桂久武上京日記の分析
ー龍馬二本松移送の時期ー

※今回、黎明館HPからダウンロードできる、活字翻刻された村野守次『鹿児島県史料集 第26集 桂久武日記』中の「上京日記」を底本に利用して、全訳を試み、できたところから公開していた。それが終わった段階で、志學館大学人間関係学部『研究紀要』第39巻に有松しづよさんが、桂久武「上京日記」訳註稿を掲載されているのを知った。底本は東大史料編纂所が所蔵する島津家臨時編纂所が大正11年から12年にかけて謄写したもの(以下:謄写版)である。有松さんは今後、原本をみて訳注を完成させたいと記しておられる。この二つのテキストには異同がある部分があった。その異同部分を比較して、ようやく意味がとれたり、有松さんがつけた訳注によって深まった所もある。その部分を赤字で示していく。すでに公開した部分も、それによって訂正すべきと思ったところは同様にする。

正月廿七日 曇天

一 毎之刻限寝覚侯也、此日出殿不致候、御国許より相立一日留置、
今日江戸表之様被差立候、岩下佐次衛門殿江一封差出候、長崎
表ニて倶々相求候本込炮鋳形、拙者方江相受取置候問、右玉鋳込
遣しくれ候様と申越侯間、今日便より遣候、
一 昼飯後より勘兵衛・孫兵衛同伴ニて西之方古道具求方ニ参候て大
盃壱ッ相求置申候、暮二帰宿、此晩勘兵衛参侯てゆるゆる相咄候
也、風呂もたかせ候.

正月廿七日 曇天

一 いつもの時間に目覚めた。この日は出殿いたさず。国もとから立てられた飛脚を一日留め置いて、今日江戸表に出発させた。岩下佐次衛門殿へ一通差し出した。長崎でいっしょに求めた本込めの炮鋳形、私の方で受け取り、その玉鋳込をよこしてくれと伝えていたところ、今日の便でよこしてきた。
一 昼飯の後から勘兵衛・孫兵衛を同伴して西の方へ古道具を求めに行き、大盃をひとつ買い求めた。夕方には帰宿した。この晩は勘兵衛がやってきてゆるゆると話した。風呂も沸かせた。

●江戸にいる岩下万平に、長崎で一緒にもとめた本込炮の鋳型を自分の方で受け取り、それ用の玉の鋳型を注文していたら、今日の便で来たと知らせる手紙を送っている。この「本込炮」の鋳型とはどのようなものなのかわからない。元込式のようなので当時の最新式の銃である。弾丸をつくる鋳型もセットだったように読める。武器については全く分からず、ご存じの方があればご教示願いたい。前装式のエンフィールド銃を改造して後装式のスナイドル銃にする部品の鋳型と弾丸をつくる鋳型かなとも思うが、よくわからない。

正月廿八日 晴天

一 毎之刻限二寝覚候也、四ッ時分より勘兵衛・孫兵衛同伴ニて五条
焼物見ニ参候ていろいろ相求候也、帰り懸一条通少し先き、室町
通後そば切屋江寄候て帰侯也、
一 此日岡崎御屋敷毎月例之通一陳調練有之由、昨日諏訪家より御
軍役方書役市来彦太郎ヲ以、為知被呉候得共、相断頼遣置候事、
一 此日四条小橋江戸店袋物屋江頼有之候揃煙草入土産用三十組出来
候由ニて為持遣し有之侯也、右ニ付菓子壱箱到来候事、
一 此日西郷幽泉見舞、孫兵衛取次ニて承候事、

正月廿八日 晴天

一 いつもの時間に目覚めた。10時ごろから勘兵衛・孫兵衛を同伴して五条の焼物を見にいって、いろいろ買い求めた。帰る途中で、一条通の少し先き、室町通を過ぎたところのそばきり屋によって帰った。
一 この日は岡崎屋敷で毎月恒例の一見の価値ある調練があるとのこと、きのう諏訪家から御軍役方書役、市来彦太郎が知らせてくれたが、断りを入れた。
一 この日は四条小橋に江戸店の袋物屋に頼んでおいた揃いの煙草入、土産用が三十組出来たというので、取りに行かせた。注文の礼にと菓子一箱がとどいた。
一 この日は(奥医師の)西郷幽泉がやってきたとのこと、孫兵衛から伝言を聞いた。

●ここで、今の京都会館、岡崎グランドあたりに五万坪の規模で存在した岡崎屋敷のことがでている。盛んに調練が行われていたようである。また三十組の煙草入れを土産物に引き取っているのは興味深い。国に帰って京の土産話とともに配った久武を思い描くとなんだか面白い。

寅正月廿九日

一 毎之刻限寝覚候也、此日終日在宿也、此夕村山下総・中村源吾夜
咄ニ被来候、尤村山ニハ始てゆるゆる取会ニて、肴三種鉢之物二
いたし被贈候間、相披き候、此晩深更迄相咄候也、

寅正月廿九日

一 いつもの時間に目覚めた。この日は終日、宿所にいた。この夕方に村山下総・中村源吾が夜話に来られた。もっとも村山には初めて会った。ゆっくりとした会合で、肴が三種鉢の物になって出てくる間、心をひらいて、この晩は夜更けまで話をした。

●村山下総については、「村山下総(斉助・松根)は、「別名 北条右門・木村仲之丞といい、元薩摩藩士。いわゆる嘉永年間の藩主跡継ぎをめぐるお家騒動、お由羅騒動で島津斉彬派だったため、薩摩藩を追われる身となり、脱藩して筑前国福岡藩領内、筑前大島(現宗像市)や福岡博多、上座郡(朝倉郡)大庭村(現朝倉市)や夜須郡四三嶋(現筑前町)などに潜伏した。そして、平野國臣や松屋・栗原孫兵衛ら筑前の志士たちとも交流に月照上人の九州・薩摩への逃避行を周旋・支援したり、太宰府天満宮の境内にある和魂漢才の碑の建立にも尽力した人物でもある」(竹川克幸「幕末薩摩藩の国事周旋と他藩対応 : 九州太宰府における五卿の警衛・応接・周旋を中心に」『研究成果報告書 : 明治維新150周年若手研究者育成事業』2016年)とあり、また笹部昌利「薩摩藩二本松屋敷の政治的意義-島津家の国事と「京」の拠点」(『京都産業大学日本文化研究所紀要22号 2017年)によれば、文久年間の二本松藩邸の造営当初から京都留守居添役として、相国寺との折衝にもあたっている人物である。二本松藩邸に常駐し、久光の側近として久光の国事周旋を支えてきた人材である。歌人としても名を残している。「相披き候」という他には見られない言葉使いに胸襟を開いて話し込んだ様子がうかがえる。久光の名代として上京した久武と京に常駐する久光側近の、ある意味立場を同じくしたもの同士が、この間の事態の推移について本音を語り合ったように思える。

寅正月卅日 曇晴

一 毎之刻限二寝覚候也、四ツ時分より勘兵衛同伴ニて歩行、五条橋
辺より諸所致遊行、二条御城脇猪之熊赤穂屋鰻飯し屋ニ立寄、
帰りに西陣辺、夫より有川七之助旅宿見舞候処、藤井(良節)・村山宮内(松根)
列立参居候間、暫時相咄候で帰候也、此晩孫兵衛出候間暫時相咄
一 此日大丸呉服所ニて生晒ちりめん帯地もち羽織取入候也、

寅正月三十日 曇晴

一 いつもの通り目覚めた。10時ごろから勘兵衛を同伴して、散歩した。五条橋からいろいろなところへ遊びに行った。二条の御城脇の猪之熊通りの赤穂屋、これは鰻飯し屋だが、に立ち寄った。帰りに西陣あたり、それから有川七之助の旅宿を訪問したところ、藤井(良節)・村山宮内(松根)らが一緒に居合わせたので、少しの間話をして帰った。この晩は孫兵衛がやってきてしばらく話した。
一 この日は大丸呉服所で、生晒ちりめん帯地と石持羽織(黒羽織のこと)を購入した。

●日本人名大辞典(講談社)によると、藤井良節は、文化14年生まれで、村山下総と同じくお由羅騒動で福岡藩にのがれた。文久2年以後は京都で弟の井上石見(いわみ)とともに岩倉具視らとの連絡にあたった。村山とともに、久光の京都での国事周旋の役にあたっていた人物であろう。この藤井と前日会ったばかりの村山と訪問した井上七之助宅で再び会ったのは偶然ではなく、前日、村山から有川の所への訪問要請があり、それにあわせて藤井、村山がやってきたと考えることができる。この3人はそろって、久光名代の久武になにがしかの件を話したかったのだろう。翌日の2月1日は伏見から坂本龍馬を二本松へ移送した日である。当然、その問題が藩邸では持ち上がっていたはずであるから、その件に関わっての可能性がある。

寅二月朔日 晴天霞相立候

一 毎之刻限寝覚候て四ツ後有川七之助見舞、此日ハ磯永謙四郎(謄写版では弥九郎)見参
申度承居候間、切角相待居候処、参候間ゆるゆる相咄、酒肴差出
昼飯共出候で、ゆるゆる趣意之趣共承候也、

寅二月朔日 晴天霞相立候

一 いつものとおり目覚めて、10時すぎに有川七之助がきた。この日は磯永謙四郎(弥九郎)がやってきて話したいことがあるとわかっていたので、いっしょにまっている間、せっかくなので、(謙四郎が)やってくるまで、ゆっくりと話をし、酒と肴なども出された。昼飯などもでて、じっくりと趣旨を承った。

●この日再び有川と会っている。さらに磯永という人物が訪問予定で、有川とともに会う段取りとなっている。前日のことも考えると、村山、藤井、有川、磯永は喫緊の課題を久武と話しあったように思える。龍馬の二本松移送の件と考えられないだろうか。 磯永謙四郎というのは、前年に13歳で英国留学生に選ばれた磯永彦輔(長澤鼎:のち米国にわたり永住してカリフォルニアでワイン王となった人物)の縁者かも知れない。その父は孫四郎というが、その人であろうか。久武は留学生事務にも関与していたことが、第二次留学生に木藤市助を決定した記述が2月5日にあるので、前年の留学生、彦輔に関わる事を話に来たのかも知れない。当初、有川と一緒に話をしたと考えたが、磯永が来るまでの間ということで、有川と話をしたと読解した方がよいかも知れない。

二月二日

一 毎之通出殿也、

二月二日

一 いつもの通り出殿した。

同三日

一 毎之通出殿

同三日

一 いつもの通り出殿

●2月2日、3日と出殿したとあるだけで、なにも記事がない。上京日記を通して異例の書きぶりである。前日の1日に吉井幸輔が鉄砲隊を含む一隊を率いて、幕府捕り方と一触即発状態で龍馬の移送を実行した。2日、3日は薩摩藩へ殺人犯である龍馬の身柄引き渡しをめぐって一悶着あり、久武もその対応にあたったことだろう。この異常事態を公務日誌に書き記すことはためらわれたのではないだろうか。

同四日

一 毎之通寝覚四ツ自分出殿、退出より小松家宿、御花園江参候様承
候て参候処、ゆるゆる被相咄度、猿渡勘兵衛・鎌田孝右衛門、有
川七之助・堀剛十郎参合候、伊勢殿ニも大かね自分より被参候、
用達鎌田十郎太も出候て召仕候女共二も出候也、
一 此日初午稲荷祭にて世上賑々候也、

同四日

一 いつもの通り目覚め、10時頃から出殿した。勤務終了後に小松の寓居である御花畑へ来るように承っていたので、行ったところ、じっくりと話をされて、猿渡勘兵衛・鎌田孝右衛門・有川七之助・堀剛十郎なども一緒になった。島津伊勢殿も夕方5時頃よりまいられた。用達の鎌田十郎太もでてきて、召し使っている女性も出てきた。
一 この日は初午の日で、稲荷祭があるので世上は賑やかである。

●この日の小松の話はなんであったのだろう。男女、身分関係なく人物が挙げられている。

二月五日

一 毎之通寝覚、此日出殿不致候、木藤市助遣候賦候間御国元江書状
差出候也、

二月五日

一 いつもの通り目覚める。この日は出殿しなかった。木藤市助を(留学生として)遣わすつもりだと国元に書状を差し出した。

●木藤市助は3月末に米国留学生の一員として長崎を出発した。時期からみて、ここでの記述は久武が木藤を留学生として推薦したことをさすのであろう。木藤は寺田屋事件に関わり、高杉晋作とも親しかったという。前途有望な若者だったのだろう。しかし、彼は翌年、精神的に追い詰められて留学先で自死した。

二月六日

一 毎之通寝覚、定刻出殿也、

二月六日

一 いつもの通り目覚め、定刻に出殿した。

●この日も記事はない。龍馬収容の件が長引いているのか。

二月七日

一 毎之通寝覚、此日出殿不致候、終日在宿也、夕方よりい十院重次
郎・遠武吉二・伊勢平右衛門同伴ニて参候、い十院ニハ沈酔ニて
夫より亭主振込候て酒共差出候て差返候也、
一 此日加治木住人森山嘉右衛門参候、趣意之趣有之、申付置候事、
然処当人より重之物取肴等いたし差贈候間、致受用候也、

二月七日

一 いつもの通り目覚めた。この日は出殿せず、終日宿舎にいた。夕方から伊集院重次郎・遠武吉二・伊勢平右衛門を同伴してでかけた。伊集院は深く酔ってしまったので、夫より亭主振込候て酒共差出候て差返候也、(この部分の意味がよくとれなかったが、)それから、亭主のように振る舞いだしたので、酒を持たせて返した。(謄写版を参考に変更)
一 この日は加治木住人の森山嘉右衛門が来た。思うところを、申しつけてあったので、
その結果、当人から重箱にいれた肴を贈ってきたので、味わっていただいた。

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