桂久武上京日記の分析
ー薩長同盟締結 運命の三日間ー

正月廿日 曇天

一 四ッ後出勤、此日御国元江大久保罷下侯て爰許之事情言上仕候ハ
可然哉二申談、甘一日出立申渡相成候事、
一 八ッ時分帰宅、昼飯相仕舞候て大久保江御国元江之言上之趣共い
細申含置候事、
一 此晩長の木戸別盃致度候間、可参小松家より承候得共、不気色放
相断候、尤大久保氏ニて、西郷江逢候付相頼置候也、
一 此晩猿渡参候間ゆるゆる相咄候也、

正月廿日 曇天

一 10時過ぎに出勤、この日、御国元へ大久保が帰って、こちらの事情を報告させるのがよいと相談した。二十一日出立を申し渡すことになった。
一 午後2時頃に帰宅し、昼飯を一緒に食べた後、大久保に御国元への報告する内容について細かく申し含めた。
一 この晩に木戸の送別会をするので、来るようにと小松家より承ったが、気分が悪いので、断った。大久保氏の方で、西郷に会うというので、伝言を頼んでおいた。
一 この晩猿渡が来て、ゆっくりと話した。

●長州処分の最終幕府案は十九日に決定されている。この案は二十二日に幕府側から朝廷に伝えられているが、すでにその内容は伝わっていたことだろう。二十一日に木戸が帰国を決意したのも、この決定内容を知ったからであろう。そして、この夜に送別会が予定された。しかし、同時に久武に代わって大久保が帰国することが急遽決定し、翌日二十一日に出立が決定された。この日の朝には龍馬は薩摩藩邸に来ている。そして、翌日の日記をみると大久保だけではなく、奈良原、谷村など木戸到着の八日にしきりに諏訪や久武のもとにやってきたメンバーが同行して帰ることが決定している。先に奈良原、谷村は、その経緯からみて木戸を賓客として迎えることに異を唱えたメンバーと考えた。海江田を含む彼らが十八日の時点で木戸を絶望させる意見の持ち主ではなかったか。それが、大久保と同道して帰るというのである。そして、話し合いを終えた久武は午後2時頃には帰宅している。従来、この部分は昼飯をとったあと大久保のところへ出向き、帰国報告の内容をつめ、そこで西郷にであって、夜の木戸別盃出席を断ったと解釈されてきた。

●ここで、別案を示す。「昼飯『相仕舞』候」とは大久保と一緒に昼飯を久武宿舎で食べたと解釈できるのではないだろうか、午前中、本来は久武が帰国すべきところを大久保の帰国が決まった。久武に与えられた天機伺いや宮様、近衛様への訪問報告も大久保にしてもらわなければならない、そのことを詳しく伝えるために久武は大久保を同道して帰宅したと考えれば自然である。その伝達をしている最中に小松からの使いが別盃の参加要請を伝えてきた。その使いが帰ったあと、しばし考えて、これから西郷に会うという大久保に不参加を伝えてもらうことにしたのではないかと思う。もし、久武が大久保宅にいたなら、どこで久武は小松家からの知らせをうけたのだろう。小松は久武の宿舎に使いを送ったはずである。久武は宿舎にずっといなければ、この知らせは受けられない。しかし、もう一つ別の考え方として、原文には宿舎で受けたとは書いてないので、藩邸をでる前に小松自身から参加を求められて、断った可能性もある。しかし、その場合はすでに小松に断っているので重ねて西郷に断りを入れる必然性はない。やはり、大久保との打ち合わせの最中に欠席を決断したたのだろう。また、大久保のもとに出向いた時に西郷に出会い、気分が悪いのでいけないと断るのは不自然である。大久保は久武の代わりに帰国するのだから、まずは久武と打ち合わせするのが順序である。西郷とはその後である。大久保がこのあと西郷に会うという内容も全く自然に読むことができる。

●ここから、この夜の別盃は当日、決定されたこと、この別盃不参加を断る相手として小松ではなく西郷だと久武が考えていたことがわかる。別盃があるということは木戸との交渉が終わったことを藩邸内の一同に示す手続きである。藩邸内の誰もが十八日の会談の線で今回の薩長同盟話は終わったと思った。ここからは憶測になるが、久武はこの時、別盃がフェイクであり、このあと小松、西郷、木戸、龍馬の会談(四者会談)が行われることを知っていたか、察知したのだろう。久武の立場上、かぎりなくフェイクの別盃に参加するわけにはいかないと思ったのではないだろうか。宮川禎一氏の研究によると、この晩、龍馬は薩摩藩邸にとどまり、姪の春猪に、冗談めかした、それでいて死を覚悟するような手紙をしたためている。龍馬が薩摩藩邸にとどまる理由は翌日以降の四者会談参加のためしか考えられない。

正月廿一日 雨天曇

一 毎之通寝覚也、今日ハ不参故出勤不致候也、今日谷村・奈良原
・黒田嘉右衛門・同良助・大久保氏・得野良介・堀直太郎等出立
候付見送候也、
一 今日江戸より出立候飛脚被留置候付、今日出立ニ付御側江一通、
簑田・山之内江別段一通、日置江壱通、宿許江一通相認遣候
御国元江日置・花岡・田尻家・米川家・
郷原家宿許江菓子箱遣候也
一 此晩孫兵衛出候間ゆるゆる相咄侯也、

正月廿一日 雨天曇

一 いつもの通り目覚めた。今日は行かないので出勤はしない。今日、谷村・奈良原・黒田嘉右衛門・同良助・大久保氏・得野良介・堀直太郎らが出立するので、見送った。
一 今日、江戸からやってきた飛脚を留めていたが、今日中に(国元へ)出立するので、御側(藩主父子側近)へ一通、簑田・山之内江別に一通、日置へ一通、宿許(やどもと:鹿児島の自宅のこと)へ一通をしたためた。
御国元の日置・花岡・田尻家・米川家・郷原家と宿許(自宅)へ菓子箱をつかわした。
一 この晩は孫兵衛がやってきてゆっくりと話をした。

●冒頭「今日ハ、不参候故出勤不致候也」と書いている。前日体調不良であったと記されているので、この日もその継続というのが通説である。しかし、よく読むと出勤をしない理由として「不参候故」と書いている。これは何に「不参」と言っているのだろうか。単に「(藩邸)にいかない(不参)から出勤しない」では意味不明である。出勤していない他日の記載はすべて「此日出勤不致」の決まり文句が書かれていて、理由がある場合も「休日故」や「誰も出勤無之由」と意味のわかる理由が添えられている。この時、久武の念頭には何らかの会合があり、それに不参加だからと考える。四者会談が念頭にあったのだろう。その後、大久保が奈良原、谷村らと離京するのを見送っている。ここに堀直太郎の名があるが、実際には堀直太郎は二十二日に離京したという自身の手紙文が残っている。木戸らもこの日に離京する予定だったが、木戸は一日俄に留められている。このあたりのことはすでに霊山歴史館紀要24号の拙稿にくわしく書いたので、そちらをご覧いただきたい。が、結論だけをいうと木戸の随行者は大久保とともに二十一日に予定どおり離京した。木戸上京に違和感をもっていた奈良原、谷村らも藩邸を離れた。この動きを横目でみながら龍馬は西郷、小松、木戸らに周旋活動をおこない、翌日午前中に四者会談を設定したと考えている。久武はその全てを知りながら、宿舎にこもり黙認したと考える。

正月廿二日 雨天

一 毎之刻限寝覚、此日雨天、其上不快ニ有之候付終日在宿、此晩勘
兵衛・孫兵衛出候間ゆるゆる相咄候也、

正月廿二日 雨天

一 いつもの通り目覚めた。この日は雨。その上不快だったので、終日宿所にいた。この晩、勘兵衛と孫兵衛がやってきてゆっくりと話した。

●この日も久武は引きこもっている。そして、この日は龍馬の手帳にあるとおり四者会談が行われた。大久保とともに離京した藩邸のものも、品川以下の随行者もいない中でのトップ会談だった。久武はそれを知った上で引きこもったと考える。この日の簡潔さはそれをうかがわせる。木戸は会談終了後、夜行便の三十石船にのって下坂し、よく二十三日、記憶の新鮮なうちに龍馬に裏書きを求める手紙を書き送った。龍馬は二十二日は薩摩藩邸に逗留した。もし、二十一日中に四者会談が終わっていれば、二十二日に龍馬は伏見にもどってもいいはずである。しかし、実際は、翌二十三日に伏見にもどって幕吏に襲われることになる。

追記

20日に別盃参加の断りは大久保と自分の宿舎で相談している時に決断した。その経緯については当初は小松から使いが来たとしたが、小松本人から藩邸で告げられたものかも知れない。いずれにしても最終的には西郷に伝えることを久武は配慮しており、木戸の処遇については西郷が実質的責任を負っていたがわかる。

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