桂久武上京日記の分析
ー大久保の帰京と西郷の帰国ー

二月十六日

一 毎之通寝覚、此朝溝口吉左衛門洋学修行内願承候事、
一 此日四ッ時分勘兵衛同伴ニて、吉田社より真如堂・若王子社・永観
堂・黒谷南禅寺夫より祇園・清水・大仏・三十三間堂辺迄参候
吉田社ニて甘露丸申請侯て、若王子内ニて昼飯給候也、
一 此日江戸定式飛脚到着、岩下氏よリ之封書到来也、

二月十六日

一 いつもの通り目覚めた。この朝は溝口吉左衛門が洋学修行の内々の願いを聞いた。
一 この日午前10時頃に、勘兵衛を同伴して吉田社から真如堂、若王子社、永観堂、黒谷南禅寺、それから祇園、清水、大仏、三十三間堂あたりまでいった。吉田社では甘露丸をいただき、若王子境内で昼飯をとった。
一 この日は江戸からの定期の飛脚が到着した。岩下氏からの封書がきた。

二月十七日 朝立快晴夕方より曇

一 毎之通寝覚、定刻出勤掛諏訪氏江参候て今日より武芸見分相初メ
稽古所江出張、小松家ニハ病気ニて当分出勤ハ無之候、田中・東
大山・有川・鈴木ニて候、九ッ過相済帰宿、
一 八ッ後勘兵衛同道ニて大仏辺より先景勝之場所致見物度、大仏内
新日吉豊俣江参詣す、夫より束福寺江参、所々見物す、桜も少々
咲出候所も間々有之候、

二月十七日

一 いつものように目覚めた。定刻に出勤する途中諏訪氏のもとに行って、今日から武芸の見分を始めようと稽古所に出向いた。小松家は病気なので、当分の間出勤はないとのこと。田中・東・大山・有川・鈴木が出勤していた。昼過ぎに仕事が済んで帰宿した。
一 十時過ぎに勘兵衛を同道して大仏辺りから先の景勝地を見物したいと大仏町の中の新日吉豊○に参詣した。それから東福寺へ行き、所々を見物した。桜も少し咲いている所もあった。

寅二月十八 晴天昼過より少々曇

一 毎之通寝覚、定刻より出勤、諏訪家・西郷氏出仕、小松家未少々
不快故出勤無之候、退出より浄福寺心岳公(島津歳久)御廟参詣いたし、御供
之魂屋少々相損居候問、取繕方相願置候、
一 今日江戸定式飛脚御国元江差立候付、喜人家江壱封、宿許潭壱封
差出候事、
一 此日九ッ時分東北白川村江出火、少々相騒敷候也、
一 八ッ過より勘兵衛同道二て相国寺辺林光院戦亡之野村勘兵衛外
之墓参いたし候也、夫より荒神ロより四条縄手辺致歩行、しゆる
こ屋江暫時相休、あちこちといたし暮時分帰宿也、

寅二月十八日 晴天昼過ぎより少々曇

一 いつもの通り目覚めた。定刻から出勤した。諏訪家、西郷氏が出仕していた。小松家はまだ少々不快なので出勤はない。退勤してから浄福寺心岳公(島津歳久)の御廟に参詣し、お供えの魂屋が少し壊れているので、修理するようにお願いして置いた。
一 今日、江戸からの定期飛脚が国元へ出発するというので、喜入家へ一通、我が家へ一通差し出した。
一 この日昼頃に東北の方向、白川村で火事があった。少々、騒がしかった。
一 午後2時過ぎから勘兵衛を同窓して、相国寺近くの林光院にある戦没した野村官兵衛その他の墓参をした。それから荒神口から四条縄手あたりまで散歩し、しるこ屋で暫く休憩し、あちらこちらをみて暮時分に帰宿した。

寅二月十九日 晴天

一 毎之通寝覚、定刻より出勤、此日諏訪家迄出勤也、武芸見分之賦
ニ候間、弓場江出席、梅川・田代相応之人数、剣術伊十院嘉盛流
儀一流也、右相済帰宿也
一 八ッ前より種城同道二て御所御築地地突相初候由、為見物参、夫
より荒神口江参候、此日抵園芸妓共踊出立ニて御所并ニ荒神口江
出候由承候間参候処、御所隙取、荒神口江ハ不参候、暮時分帰宿、
種城被参ゆるゆる相咄候也、

寅二月十九日 晴天

一 いつもの時間に目覚めた。定刻から出勤した。この日は諏訪家も出勤していた。武芸を見分するつもりだったので、弓場にでて梅田、田代が相応の人数を指導し、剣術は伊集十院嘉盛流儀は一流である。これらが済んで帰宿した。
一 昼前から種城を同道して、御所の築地地突はじまるというので、見物にいった。それから荒神口に行って、この日は祇園の芸者が踊りながら御所および荒神口へやってくるというので、行ったところ、御所で時間がかかって荒神口へは来なかった。暮時分に帰宿し、種城がやってきてゆっくりと話をした。

寅二月廿日 曇天

一 毎之通寝覚、四ッ後小松家江参、ゆるゆる相咄帰候也、此日岩山
壮八郎・田中喜太郎江戸より差越候で参合候、花川金之進ニも参
候、宮津藩某御頼入いたし列下り候由ニて参候間逢取候也、此日
終日在宿也、夕方鎌田孝右衛門参候、蒸気船便より御国元問合等
致持参候、此晩勘兵衛も参候間、留置ゆるゆる相咄候也、

寅二月廿日 曇天

一 いつものように目覚めた。10時過ぎに小松家へ行き、じっくりと話をして帰宅した。この日は岩山壮八郎・田中喜太郎が江戸から到着してやってきた。花川金之進もやってきた。宮津藩の某が頼んで一緒に下ってきたというので面会した。この日は終日在宿した。夕方に鎌田孝右衛門がやってきた。蒸気船で運ばれてきたお国元からの問い合わせなどを持参して来た。此の晩は勘兵衛もやってきて、引き留めてゆっくりと話をした。

●宮津藩の某とは誰だろうか? 宮津藩は鳥羽伏見の戦い当初、幕府方についたが河瀬秀治の活躍で、不問に付されたという。「頼合いたし列下り」というのが意味がとりにくい。ここでは、江戸からやってきた一行についてきた者と解した。

寅二月廿一日

一 毎之通寝覚、定刻より出勤、諏訪家・西郷同断出勤也、大久保一
蔵到着早速致出勤候間、御国元、左右共一通承候也、此日終日在
宿、大かね時分仁礼源九右衛門差越参候、ゆるゆる御国許左右も
承届侯也、此晩勘兵衛参候間ゆるゆる相咄候也、
此日梅田・田代・東郷武術見分也、

寅二月廿一日

一 いつものように目覚めた。定刻より出勤した。諏訪家・西郷も同様に出勤した。大久保一蔵が帰着し、早速出勤してきた。御国元の藩主父子、側近の人々の反応を聞いた。この日は終日在宿し、午後5時頃に仁礼源九右衛門がやってきた。だいたいのところ御国元の藩主父子および側近の人々も受け入れたとのこと。この晩は勘兵衛がやってきてゆっくりと話をした。この日は梅田・田代・東郷の武術を見分した。

●この日前月二十一日に帰郷した大久保が帰国した。その足で出勤してきた大久保から国元の様子を聞いて、藩主父子や側近が大久保の説明を一応納得したという情報を得て安堵した様子がわかる。仁礼源九右衛門も大久保とともに上京したのだろう。久武のもとへ出向いて国元の事情を説明している。

寅二月廿二日 曇天

一 毎之通寝覚、九ッ過より今日ハ休日故出勤不致、大久保・いちゝ
到着いたし御国元、左右委敷承度申談参候、伊勢殿・西郷・大久
保・いちゝ也、四ツ過時分迄相咄候也、

寅二月廿二日 曇天

一 いつもの通り目覚めた。今日は休日なので出勤しなかった。昼過ぎより、大久保、伊地知が到着して、御国元の様子を詳しく承りたいと申し入れたので以下のものが集まった。伊勢殿(諏訪甚六・広兼)、西郷(吉之助・隆盛)、大久保(一蔵・利通)、伊地知(壮之丞・貞馨)である。午後10時頃まで話し合った。

●久武、伊勢の二家老および家老格の西郷と上京してきた大久保、伊地知で国元の情勢を久武の宿舎で夜遅くまで話し合ったようである。小松が出席していないが、十七日の項に病気で当分は出勤できないと記録されているので、まだ会議に耐えなかったのだろう。京都藩邸の最高幹部の会議で、しかも藩邸外で行われている。月末に久武、西郷、小松が坂本龍馬夫妻もともなって帰郷し、その後の京都における対応責任者として諏訪、大久保、伊地知があたることが取り決められたと考えられる。大久保は先月二十一日に離京し、二十五日に木戸らを同じ汽船にのせて帰郷した。拙論(「慶応期西郷隆盛寓居の検討から『薩長同盟論』にいたる」『霊山歴史館紀要』24号 2019)では大久保の二十一日の奈良原らを連れての離京は、二十二日の京都での小松、西郷、木戸、龍馬会談を成功させるために、藩邸の盟約反対派を引き離すためのものだったと推定した。二十二日の会談内容は木戸から大久保は聞き取ったことであろう。そして、藩主父子らが大久保の報告を承知したことを前提に、木戸との会談では後景にしりぞいていた久武も俄然、西郷とともに薩摩藩の命運を担う覚悟を決めたことだろう。

寅二月廿三日

一 毎之通寝覚、四ッ時分出勤也、退出後勘兵衛同伴ニて取人もの等
求二出候也、此晩勘兵衛参候、

寅二月二十三日

一 いつもの通り目覚めた。午前10時頃に出勤し、退勤後は勘兵衛を同伴して買う物を求めて外出した。この晩は勘兵衛が来た。

同廿四口 雨天也

一 毎之通寝覚、定刻出殿也、此日武術見分也、
一 此日退出後終日在宿也、大久保氏見舞ニ預也、二条彫物師仏江
人形張抜形相頼置候処、出来いたし候間、当人も参候付、製作之
法糺問ニ及居候也、

同二十四日 雨天也

一 いつもの通り目覚めた。定刻に出伝した。この日は武術を見分した。
一 この日は退出したあと在宿した。大久保氏の訪問を受けた。二条彫物師仏へ人形の張り抜き形を頼んでおいたところ出来たので、当人もやってきたので、制作の方法を質問した。

寅二月廿五日 終日雨天

一 毎之通出殿、此日武術見分之賦侯処不相調、退殿後浄福寺江御墓
参、前以金子五百疋遣候て御回向相頼致参詣候処、供物等相備有
之候、夫より日柄ニ付北野天満宮江参詣、茶屋江立寄、昼飯遣ひ
候手て帰り候、途中ニて保命酒有之候間、立寄取入方いたし候也、
一 此日金五百両仕舞料、百両御銀主付届として被成下候

寅二月廿五日 終日雨天

一 いつもの通り出殿した。この日は武術見分のつもりだったが、準備ができていなかった。退殿後、浄福寺のお墓に参り、前もって金子500匹(1両1分相当)を渡して、御回向を頼んで詣った。お供え物などを準備した。それからいい天気だったので、北野天満宮に参詣し、茶屋へ立ち寄り、昼飯を食べて帰った。途中で保命酒(なんと現代でも製造販売されている。当時の高級薬用酒)があったので、立ち寄って買い入れた。
一 この日金500両を清算金、100両を貸主への付届として下された。

同廿六日 朝立曇昼時分より晴立

一 此四ツ時分より諏訪家江賤別とて嵐山江同伴馬上ニ参候、大久
保・内田・鎌田孝右衛門・用達柳田正太郎也、八田喜左衛門(智紀)ニも
昨日より参在候間参候也、嵐山手前木屋ニてゆるゆる相咄候、暮
前帰宿也、暮時地震いたし候、

同廿六日 朝立曇昼時分より晴立

一 この日午前10時ごろから諏訪家へ餞別として嵐山へ馬にのって一緒に行った。大久保・内田・鎌田孝右衛門・用達柳田正太郎、八田喜左衛門にも昨日から来るように言っていたのでやってきた。嵐山手前の木屋にてゆっくりと話をした。暮れ前に帰宿した。夕暮れに地震があった。

同廿七日 晴天

一 毎之通寝覚、此日四ツ前より馬上ニて五条焼物師高橋道八方江進
上用取入方として参候て品数も無之、少々取入置候也、八ツ後小
松家江暫時参候て談話いたし候、

同廿七日 晴天

一 いつもの通り目覚めた。この日は午前10時まえから馬で五条焼物師髙橋道八方に贈り物用の品を買い入れるために行ったが、品数もなかったので、少しだけ買い入れた。昼過ぎて小松家にしばらく行って、相談をした。

●この日、病気で臥せっている小松のところに久武は話をしにいっている。大久保の帰京報告などが内容であろう。

寅二月廿八日 曇天

一 毎之通寝覚、段々客来等有之候、四ツ時分より中村源吾同伴ニて
尹宮様江為御暇乞参殿、拝謁被仰付、綴織御はな紙入・同御たは
こ入壱組・御盃壱ッ頂戴・其上御酒御取肴御料理迄も頂戴いたし
候、夫より桜木御殿江罷出、机前ニて御会議之後、御花入・御花
台・御盃・御煙草入壱ツ拝領、今日ハ少々御不例故、御対顔ハ残
多思召候得共、不被仰付旨致承知候、山階之宮江ハ御取次を以御
玄喚迄、近衛様江も御表御裏共同断ニて候事、此日暮時分迄段々
来客等有之候、此晩猿渡勘兵衛参候間いゆるゆる相咄候也、

寅二月廿八日 曇天

一 いつもの通り目覚めた。だんだんと来客などがあり、午前10時頃から中村源吾を同伴して、尹宮(中川宮)様のところへ暇乞いにいった。拝謁を仰せつかり、綴れ織り、御はな紙入れ・同じく煙草入れ一組、御盃一つを頂戴した。その上、お酒と肴料理も頂戴した。それから、桜木御殿(近衛忠煕居住、川端丸太町東入るに所在)に行って、几帳越しにお話をしたあと、御花入、御花台、御盃、御煙草入れ一つを拝領した。今日は少々具合がお悪かったので、対面は名残惜しいとは思し召されたが、それはできないと承知した。山階之宮へはお取り次ぎをもって御玄関まで、近衛様でも御表(忠房)、御裏(島津貞姫)も同じくであった。この日は暮れ時分まで、つぎつぎと来客があった。この晩は猿渡勘兵衛が来て、ゆっくりと話をした。

●桜木御殿は当時、近衛忠煕が居住していた(原田良子・新出高久「薩長同盟締結の地『御花畑』発見」敬天愛人34号 2016年を参照。また近衛本邸は忠房が居住し、御裏は邸内にあり、室の貞姫の住居)。また、この桜木御殿は新町にある「桜御所」と混同されることもあったが、この場所であることは原田良子「幕末期の近衛家別邸「桜木町御殿」について」(『地名探求』京都地名研究会18号 2020年)に詳しい。

寅二月廿九日 雨天

一 毎之西口西口通寝覚、来客段々有之候間、四ヅ時分より出立、大久保氏江
為暇乞参候、西郷ニも参逢候、同伴ニて出殿いたし候、明日出立
ニ付、御届申上候、退出より諏訪家・喜入家・伊地知氏江為暇乞
見舞候也、
一 御裏御殿より出立ニ付、御肴代金三百疋・綴織御たぽこ入れ壱組・
御盃壱ツ・御短冊掛壱ツ・御短冊壱枝・御読歌壱枝相添・御盃壱
ツ・真綿弐把為御賤別頂戴被仰付候事、

寅二月廿九日 雨天

一 いつもの通り目覚めた。来客が次々とあり、午前10時ごろから出立、大久保氏に暇乞いに行った。西郷のところに行って一緒に出殿した。明日、出立なので、御届を申し上げた。御殿をでてから諏訪家、喜入家、伊地知氏に暇乞いに行った。
一 御裏御殿(近衛邸:貞姫の住居)から出立なので、御肴代金300匹、綴れ織り御たばこ入れ一組、御盃一つ、御短冊掛一つ、御短冊一枝、御読歌一枝を添えて、御盃一つ、真綿二把を御餞別として頂戴するように仰せ付けられた。

●この日に久武は離京するが、離京届けを出す前に大久保のところに行き、さらに西郷の所へいって一緒に出殿している。西郷とともに藩邸の廊下を歩く久武の思いはどのようなものであっただろうか。日記全体をみると、西郷と久武は木戸到着以前は頻繁に話をしているが、それ以後は一時帰郷した大久保が帰還するまで、直接話をしていない。親友であるにもかかわらず。久武は当初は、藩主および国父久光の代理人として上京し、御趣意の伝達と天機伺い、日置家のものとしてその始祖、島津歳久の廟の世話が役割だった。個人的には過激に走り、久光から誤解をうけるおそれのあった親友、西郷を連れ帰ることを目的としていた。西郷もそれに応じていた。しかし、木戸の上京、それにともなう藩邸内の騒動、急転直下の盟約締結、幕吏から追われた龍馬の保護などが連続しておこり、薩摩藩の立場は急展開した。その間、久武と西郷は個人的に話をすることはできなかった。さて、離京にあたって、貞姫から何か国元に言づてがあったのだろうか、藩邸をでたあと貞姫御殿経由で下坂したようである。

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