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桂久武上京日記分析
ー久武の任務遂行と木戸上京直前までー

2020年7月17日

※今回、黎明館HPからダウンロードできる、活字翻刻された村野守次『鹿児島県史料集 第26集 桂久武日記』中の「上京日記」を底本に利用して、全訳を試み、できたところから公開していた。それが終わった段階で、志學館大学人間関係学部『研究紀要』第39巻に有松しづよさんが、桂久武「上京日記」訳註稿を掲載されているのを知った。底本は東大史料編纂所が所蔵する島津家臨時編纂所が大正11年から12年にかけて謄写したもの(以下:謄写版)である。有松さんは今後、原本をみて訳注を完成させたいと記しておられる。この二つのテキストには異同がある部分があった。その異同部分を比較して、ようやく意味がとれたり、有松さんがつけた訳注によって深まった所もある。その部分を赤字で示していく。すでに公開した部分も、それによって訂正すべきと思ったところは同様にする。

同 十七日 晴曇やき雨少し降

一 五ツ時分寝覚、岩下氏見舞、湯地治右衛門・桐野英之丞・木藤市
助・奈良原幸五郎・詰役松永清右衛門、
一 四ツ後岩下氏江見舞、木場江も同断、無間も帰旅宅、
同刻過立花飛弾守様御留守居野波八蔵を以、此度五人便船之為挨
拶肴一台・酒一樽被相贈候、其後桐野同伴ニて五人一同為、謝見
舞、対顔いたし候、
一 木場氏より羽二重二反・鰹ふし一連・酒一樽被相贈候、永井・水
山・松永より肴料百疋つつ被贈候事、
一 此日御留守居初詰役中江土産品并目録等遣候、
一 此日夕時分より岩下氏両方より詰役江酒差出度申談、吉田屋ニて
可然候て岩下氏・木場氏同伴ニて参候、詰役中も参、芸子等多人
数参、相応一同泥酔、四ツ時分岩下氏・木場氏同伴帰宿也、

同 十七日 晴曇やき雨少し降

一 午前8時ごろに目覚めた。岩下氏が来た。湯地治右衛門・桐野英之丞・木藤市助・奈良原幸五郎・詰役松永清右衛門、
一 10時過ぎに岩下氏の所に行き、木場の所へも同様にいって、まもなく旅宅に帰った。すぐに立花飛弾守様御留守居の野波八蔵がやてきて、このたびは五人を便乗させてもらった挨拶にきた。肴一台・酒一樽を贈られた。その後は桐野と一緒に、五人一同がそろって謝辞に訪れ、顔を合わせた。
一 木場氏から羽二重二反と鰹節を一連、酒一樽を贈られた。永井・水山・松永よりは肴料百疋づつを贈られた。
一 この日は御留守居の初詰役中に土産品と目録などをつかわした。
一 この日夕方から岩下氏両方より詰役に酒を差し出したちと相談があり、吉田屋でよいだろうと岩下氏・木場氏を同伴して行った。詰役中の者も来て、芸子など多人数が来て、相当に一同泥酔し、午後10時頃岩下氏・木場氏と一緒に帰宿した。

同 十八日 曇夕雨

一 此日当所立役・詰役中一同見舞、木場伝内・松永清右衛門・永井清左衛門・髙橋一次・鮫島治左衛門・石神新五右衛門・郷田次右衛門也、五ツ時分御屋敷前より乗船、
夕方より雨少し降出し候、夜入五ツ時分兼有市之丞所江着、為迎、小松帯刀殿・西郷吉之助・谷村小吉・有川七之助・宮田杢兵衛・大久保一蔵・鎌田孝右衛門・大坂屋敷(御仮屋守)大山彦八ニハ見舞 其外被参、小松家ニて少々夜更ニ及候間、暫時之間見舞ニて被帰、大久保ニモ同断也、
一 深更迄目覚居候処、奈良原ニも同宿ニてゆるゆる寝咄等いたし候
也、

同 十八日 曇夕雨

一 この日は大坂屋敷の立役、詰役中の一同に挨拶した。木場伝内・松永清右衛門・永井清左衛門・髙橋一次・鮫島治左衛門・石神新五右衛門・郷田次右衛門である。午前8時頃に御屋敷前から乗船した。夕方から雨が少し降出した。夜にはいって午後8時頃兼有(春)市之丞の所についた。迎えに、小松帯刀殿、西郷吉之助・谷村小吉・有川七之助・宮田杢兵衛・大久保一蔵・鎌田孝右衛門・大坂屋敷(謄写版:御仮屋守)の大山彦八がきて、その他の人も来られた。小松家で少々夜更まで話におよんだので、少しの間挨拶しただけで帰られた。大久保も同様である。
一 夜更けまで寝られなかったので、奈良原も同宿だったのでゆっくりと寝話などをした。

●午前8時に大坂を出発して、午後8時頃兼有市之丞の所についたとあるが、正月元旦に馬で石清水八幡宮に詣でた帰り道に「伏見の兼春」に寄り道しているとあるので、ここは兼有は兼春の誤りであろう、兼春市之丞は1780年刊行の『伏見鑑』には下板橋二丁目に居住する関鍛冶として名前がでてくる。秀吉が関から鍛冶を伏見に呼び寄せたらしい。また、『天保三年来朝 琉球人行列記』という琉球使者の江戸へいく行列の様子を絵入りで紹介した刊本の編集者として薩州御出入方との肩書きで出てくる。場所は薩摩伏見藩邸の濠川をはさんだ東側であり、船から直接出入りできる屋敷があったのだろう。謄写版では兼春吉之丞と記されているが、天保年間の『伏見鑑』には市之丞とされるが、その子が吉之丞かもしれず、どちらが正しいかはわからない。大山彦八は伏見藩邸詰で、一ヶ月後の龍馬救出にも携わっているので、活字版の大坂屋敷は誤り。小松、西郷、大久保が伏見まで来ている。このうち、小松と、さらに大久保とかなりの時間、話しあっているようである。小松、大久保との話は翌日明け方の西郷説得の打ち合わせてと思われる。 奈良原とは同じ兼春のところで就寝した。

同 十九日 雪少々降積

一 此暁西郷吉之助見舞ニてゆるゆる相咄候、御国許之事情、其外御
内諭之趣共得と及談合候処、能々合点有之候間、至て仕合ニ候、
一 迎え面々滞宿ニて追々預見舞候、
一 五ツ時分岩下氏同道ニて打立、八ツ時分御用達御呉服所瀬尾源九
郎所江到着候事、
一 其後段々見舞等有之、
一 帯刀殿より両種并ニ菓子預候、伊勢殿より両種并ニ茶道具預候、
島津清太夫殿酒一樽其外皆々より肴等預候、
一 晩時分より帯刀殿・(岩下)佐次右衛門殿・内田仲之助・大久保一蔵・種
子島城左衛門・島津清大夫殿・有川七之助・畠山吉二郎・鎌田孝
右衛門・堀剛二郎・本田杢兵衛・寝占武右衛門被参、酒肴等種々
差出、尤給仕人等相頼候事、四ツ時分一同帰宿也、

同 十九日 雪少々降積

一 この日の明け方に西郷吉之助に会いにいってじっくりと話をした。国許の事情、その外の(久光からの)内諭の趣旨などをじっくりと話しあったところ、よくよくわかってくれたので、いたって幸せである。
一 迎えの面々も伏見に宿泊していて、次々と挨拶に来た。
一 午前8時頃に岩下氏と同道して、出発し午後2時頃に御用達の御呉服商である瀬尾源九郎の所に到着した。
一 その後、次第に挨拶などがあった。
一 帯刀殿から両種(酒と肴)と菓子を頂いた。伊勢殿からは両種と茶道具を頂いた。島津清太夫殿からは酒一樽、その外の皆より肴などを頂いた。
一 夜になって(小松)帯刀殿、(岩下)佐次右衛門殿、内田仲之助、大久保一蔵、種子島城左衛門・島津清大夫殿・有川七之助・畠山吉二郎・鎌田孝右衛門・堀剛二郎・本田杢兵衛・寝占武右衛門が来た。酒や肴などいろいろと出して、給仕の人なども頼んだ。午後10時頃に一同は帰宿した。

●この日、伏見の宿舎で早朝に西郷に久光の「御趣意」を説得にいっている。前夜に小松に相談を持ちかけた上である。久武としてはこの任務が一番重要だったということか。伝えた内容は、家近氏が『西郷隆盛と幕末維新の政局』で説かれているように西郷が幕府に対して過激に走ることのないように厳命したものであったろう。内諭とあるので、江戸藩邸人員引上げの件のみの命令とは考えにくい。このとき西郷は親友久武の説得に応じて頓首している。

十二月廿日 朝立晴昼時分より雪少々降ル

一 六半時分寝覚、追々来客等有之、
一 四ツ時分より御屋敷御殿江出勤、御国許より被仰付候趣共大略申
述候、八ツ過退殿、伊勢殿・吉井・西郷・内田・喜入家・(島津)清太夫
殿・大久保等江見舞也、伊勢殿ニハ病気故出勤も無之、尤相応之
煩故、病床江踏込逢取候、七ツ過帰宿、夕より有川七之助江申遣
ゆるゆる相咄候、

十二月廿日 朝立晴昼時分より雪少々降ル

一 午前7時頃に目覚めた。次々と来客があった。
一 10時頃から御屋敷の御殿に出勤した。国元より仰せ付けられた内容をだいたい申し述べた。午後2時過ぎに退殿し、伊勢殿、吉井、西郷、内田、喜入家、(島津)清太夫殿、大久保等に会いにいった。伊勢殿は病気であったので、出勤もなく、かなりの病状だったので、病床にはいって面会した。午後4時過ぎには帰宿し、夕方から有川七之助に連絡して、じっくりと話をした。

●前日早朝に西郷に説得した内容をあらためて藩邸に伝えている。さらに、病気で伏せっていた家老伊勢殿にもわざわざ伝えにいっているので、久光から託された公式使命だった。

十二月廿一日 朝立晴四ツ時分より雪降八ツ過より晴ル

一 六ツ半時分寝覚い、木藤市助・堀剛十郎・西郷吉二郎見舞也、
四ツ時分より御屋敷江出殿、掛嶋津清・喜入多両所江見舞、留守
也、御座江ハ小松家・西郷・大久保出勤、八ツ帰宿、
一 惣髪成願、則日願之通御免、
一 此晩誰も来客無之故、猿渡江申遣ゆるゆる相咄候

十二月廿一日 朝立晴四ツ時分より雪降八ツ過より晴れる

一 午前7時ごろ目覚めた。木藤市助、堀剛十郎、西郷吉二郎が会いに来た。午前10時頃から御屋敷に出殿し、その途中に嶋津清・喜入多の二人に会いに行ったが、留守であった。御座には小松家・西郷・大久保が出勤していた。午後2時に帰宿した。
一 惣髪になることを願い、即日願いの通りに許された。
一 この夜は誰も来客がなかったので、猿渡に連絡してゆっくりと話をした。

●この日に総髪を許可されている。

十二月廿二日 雪朝立晴昼より雪降

一 此日休止故出勤不致、早天奈良原氏江申遣候て浄福寺江墓参案内
相頼候、五ツ過吉井幸輔被参、西郷信吾出府願之一条被相頼候間
吉井江御書付相渡候、西郷氏ニも見舞ニて暫時相咄候、奈良原も
無間も参候間西郷氏ニも同伴ニて致墓参、夫より北野江も参詣、
夫より小松家より書役共会々堂江候間、鳥渡可参との事故参候、
西郷ニハ相別れ帰り候、夫より三条通細マ物店江立寄、紙入弐ツ
腰差たはこ入壱ツ取入、女腰差相頼置、三条小橋村田きせる屋江
立寄、女銀きせる一ツ外ニ自分持用きせる一本取入、夫よりとか
の尾と申料理江参、昼飯たべ会々堂江参候処、一同参揃ニて毎之
通仰山賑々敷体ニて夜ニ入、五ツ半時分帰宿、鎌田孝右衛門同道
ニて一宿為致候事、

十二月廿二日 雪朝立晴昼より雪降

一 この日は休みだったので出勤はせず。早朝に奈良原氏に連絡して、浄福寺に墓参案内を頼んだ。午前8時過ぎに吉井幸輔が来て、西郷信吾の江戸行きの願いの件を頼まれたので、吉井に書付を渡した。西郷氏もやってきて、しばらく話をした。奈良原も間もなくやってきて、西郷氏と同伴して、墓参をした。それから北野にも参詣し、それから小松家より書役らが会々堂にそろう間、少し来てくれとのことだったので、行った。西郷とは別れて帰った。それから、三条通小間物店に立寄って紙入2つ、腰差の煙草入れ1つ買入、女用の腰し差を頼んだ。三条小橋の村田きせる屋に立ち寄って、女用の銀きせるを1つ、他に自分用のきせる一本を買入た。それから栂尾という料理屋に行って、昼飯を食べ、会々堂に行ったところ、一同が揃っていて、いつものように盛大な様子で夜になり、午後9時頃に帰宿した。鎌田孝右衛門も同道して、一晩泊まった。

●浄福寺は島津日置家の祖である、島津歳久の墓所である。日置家出身の久武の個人的な任務が墓参だったか。その後、墓所の修復などを頼んでいる。この日は西郷と行動を共にしている。

十二月廿三日 雪朝立晴昼時分より曇雪天

一 早天寝覚、此日ハ岡崎毎月一度之一陣調練と申事故、五ツ時分よ
り御借馬ニて参候、ちと早く候間、暫時猶豫小松家も出張相成候
間、四ツ過相初メ九ツ過相済、今日ハ小松家江致約束置候間、帰
ニり同道ニて参、当地之形体、御国元之咄共ゆるゆるいたし、夕
暮時分帰る途中黒田嘉右衛門江行逢、拙宿江見舞候処留守故、右
帰路ニ行逢、同道ニて帰、ゆるゆる相咄、
一 平戸藩□□□調練見物として西郷同伴ニて参候、

十二月廿三日 雪朝立晴昼時分より曇雪天

一 早朝に目覚めた。この日は岡崎屋敷で毎月一度の先鋒の調練と云うのをやるので、午前8時頃から馬を借りていった。少し、早く着いたので、しばらく時間があった。小松家も来ていた。午前10時過ぎから始まり、昼頃には終わった。今日は小松家と約束をしていたので、帰りに一緒に小松家に行き、京都の情勢や国元の話などをじっくりとし、夕暮時分に帰る途中で、黒田嘉右衛門に出会った。拙宿に会いに行ったところ留守ということだったので、一緒に帰ってじっくりと話をした。
一 平戸藩の□□□調練見物として西郷と一緒に来ていた。

●岡崎屋敷は薩摩藩の調練場で、原田良子氏の「京都の薩摩藩『岡崎屋敷』の発見」(2018年 『維新の道』No.117 霊山歴史館)に詳しい。それによると五万坪を超える敷地をもち、現在の京都会館、平安神宮南半分、岡崎グラウンドを占拠する広大なものであったことがわかる。その南には四万坪を超える加賀藩屋敷があった。

十二月廿四日 曇天暮より少々雨降ル

一 六ツ半時分寝覚、
一 毎之刻限より出殿、御側役鉄炮射方ニて岡崎御屋敷江被差越候由
ニて誰も出勤無之、小松計出勤ニて八ツ過御暇也、
一 八ツ半時分奈良原氏・有川七之助・川村与十郎(純義)見舞、暫時相咄候、
一 暮時分より小松家申談、岩下氏参度申合置候付、右刻限より出掛
候、大久保氏ニも被参候、西郷・吉井も参候得得共、無程帰宿之
由、不出逢候、
一 此日小松家・諏諏訪家・内田・西郷・大久保・喜人家・嶋津清、
書役辺江土産遣候事、

十二月廿四日 曇天暮より少々雨降ル

一 午前7時ごろに目覚めた。
一 いつもの時間に出殿し、御側役は鉄砲隊訓練の指揮で岡崎屋敷に行っているというので、誰も出勤が無かった。小松だけが出勤していて、午後2時には退勤した。
一 午後3時頃奈良原氏、有川七之助、川村与十郎(純義)が会いに来てしばらく話した。
一 夕方頃から小松家での相談に岩下氏も行くと申し合わせていたので、刻限になって出掛けた。大久保氏も来た。西郷、吉井も来たが、ほどなくして帰宿したので会わなかった。
一 この日は小松家、諏訪家、内田、西郷、大久保、喜人家、嶋津清、書役あたりに土産ものをつかわした。

●この日の小松家での岩下に大久保も加わった会議は岩下の江戸行きにあたっての相談であったか。

同 廿五日 曇

一 六ツ半時分寝覚、
一 毎之刻限より出勤、小松家・西郷・吉井出勤也、八ツ過御暇掛、
西郷江立寄ゆるゆる相咄候、明日飛脚立ニ付能き程ニ申上越候様
口合置候事、此内黒田嘉右衛門・吉井ニも被参候、既ニ暮ニ及ひ
帰宿也、
一 此晩明日飛脚立ニ付、御側江壱通・喜人家・蓑田氏・日置宿元・
田尻家江書状相認ニ取仕候也、
一 岩下氏明日出立二付土産遣候事、

同 廿五日 曇

一 午前7時頃に目覚めた。
一 いつもの刻限より出勤した。小松家、西郷、吉井が出勤していた。午後2時頃、帰りがけに西郷のところに立ち寄って、じっくりと話をした。明日、飛脚を立てるので、うまいぐあいに申し上げるように、内容を合わせた。その内に黒田嘉右衛門、吉井も来た。すでに夕方になっていたので帰宿した。
一 この晩、明日に飛脚を立てるので、(久光の)御側に壱通、喜人家、蓑田氏、日置の自宅、田尻家に書状をしたためておいた。
一 岩下氏は明日には(江戸に)出立なので、土産を遣わせた。

●注目すべきは「口合置候」との文言である。国元に送る書状の内容を久武および西郷が送る書状の間で齟齬がないように口裏をあわせている。12月26日付けの久武の書状は島津求馬、伊集院左中宛が残っており、御側宛が島津、伊集院連名宛の書状であることがわかる。「御趣意」について徹底したこと、グラバーとの会見、パークスの鹿児島訪問希望のこと、京都の情勢などを書き送っている。西郷の蓑田伝兵衛宛書状は2通あり、1通目は御趣意に従うことを誓う内容、2通目は西郷の上方情勢分析などを書き送っている。

同 廿六日 曇天

一 朝六ツ半時分寝覚、夕部より飛脚立ニ付書状認掛、今朝迄も相掛
候、御側江爰許之形行申上候、日置并ニ田尻家宿元・喜入氏 いちゝ 市来
蓑田氏差出候、
一 書状認方等隙取候間、出勤不致、小松家江頼遣候、
一 七ツ時分岩下氏出立掛見舞ニ預候、
一 今朝寝占武左衛門岩下氏江相付出立暇乞二参候、
一 七ツ過吉井幸輔同伴、
天気 御伺として御当番伝奏衆野々宮様江御ロ上扣を以参殿 御
伺申上候、夫より伝奏飛井様江御見舞 二条様江同断、何れも雑
掌江取次申上候、
一 此晩内田・吉井江申遣候処、内田ニハ外出故、吉井・西郷同伴ニ
てゆるゆる相咄候、酒肴共差出候、
一 今日谷元兵右衛門・堀正之丞到着侯由、見舞、内願趣意承掛候得
共、 天気御伺御使者出掛候付、少し承候て召延置候事、

同 廿六日 曇天

一 朝7時頃に目覚める。ゆうべから飛脚を立てるので、書状を認めつづけ、今朝までかかった。御側にこちらの状況を申し上げ、日置と田尻家の自宅、喜入氏、伊地知、市来、蓑田氏へ差し出した。
一 書状を認めるのに忙しかったので出勤はせず、小松家へ使いをだした。
一 午前10時頃、岩下氏が(江戸へ)出発するにあたっての挨拶を受けた。
一 今朝は寝占武左衛門、岩下氏とともに出発するので、暇乞いにやってきた。
一 午前10時過ぎに吉井幸輔を同伴し、天気御伺のために御当番伝奏衆の野々宮様に口上の控えをもって参殿し、御伺いを申し上げた。それから伝奏の飛井様に挨拶をし、二条様へも同様にし、いずれも雑掌に取次申し上げた。
一 この夜は内田、吉井に連絡したところ、内田は外出していたので、吉井、西郷と同伴して、じっくりと話をした。酒と肴も出した。
一 今日は谷元兵右衛門、堀正之丞が到着したので、挨拶した。内々の願の趣意を承りかけたが、天気御伺の使者に出かけなければならず、少しだけ聞いて後で話をすることとした。

●結局、前日から徹夜で書状を書き続けたようで、市来・伊地知宛の手紙も追加している。これには、御側宛への内容以外に、経費が足らなくなったことや紀州に修理入港中の蒸気船万年丸の件などが書き送られている。当番伝奏の野々宮様のところへ天機伺いの口上をもっていっている。これに対する返答が御勅答という形で28日にうけとることになる。

十二月廿七日 曇雪少々降

一 毎之通寝覚、出勤掛諏訪家江見舞候、四ツ時分出殿、八ツ過種子
島城左衛門見舞、
一 此晩内田仲之助江可参候様申遣、ゆるゆる相咄、
一 宿亭主瀬尾源九郎より文庫入菓子・茶壷弐ツ到来
一 猿渡勘兵衛より菓子一箱・玉子預候、かたかた一礼也、
一 此日孫兵衛・同役鎌用十郎太・柳田正太郎誘ひニ応、暇いたし登
楼也。

十二月廿七日 曇雪少々降

一 いつものとおり目覚めた。出勤しがけに諏訪家に行った。午前10時頃に出殿し、午後2時過ぎに種子島城左衛門にあった。
一 この夜は内田仲之助に来るように言ってあり、じっくりと話をした。
一 宿亭主の瀬尾源九郎から文庫入りの菓子と茶壷2つ来た。
一 猿渡勘兵衛から菓子一箱と玉子をもらった。それぞれ一礼である。
一 この日孫兵衛と同役の鎌用十郎太、柳田正太郎を誘いに応じて、休暇をとり遊郭に遊びにいった。

十二月廿八日 曇晴雪も少々降ル

一 早朝寝覚、今日は辰剋 御勅答下り候付、野宮殿より御呼出し、
五ツ時分内田仲之助案内同伴ニて右江参殿、良暫時相扣居候処、
習礼等もいたし、無程御呼出し、書院罷出 御勅答之趣、此度摂
海異船渡来ニ付、天気御伺御満足ニ被思召さるとの御書付手つか
ら御渡、御意尤服ハのし目長袴、初書院江罷出、出口ニて御礼、
しきり涯江相近、御名家老何某卜雑書(雑掌)より名披露、是江卜有之、
しきり内江膝行相近、 勅答之御沙汰、直ニ御前江相近、御書付
御渡、シツ行退キ本のしきり涯江止り御礼、夫より立行ニて出口
ニて又御礼引取候、外ニ南部様・松原主殿頭様ニ同断ニて相済、
雑書より挨拶、御暇申度挨拶ニて退殿、飛鳥井殿江も 御勅答之
為御礼参殿也、右ニ付供廻家来六人(内二人鑓上下着長)挟箱、合羽籠壱荷・
草履取壱人、御伺ニ出候節も同断也、
一 四ツ過出勤、今日ハ小松出勤無之、諏訪病気ニて今日より出勤、
八ツ前帰宿
一 八ッ過益満与右衛門見舞也、
一 同刻より猿渡并ニ孫兵衛召列、四条通寺町辺江取入物ニ歩行かて
らニ出候て暮過ニ帰候、
一 此晩鳥渡奈良原幸五郎見舞也、ゆるゆる相咄候、
一 此日諏訪家見舞之由也

十二月廿八日 曇晴雪も少々降ル

一 早朝に目覚めた。今日は午前8時に、御勅答が下るというので、野々宮殿からお呼び出しがあり、午前8時頃に内田仲之助の案内同伴で参殿した。しばらく控えているところで、予行をし、ほどなく呼出しがあり、書院にまかり出て御勅答の趣旨、この度摂津沖に異国船が渡来したことについて、天気御伺を満足に思し召されるとの書き付けを手渡しで渡され、思し召しのまま、服はのし目の長袴で、はじめて書院にまかりでて、出口で御礼をし、部屋のしきりの端まで近づいて、○○家老なにがし、と雑掌から名がよばれ、これへと招かれる。しきり内に膝行して近づき、勅答の御沙汰があり、直接に御前に近づき、御書付を渡される。膝行して退き、もとのしきりの端でとまって御礼し、それから立って出口に向かい、御礼して引き取った。外に南部様、松原主殿頭様も同様に済んだ。雑書から挨拶があり、お暇申したいと挨拶して、退殿し、飛鳥井殿のところへも勅答をいただけたことをお礼に参上した。このときの供まわりの家来含めて六人で、内二人は鑓持ちで上下着長、挟箱(着替え入れ)持ち、合羽籠(雨具入れ)一つ持ち、草履取り一人で、天機伺いの時も同様であった。
一 午前10時過ぎに出勤、今日は小松の出勤はなく、諏訪は病気だったが今日より出勤。午後2時前に帰宿した。
一 2時過ぎに益満与右衛門が来た。
一 同じ時に猿渡と孫兵衛を連れて、四条通寺町あたりに買い物に散歩がてらでかけて夕暮れに帰った。
一 この晩はちょっとだけ奈良原幸五郎が来て、じっくりと話をした。
一 この日、諏訪家が来たとの事だった。

●26日の天機伺いに対する御勅答の次第が詳細に記されている。久武も緊張したであろう。今回の上京の最大の堅苦しい任務であった。到着時病気で伏せっていた島津伊勢(諏訪甚六)が回復したようだ。

十二月廿八(九か)日 晴曇

一 毎之通寝覚、四ツ後出勤、小松家・諏訪家・西郷・大久保・吉井
出勤、小松家より昨日 尹宮様雁頂戴いたされ候由ニて御座ニて
披き飯さし出され候、八ッ過退殿也、
一 此日亭主より.三方ニ請、祝井之餅相贈ル、
一 島津清太夫殿より歳暮之為祝儀、完(宍)壱枝被相贈候、
一 此晩年取ニて候、酒肴等少々取立、猿渡并ニ孫兵衛、付役坂元伴
次郎・久留宗太郎召呼候、
一 是日節季ニ付、附足軽両人も金子壱両弐歩ニ生西洋物壱反ツツ遣
候、家来末々迄壱両弐歩ツツ為取候、

十二月廿八(九か)日 晴曇

一 いつもの通り目覚めた。午前10時過ぎに出勤した。小松家、諏訪家、西郷、大久保、吉井も出勤した。小松家から昨日、尹宮様より雁をいただかれたということで、執務室で捌いて食事にして出された。午後2時過ぎに退殿した。
一 この日は亭主より、三方に載せた、祝いの餅を贈られた。
一 島津清太夫殿から歳暮の祝儀、猪肉一枝を贈られた。
一 この晩は大晦日なので、酒と肴などを少々用意して、猿渡と孫兵衛、付役坂元伴
次郎・久留宗太郎を呼んだ。
一 このは年の暮れなので、付き人の足軽両人にも金子1両2歩と生西洋物一反づつやった。家来すべてに一両二分づつ配った。

慶応二丙寅年正月元日 快晴

一 払暁寝覚 天朝敬拝、其外如常、
一 五ツ前より小松家・大久保氏・吉井氏・内田氏・奈良原・海江田
同伴、馬上ニて八幡参詣、 荼屋ニてゆるゆるいたし酒肴昼飯等給、
帰路伏見兼春江立寄、外各相別れ夕時分帰宿、
一 此晩猿渡も諏訪氏誘ひ候て会々堂江参候由ニて不罷合候ニ付、元
日祝とて少々酒肴共出し孫兵衛召呼ゆるゆる相咄候、

慶応二丙寅年正月元日 快晴

一 早朝、天子様を心から敬った。その他は常のようである。
一 午前8時前から小松家、大久保氏、吉井氏、内田氏、奈良原、海江田も同伴で、馬で八幡を参詣した。荼屋でゆっくりとし、酒と肴と昼飯などをいただいた。帰り道は伏見の兼春に立ち寄って、おのおの別れ夕暮時分に帰宿した。
一 この晩、猿渡も諏訪氏を誘って会々堂に行くということで、こちらにはこないというので、元日祝として、少々酒と肴をともにだして、孫兵衛を呼んでゆっくりと話をした。

●藩邸の主立ったメンバーで石清水八幡宮に初詣に馬で行き、帰りに伏見の兼春のところに寄っている。

正月二日 曇夕より雨少々降出す

一 毎之通寝覚也、今日ハ公卿方御参内可有之と承候ニ付、奈良原江
致約束置候得共、今日ハ何事も無之との事故、祇園清水辺致見物
度申談、中途ニ谷村小吉江行逢、同行ニて小松家江見舞、夫より
見物ニ参候てとかの尾茶屋江立寄ゆるゆる相咄、海江田江(信義)も行逢
候故、一緒ニ取会ニて、以外ニ壱人召列参侯間、酒共為出ゆる
ゆるいたし、夕時分帰宿、
一 此晩谷村小吉参りゆるゆる相咄候、
一 此日江戸入塾初生谷元兵右衛門・堀清之丞より遠行内願有之候付、
右趣意相達迄之間、長崎ニても御差出被下度旨承候間、御国元江
問合越可呉申入置候間、喜入家江右趣意相認壱封相添候、乍序宿
元状壱通相頼遺候.

正月二日 曇夕より雨少々降出す

一 いつもの通り目覚めた。今日は公卿方の御参内があると承っていたので、奈良原に約束をしていたけれども、今日は何事もないとのことなので、祇園、清水あたりを見物したいと言っていたところ、途中で、谷村小吉に行き会って、いっしょに小松家に挨拶に行き、それから見物に行き、栂尾茶屋に立ち寄りゆっくりと話をした。海江田(信義)も行き会ったので一緒になって、他に一人つれていたので、酒なども飲んで、ゆっくりとして、夕暮れ時分に帰宿した。
一 この晩は谷村小吉が来て、ゆっくりと話をした。
一 この日は江戸の(江川坦庵の)塾生の谷元兵右衛門(道之)、堀清之丞(基)から遠行(海外渡航)の内々の願いがあったので、その趣旨が達するまでに、長崎からも口添えして欲しいということを頼まれたので、国元に問い合わせをしてくれるように、喜入家にその趣意をしたためた手紙を添えた。ついでに、自宅に一通手紙を頼んだ。

●谷元と堀は江戸の江川坦庵(太郎左衛門)の塾にはいっているが、海外留学したいとの願いがでていたようである。活字版では「長崎ニても御差被下度旨」となっているが、謄写版では「長崎ニても御差被下度旨」となっていて意味がとりにくい。この二人は留学生ではなかったので、この遠行が留学を指すのか一時的な渡航をさすのかわからない。

正月三日 晴天

一 毎之通寝覚定刻より出勤、小松家・諏訪家・西郷・大久保出勤也、
御暇後在宿、此晩誰も無之候、

正月三日 晴天

一 いつもの通り目覚めて出勤した。小松家、諏訪家、西郷、大久保が出勤していた。 退勤したあとは宿舎にいた。この晩は誰も来なかった。

正月四日 快晴 春色相催

一 毎之通寝覚、種子島城左衛門・野村仲左衛門同伴、嵐山見物とし
て参候、当所ニて盃共取人、帰りニ二条之明かふ屋といふ所江立
寄、うなきめし遣給候、夫より三条通寺町等見物、同伴ニて帰り
ゆるゆる相咄、猿渡ニも出候て相咄候也、

正月四日 快晴 春色相催

一 いつもの通り目覚めた。種子島城左衛門、野村仲左衛門と同伴して嵐山見物にいった。そこで、盃などを買い物して、帰りに二条の明かふ屋というところに立ち寄って、うなぎをおごった。それから三条通寺町などを見物し、一緒に帰ってきた。ゆっくりと話をし、猿渡もでてきて話に加わった。

正月五日 曇天

一 朝毎之通寝覚也、毎刻出勤也、小松家・諏訪家・大久保出勤也、
毎刻退政也、八ツ過種子島城左衛門参候也、此日西陣織物見物ニ
参賦侯処、未織方不致由承候て、種子島ニも同伴ニて三条より寺
町四条辺見物、夜ニ入帰家、種子島ニハ相別れ候、

正月五日 曇天

一 いつものとおり、目覚めた。いつものとおり出勤した。小松家、諏訪家、大久保が出勤していた。いつものとおりに退勤し、午後2時過ぎに種子島城左衛門がやってきた。この日は西陣織物の見物にいくつもりだったが、織方の都合がつかないということを聞いたので、種子島と同伴で三条から寺町四条あたりを見物し、夜にはいってから家に帰り、種子島とは別れた。

同 六日 曇昼過より雨少々降ル

一 暁天寝覚、此日西久世村桂川原ニて六ツ半時分より大炮打方有之
筈候付、種子島案内ニて市来彦太郎ニも馬上同伴也、打方相済茶
屋江飯之手当有之、暫時相休罷帰候、今日ハ小松家・諏訪ニも出
張無之候、御側より大久保参候、海江田も参候也、八ツ時分帰る、
一 八ツ過より瀬尾手伝案内ニて織物織上所江参、織物取入候、陣羽
織裏用并英商カラバ江遣候大和錦地壱本取入侯、猿渡并鎌田孝右
衛門同伴也、此晩同道罷帰、ゆるゆる相咄候、

同 六日 曇昼過より雨少々降ル

一 明け方に目覚めた。この日は西久世村桂川の河原で午前7時ごろから、大砲の演習があるはずなので、種子島の案内で市来彦太郎も馬で同伴した。演習が済んだあと、茶屋で飯が用意されていたので、しばらく休んでから帰った。今日は小松家、諏訪も来ておらず、御側からは大久保がきて、海江田もきた。午後2時ごろに帰った。
一 午後2時から瀬尾の手伝の案内で織物織上所に行った。織物を買い入れた。陣羽織裏用と英商グラバーに贈る大和錦地一本を買い入れた。猿渡と鎌田孝右衛門が同伴した。この晩は一緒に帰って、ゆっくりと話をした。

寅 正月七日 朝立曇昼より晴至で暖気

一 毎之通寝覚、今日ハ節句ニ付堂上方御参内為見物被参、仍て御座
之方相頼置候、猿渡并孫兵衛召列、夫より寺町通、四条辺見物、
栂尾茶屋江立寄、昼飯仕ひ、夕剋ニ及帰る也、此晩誰も来客無之
候、

寅 正月七日 朝立曇昼より晴至で暖気

一 いつもの通り目覚めた。今日は節句なので、堂上方が御参内する為に見物にいった。よって御座之方を頼んでおいた。猿渡と孫兵衛を連れて、それから寺町通、四条あたりを見物し、栂尾茶屋に立ち寄って、昼飯を済ませ、夕刻に帰った。この晩は誰も来客がなかった。

●この日は木戸が大坂に黒田了助とともに到着した日である。二本松藩邸はまだ何も知らない。三が日明けから、この日まで久武は京見物を楽しんでいる。御趣意の徹底と天機伺いという2大任務が終了してほっとしている様子がうかがえる。しかし、翌日から激動がはじまる。

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幕末

Posted by takahisa