそれから吾輩は太宰府に着て居る中に、安藝守衛と云ふ土方等も知って居る人だが、それが來て君に一つ御相談があって來た。と云ふのは外ではないが、坂本龍馬が鹿兒島から出て來たので、坂本龍馬に逢ふて呉ぬかと言ふから、そこは逢ふて話もしやうが、一體主義はどう云ふのかと言ふと、龍馬が言ふに斯様に薩長が反目して居っては天下の事が思ふ様にならね、其邊の考が大にあるから、貴様に一應話して置きたいさ云ふことである。それで馬關に木戸か出て居るから、木戸に逢ふて話そうと思ふが、併し今日は馬關は嚴重に閉鎖して居るので、他藩の考が容易に入ることが出来ぬ。若し馬關へ突然往つて思はぬ殺害にでも遇ふては、何でもない話であるから、貴様から一つ馬關へ其事を先に通じておいて呉れと云ふことで、尚龍馬が言ふに木戸に宛てゝ其事を言ふてやっておいて呉れと言ふから、それは容易な事で、貴様の考も、吾輩の今此所で出先きの考も、先づ同一のことであるから、木戸に於ても格別異論はあるまい思ふ、と云ふのは是はどうしても聯合しなければならぬと云ふことを、木戸が云って居ったことを吾輩は承知して居るから、木戸に於ても異論はなからうと思ふが、試に手紙を一つやらうから其返事の来るまで待てと言ふと、龍馬がそれは宜いと言ふので、吾輩からすぐに手紙を書て出したところが、其返辭が速かに來て、それは差支ないから、坂本なるものに來てもよいと言ふて呉れ、決して今馬關に散在して居る各隊の者にも疎暴の事をせぬやうに注意しておくから、氣懸りなく來るやうにと、木戸の方から手紙で言ってよこしたから、其手紙を坂本に見せて、そこで薩長聯合の端が啓けたやうなものぢゃ。
問 そうして坂本はあなたの御歸りになったあとから來たやうです、あなたも能く御承知の事ださ云ふ時田の手紙がございますが、其時あなたの御歸國になったときは、既に坂本が來ると云ふことが 廟議に上って居ったのでしかやうか。
答 それは上って居ったに相違ない。

●楫取のこの問答によると、太宰府に行く途中で太宰府から京都に上るという大山格之助(綱良)とであって薩長連合のことを同感している。
●五卿に拝謁後、太宰府の宿に薩摩藩の土方久元の知人の安芸守衛(黒岩直方)がやってきて、坂本が鹿児島からやってきたので、会って欲しいといってきた。すなわち、龍馬は黒岩を介して楫取に面談を申し出て面会したことになる。この日は、『龍馬手帳摘要』によると5月24日であった。会うと龍馬はいきなり、薩長和解の話を切り出し、馬関に木戸が出てきているので話をしたいと言い、しかし突然いってはあぶないと思うので斡旋をして欲しいと楫取に頼んだ。そこで楫取は木戸に手紙を書いたところ、すぐに返事があり、その返書を龍馬にみせたという。
●次に紹介する時田少輔の回顧談(『史談会速記録』222輯 明治43年12月記録)と合わせて考えると具体的なプロセスが見えてくる。

時田少輔回顧談(抜粋) 明治43年 『史談会速記録 222輯』

慶応元年の四月と思います。此の文久から慶応に亘りまして、尊攘の説の盛んになりましてから、薩長両藩は他にも澤山王事に䀆された御国はございまするけれども、先つ其の当時、薩長両藩が主として提携して王事に䀆されやうという場合に、彼の堺町御門尋ねて蛤御門の事変以来、両藩が誠に仇敵の如く相成りまして、夜中に長府前田の沖を薩州の汽船が無断通りまするのを異船と誤って砲台から打ち沈めるといふようなことがございまして、益々間柄が隔離しておりました節、慶応元年正月三條公初め五卿筑前の方へ御渡りになりました。
私は藩主の命をうけまして九州に渡海を致しまして、参り掛に福岡藩へ対し、主人の使者を勤めまして、其夜同博多に一宿して、翌日太宰府の方に詣りまして、條公其外の公卿方に拝謁を致しまして、主人の命じました所の使命を遂げまして、宿に帰つて居りますると、坂本龍馬氏が突然と宿を訪ねてこられまして、折角此節こちらに御立入りになつたさうだが、面会を一つ致したい、差し支えなくば只今どうぞ会つて呉れ、斯いふ事でございました。
それから宿屋へ命じまして別室に引きました。其時に一緒に参つて居りましたのが即ち今日の楫取男爵(素彦)、旧名は小田村文助とも云ひ、素太郎とも云ひ、又其当時には塩谷鉄蔵と云つた人でございます。是は今回長藩主人の内命を受けて、私と同様な矢張り用向であちらに参られる其当時敬親殿父子謹慎の場合でございまするし、長州から他国へ使節を出すといふことは是は遠慮せねばならぬ理由がありまするので長州の人だといふては他へ使が出来ませぬ故に支藩長府の本使で楫取男爵は其副使という稱へで筑前の方に参つて一緒に居りました。
両人同席にて坂本氏に面会いたしました所が、坂本氏は初面会の挨拶を了るや否や直ちに薩長が今日の如く隔離して居つては迚も王政復古の事業を成就することは出来ぬ。互いに是までの行掛りは忘れて仕舞つて今日より提携をして大いに国事に盡さねばならぬと思ふが、如何であるか、お前方の考はどうかといふことであつた。
固より私共も及ばずながら到底是が一藩で事の成るというふ見込更にございませぬ、どうも国情の行掛りさういふやうな場合に双方になつて居る。それで其当時で見ますると諸隊の者や壮士の輩は若し薩長の人が一座でもしたと云えば其の人を捉えて斬つて仕舞ふいうような人気の場合でございます。なれどもどうも坂本氏の論に於きましては公平な論で、何れさうならなければ進んで事が成るわけのものでないと私共同意を致しました。
さうしますると先づ私共に意見を話して置いて薩州の方へ又坂本氏が往かれたと見えまして、其当時公卿方の御守衛の長として薩摩から大山格之助(綱良)氏が出て居られました。其の人から突然私に宛てられ手紙が参りました。参上して御目に掛かりたい、斯いふことでございました。私は畢竟長州の支藩で大山氏は大藩の人であるのに私が坐って居つて大藩の方に御会い申すといふことは誠に欠礼と思ひましたので、こちらには少し都合もあるし、是から伺うからといふ返事を出して置きました所が、坂本氏や其頃の土方久元今の伯爵が公卿附で、土方楠左衛門と稱へて丁度御用人見たやうなことをして居られました。其両人が薩州の方に往て相談があつたと見えまして、同所の一酒亭に双方が出会つてどつちがどうだということでなしに面会を致しました。
面会をいたしましたけれどもそこで何も連合の話をして、私共がどうするという資格の有る譚ではございませぬ帰つて要路の者に話をするであらう、斯いふことを約束しまして、それではあちらからは又近日馬関まで渡海するから其節には能く斡旋して呉れ、斯いふ御話であちらを分かれました。又帰るに臨んで四卿から御餞別として詩歌の合作を戴きました。今に保存して居ります。
それから帰つてから半月も致しますと坂本氏がやつて来られました。もう一人は黒岩直方と云人、それに薩州の吉井幸助(友実)故伯爵が居られたと私は思ひます。それで、兎に角桂小五郎木戸孝允に会いたいといふことであります。私共帰りましても未だ壮士輩はハゲ敷く言う国情の場合でございまするので、めったに誰へも口に出すことが出来ませぬ。唯帰つて話して見やうと思ふ者は木戸氏より外にはございませぬ。楫取氏の見込もさうで帰つて木戸に話す。斯ういふて同氏とも別れました。
坂本氏が来られると私が直ぐ手紙を書いて、使いを山口に走らせましたが、木戸氏からも近日出るから宜しく取扱つて居つて呉れといふ手紙が参りました。それから又楫取氏からも御互に甚だ心配したが、帰つて相談して見れば至極受けも宜しいで、木戸氏が出て呉れるであらうか木戸へ聞いて呉れ、斯ういふ手紙が参りました。其跡を追ふて木戸が出て参られてさうして坂本氏等と話がございました。

●時田の記憶では坂本龍馬は突然、宿に訪ねてきたとしているが、先の楫取の記憶では安芸守衛(黒岩直方)を介してである。初対面の挨拶をすますといきなり薩長同盟の話になったのは楫取の回顧と一致する。
●しかし、そのあと時田の記憶によれば大山格之助から手紙が来て、一酒亭で大山と面会したようである。とすると、楫取の回顧談にあった太宰府到着前に会った大山は早くも太宰府に帰ってきていて、坂本、土方と相談して楫取、時田と面会に及んだことになる。そして、その場で藩の要路のものに話をするということを約束した。時田の記憶では大藩の藩士に来てもらうわけにはいかないと、一酒亭というところで面会することになったという。時田の時間経過の記憶は怪しいが、ここは経緯もふくめた印象深い場面なので事実と認めてよいだろう。土方については『回天実記』によるとこの時期、土方は京都から下る瀬戸内海の船上にあって大宰府にはいない。土方が豊前前田浦に帰着したのが閏5月2日であるから龍馬の渡関以後のことになるので、この会談に坂本はいたかもしれないが、土方の同席は物理的に不可能である。時田も大山以外に龍馬、土方が同席していたとは証言してないので、大山とだけ会談したと考えた方がよさそうである。すなわち時田は、坂本、土方と話しあった上での大山の話であると思っていた。
●楫取、時田は帰国後、龍馬来関の話をした。そうして、いよいよ龍馬が安芸守衛(黒岩)とさらに薩摩藩士吉井幸輔(友実)をともなって馬関にやってきたという。時田の記憶では半月ばかりということだったが、実際は彼らの帰国後すぐであり記憶違いである。時田は山口の木戸と楫取に手紙を書き、すぐに木戸が下関へ行くという返事をもらい、木戸との会談が実現した。吉井幸輔(友実)は『回天実記』によれば、5月22日に土方と同道して大坂まで下ったが、そこからいったん京都へ引き返している。したがって、龍馬と同行して渡関することはできない。ここは記憶違いである。しかし、時田が特にそう記憶している以上は、遅れて吉井は下関にはいったことになる。時田自身、この時に書いた木戸への手紙で、「龍馬と安芸守衛の両人」と書いている。

吉井幸輔について 土方の『回天実記』をもう一度読み直すと幸輔は父を大坂まで送るために下坂し、それから帰京したとしていることに気付いた。「吉井幸輔が居た」という時田の記憶は誤りということになる。「私は思います」といっているので、異論があるようだが自分の記憶はこうだということである。時田の人物記憶は不確かなところがあるので、大山格之助についても不確かであるが、対面相手が大藩藩士であることを憚って、宿舎外で会合したというのは非常に具体的なので、在宰府薩摩藩の責任ある立場の者との会合であったことは確かであろう。(追記3/31)

考察

この2つの回顧談に時田が龍馬下関到着時に楫取および木戸に送った手紙などから次のようなことが考察できる。
  1. 楫取、時田が太宰府に行く途中、大山格之助(綱良)に出会い、薩長同盟について同感した。5月14日に楫取等は出発している。
  2. 一方龍馬は、5月23日に太宰府へ着いた。翌日には五卿に拝謁し、その足で安芸守衛(黒岩)を介して楫取、時田は龍馬とはじめて面会し、薩長連合を説いた。その時は薩長連合についての話が龍馬から切り出され二人も同感したが。この日は『龍馬手帳摘要』から5月24日と思われる。その後、すでに彼らと薩長連合を同感している大山が京都から帰ってきて話を聞き、時田、楫取に対して会談を申し込んだ。楫取にしても薩摩藩のれっきとした重役が対応したことで、これは本物と感じただろう。楫取はこの間、すぐに木戸へ手紙を送り、渡関する龍馬の身の安全の保障を木戸に依頼し、木戸も龍馬の来関を希望していた。その返事を龍馬にみせたとしている。こうして龍馬が会談すべき相手は木戸であることが合意された。
  3. 帰国した楫取、時田は山口に帰り木戸と話をした。時田も山口に一度帰ったあと下関にもどり、龍馬をまった。龍馬が閏5月1日に下関にやってきて、その知らせを時田は楫取、木戸に知らせた。この時やってきたのは龍馬と安芸守衛で、吉井はその後下関で合流した。龍馬は薩摩藩士と五卿衛士を常に同伴して交渉にあたっている姿が浮かびあがる。龍馬のこの立場は西郷との信頼関係、太宰府で熱心に五卿を説き伏せたことが背景になっている。
  4. 時田は木戸への手紙のなかで、龍馬と木戸は旧知と述べている。山本栄一郎さんが指摘されたように4月30日に帰還したばかりの木戸に中岡慎太郎が下関で面会している。中岡自身はその後上京するが、その情報は太宰府の五卿周辺の薩摩藩士や五卿衛士たちにもたらされた蓋然性は極めて高い。5月16日の鹿児島出発の時点で龍馬が旧知の木戸の帰還を知っていた可能性は高い、西郷は太宰府との情報交換を怠っていたとは思えないからだ。鹿児島出発にあたって木戸との面会を龍馬が考えていたことは間違いないだろうが、しかし木戸と会談することでどのような道が開けるかはまだ情報不足であったに違いない。だからこそ情報のあつまる太宰府行きを急いだのだろう。
  5. 楫取の回顧録では「坂本が来るということが廟議にあがっていたか」と問われて、それを肯定している。龍馬の来関は薩摩藩からの情勢探索ではなく、長州藩として正式に対応する会談となっていた。少なくとも在大宰府薩摩藩幹部および五卿の期待を担って龍馬は渡関したと考えてよい。
龍馬は旧知だけをたよりに木戸に会おうとしたわけでも、最初から木戸が長州藩の指導部に返り咲いていることを知っていたわけではなかった。太宰府で時田、楫取、さらには薩摩藩、五卿らと入念な打ち合わせと手続きを踏んで下関へ渡海したのである。この時の龍馬の立場は一介の浪士ではなく、在大宰府薩摩藩重役と五卿の意志を背景にした渡関であった。そのコーディネイトの中心には龍馬がいた。以上、山本さんの説を踏まえて自分なりに考察を試みた。
なお、龍馬と楫取はこのときから約1年以上前の元治元年2月28日に、勝海舟と同行して長崎にいた龍馬と邂逅していたとする研究者がおられる。そして、そのような経緯があるので楫取の方から木戸への面会を龍馬に勧めたのであって、龍馬の方から木戸との面会をもとめたわけでないと論じられ、龍馬=薩摩藩士説の傍証とされている。しかし、『海舟日記』によると、たしかに勝は28日に、その晩帰国するという長州人4人の訪問をうけている。しかし、楫取の名前は記されていない。この4人の中に楫取がいたのは可能性は高いが、その時に龍馬と楫取が会ったという記録はない。むしろ、上述の回顧録で楫取、時田ともに龍馬とは初対面であると語っているので、その説が成立する余地はない。木戸との面会は龍馬からの希望であったことは明らかである。もっとも、一般書で論述されていることなので詳しい典拠が明らかにされておらず、これ以上、ここでは論じることができない。

時田少輔から楫取素彦宛 書簡 『楫取家文書』1

一翰奉拜呈候爾來彌御勇健可被成御勤奉敬賀候扠過日は遠路え御使節殊
に此節柄別而御苦労之儀奉存候於小生も不一方御面倒相成渇々遂其節忝
奉存候乍併前後失敬今更恐縮之至平に御海涵奉希上候扠又宰府表にて御
拜對相成候土人阪本良馬安藝守衛兩人昨夕馬關表え着仕候段入江和作よ
り届出候間都合能為取扱置申候此方よりも應接之者差出候心得に御座候
定て如前約桂君え御面談之積にて渡海致候義と推察仕候勿論御歸山之節
も入々御談申上置候儀も御坐候に付不取敢及御知候何卒早々御出關彼之
情態御探索有之度所祈候右御報知御一禮旁乍草略相束如此御坐候書外惣
て期後鴻恐々謹言
後五月二日(慶応元年閏5月)
二白 御歸山後御國論如何御決相成候事實に切迫之時節早々御一定
相成候樣乍恐奉希上候此方にも追々及談論申候左様御承知可被成下
乍此上為
國家御盡力吳々奉祈候本文木圭先生よりも一書差出置候間宜敷御談論可
被下候已上

<現代語試訳>

書状を差し上げます。ご健康でお勤めになっておられますこと、お喜び申し上げます。さて、この間は遠路のへの使節、ことにこの時期、ご苦労なことがありました。私もひとかたならずお世話になり、ようやく任務をはたしましたその節はありがとうございました。あわせて、その前後の失礼をいまさらながら恐縮いたし、平にお許しを願い奉ります。

さて、また大宰府にて面会した土州人坂本龍馬、安藝守衛の両人が昨日の夕方馬関に着いたと入江和作より知らせがありましたので、丁寧に応対するように伝え、こちらからも応接の者を派遣するつもりです。きっと、この前に約束した桂君と会談をするつもりで渡ってきたと推察しております。

もちろん山口に帰られたときに丁寧に相談いたしておりますので、とりあえずお知らせいたした次第です。なにとぞ早々に下関へきていただき、彼(薩摩)の情勢も探索していただくことをお頼みします。以上、お知らせ、およびお礼をあわせて簡単に書面にしましたもので、あとは後ほどに期します。

閏5月2日(慶応元年閏5月2日)

追伸 山口に帰られた後、御国の論は如何に決定になるにしても実に差し迫っている時期ですので、早々に決定を成されます様、恐れながら望んでおります。こちらでも段々と議論が進んでいるのをお知りおきの上、決定されるべきながら、この上は国家の為にご尽力をくれぐれも祈っております。本文に関して桂先生からも一書を差し出して置くので、よろしく御議論をいただくべく。以上

時田少輔から木戸孝允宛 書簡 『木戸孝允関係文書』4

一筆拝啓仕候。爾来弥御勇健可被成御在山奉拝賀候。扨
追々御聞及にも可有之、過日小田村君御一同筑前行之節、
宰府表に而相対致候土藩人阪本良馬、近日薩国より帰筑、
同国之情態相心得居、小生共えも荒方相洩申候。勿論公
卿方拝謁も被仰付候。其次第におゐては小田村君委細に
御承知之儀に御坐候。然処右同人且安芸守衛両人、昨夕
馬関え着仕候。先生え御面話之儀兼而相願居候段噂も致
居候事に付、其積に而渡海に及候儀と推察仕候。乍御苦
労早々御出関被成下、事情御探索有之度所祈候。右良馬
事は先生之御世話に相成候儀も有之由申居候。先生御面
談相成候者、何も薩国之情態相分可申と奉存候。小田村
先生えも及御知置候間、被仰合早々御出関呉々奉待候。
其内不都合之儀無之様為取扱可申候。何分別人に而は密
事相洩兼候様相見申候。先者右之段御報知迄不取敢以一
使申上候。書外委細之儀は御出関之刻万々可得拝話候。
多忙中取紛草略御海涵奉希候。恐惶敬白

慶応元年閏5月2日

<現代語試訳>

お手紙をさし上げます。山口でお目にかかって以来、ますますお健やかにお過ごしでしょう。

さて、だんだんとお聞き及びにもなっておられるでしょう。過日、小田村君と同行して、筑前に行ったとき、太宰府で面会いたしました土佐人坂本龍馬が、最近に薩摩より筑前に帰還したもので薩摩の国情も知っていて、私どもにもあらかた話してくれました。勿論公卿方にも拝謁していて、その次第については小田村君が詳しく知っています。

そして、坂本龍馬および安芸守衛の両人が、昨日の夜に馬関に到着いたしました。先生に面会することをかねてから願っているということも聞いていましたので、そのつもりで渡海してきたと推察いたします。

さては、ご苦労をおかけしますが、早々に馬関へ下っていただき、事情を調べて頂くことを願います。

龍馬は先生のお世話になったこともあると申しております。

小田村先生もご存じでありますので、早く御相談していただき、馬関においでになることをくれぐれもお待ちしております。

いずれ不都合な事が無いように取り扱ってください。何分にも他の人間では密事が漏れかねないように思われます。まずはとりあえず使者をもってこの事をお知らせいたします。この手紙に書けない詳しいことは馬関においでになった時にお会いしてお話申し上げます。

忙しい中とりまぎれて、だいたいのことしか書けないことお許しを願います。恐惶敬白

閏5月2日(慶応元年閏5月2日)

追伸 差し急ぎました。こと乱筆が多いことお許し下さい。頓首

木圭大先生へ親展

時田少輔

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