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石碑考

2019年12月24日

2003年「不動堂村屯所」碑
リーガロイヤルホテル前

当サイトですでに公開した新選組「不動堂村」屯所の位置と慶応期の西郷隆盛寓居の考証する過程で、石碑の問題を考えざるをえませんでした。それについて私見を述べておきたいと思います。

「不動堂村」屯所を示す複数の石碑

当サイト管理人は「不動堂村」屯所の位置と規模については現リーガロイヤルホテル敷地にほぼ該当することが確定したと考えています。

2003年、翌年の大河ドラマ「新選組!」放映を控えて、ホテル入口に「この付近新選組不動堂村屯所跡」が建碑された時は「根拠がない」と一部の研究家からの批判が相当あったようです。

新選組最後の洛中屋敷跡
塩小路西洞院西南角に立っています。

2009年に西洞院塩小路南西角ハトヤ瑞鳳閣前に「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」が建碑されました。こちらはもともとハトヤさんが、リーガロイヤルホテル前碑と同じ表題で簡単な駒札を立てられているのをみたNPO法人京都歴史同考会の中村武生氏が独自の見解をホテル側に伝えて建碑を働きかけられた結果建碑されたものです。この経緯は、今回中村氏自身が『近時新聞』36号で明らかにされています。また、この碑文の解説板には「厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません」という、およそ解説板としては不似合いな文言が綴られています。

しかし、これは矛盾しています。このような見解をお持ちなのに、なぜ屋上屋を架すような建碑を勧められたのか。この文言に従えば、この建碑も「価値の低い記録による」同質のものになっています。(参考:京都市歴史資料館いしぶみデータベース内「新選組洛中最後の屋敷跡」)

さらにわからないのは『近時新聞』の論考で、この見解は「特に積極的な根拠があるわけではない私見」としてあっさりと破棄され、この論考を批判された論者の方に感謝の意を丁寧なぐらい述べられていますが、屋上屋を架した石碑に自ら解説文まで寄せた責任については一切述べられていません。

また、ネットを検索してみればわかりますが、明らかに同じような石碑が2つ建っていることで史跡巡りをする人々を現実の問題として惑わせています。これは歴史家がやるべきことなのでしょうか。

「此付近 西郷隆盛邸跡」碑について

下塔之段町南端に建てられた解説板

2018年11月に、中村氏が中心となって上記の建碑が行われました。塔之段に西郷寓居があったとする根拠は伝記「元帥公爵大山巌」です。塔之段の地名しかわからないので、現在の上塔之段町、下塔之段町内での大河ドラマにあわせての建立を計画された結果でした。

しかし、拙論で中外商業新報(現日本経済新聞)記事にいう寓居の比定場所をピンポイントで明らかにしました。建碑の場所から50mほど南の革堂内町です。さらに拙論ではここ以外にも相国寺門前東側にも寓居があった可能性を指摘し、西郷の立場から考えて他にもあるかもしれないことを指摘しました。現在の研究段階はここなのです。

しかし、解説板には独自の見解がつづられています。西郷の寓居を二階建ての「邸宅」としていますが、拙論で紹介した記事の内容に照らせば塔之段の寓居は続き長屋で、「邸宅」とは言い難いものでした。また、薩長同盟会談にあたって木戸らがここにはいったと断定されていますが、「品川弥二郎述懐談」によれば相国寺近辺としているだけで、塔之段とは言っていません。また「品川子爵伝」の述懐では、相国寺門前東側に西郷の邸宅があったと言っています。個人的な見解を半永久的な石碑にそえていいものなのでしょうか。論考でも書いたとおり西郷は若手藩士や他藩浪士の面倒をみる立場だったので、いくつかの寓居があったと筆者は考えています。

さらに、西郷寓居だけではなく、毘沙門堂や相国寺大塔、湯川秀樹博士についてもふれてあります。これにも問題点があります。

相国寺大塔は応永10年に焼失した後は再建されなかったと書いてありますが、誤りです。4代将軍義持によってふたたびこの地に再建され、応仁の乱後に再び焼失して、以後再建されませんでした。しかも、その正確な場所も発掘調査された前例がなく詳細は不明なままです。

湯川秀樹氏にいたっては赤ん坊の時にわずか1年ほど滞在しただけの場所となっています。偉人が長年育った場所は、その人となりを理解する上で参考になることもあるでしょうが、赤ん坊の時にわずか1年ほど滞在しただけというのを史蹟として取り上げるのは如何なものでしょうか。

この石碑および解説板は、見る人に誤った知識と印象を与えるものとなっています。

まとめ

いろいろな目的で、いろいろな団体や個人が建碑というものを行いますが、中村氏は建碑の目的について「地元が土地の歴史に誇りを持ち、文化財保護の輪が広がること」(日本経済新聞 2019/1/26記事)とされています。しかし、そのためには真実の歴史が土台になければいけません。

小松帯刀寓居御花畑は2016年5月に室町鞍馬口森之木町に存在したことを確証した京都府行政文書が原田良子さんによって発見されました。この御花畑屋敷についても2008年に大河ドラマ「篤姫」にあわせて、堀川一条東入るの近衛家堀川邸内と想定して中村氏らは建碑しましたが、建碑直後1ヶ月ほどで誤りが判明しました。2017年3月に森之木町に建碑した御花畑屋敷の解説板にはそれを誤りとして撤去した旨が記されていますが、すぐに撤去されたわけではなく2015年になってからでした。(参考:京都市歴史資料館いしぶみデータベース内「小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡他」)この間、誤った情報のままこの碑は存在しつづけ、web上に多くの愛好家が多数取り上げる状態になっていました。いまだに残っている情報も多くあります。石碑や解説板をたてるのは論文や雑誌記事などよりも影響力が大きく、慎重であるべきことをこの事例は端的に教えています。

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幕末, 雑件

Posted by takahisa