屯所付近の通りの変遷

図⑤ 周辺図

図⑤ 周辺図(国土基盤地図より加筆作成)

今回、新選組屯所を考察して思ったのは幕末当時の地形が大幅に改変されていて、いろいろと混乱を呼んでいるという実感でした。

この辺りは堀川が完全に消滅しています。南下してきた堀川が西本願寺の前で東に張り出し、醒ヶ井通と平行して南下し、下魚之棚通で西に折れて元の南北筋にもどることは今となっては全然わかりません。

さて、醒ヶ井通は堀川通の拡幅で消滅したと言われますが、京都近代オーバレイ地図で確かめると、そんな一言では説明しきれません。

醒ヶ井通は五条通から西本願寺北端までは現堀川通の東端にあたり、西本願寺前で堀川にそっていた堀川通が消滅し、醒ヶ井通りが西本願寺前で東へ流路を変えた堀川通の西沿いの道(つまり、現堀川通の西端)として南下し、下魚之棚通で堀川とわかれてまっすぐ南下(ここで堀川通は堀川の西沿いの道として復活、ただし八条坊門小路まで)し、梅小路(古御旅)通に至ります。したがって、七条通以南、梅小路通までの堀川通は醒ヶ井通りが東に拡幅されたという方が正しいことになります。醒ヶ井通は梅小路まででしたので、拡幅された堀川通は東側の油小路通と合流し、梅小路通(現JR線北側)以南は油小路通とよばれることになるのです。幅広の堀川通がJRを超えると何故、油小路通とよばれるのかの所以です。

この辺りの東西通は北から七条通、下魚之棚通、木津屋橋通、塩小路通、梅小路通となっています。しかし、ややこしいのは平安京塩小路を踏襲しているのは現木津屋橋通で、平安京八条坊門小路を踏襲しているのが現塩小路通なことです。梅小路通は古御旅通という別名があります。

さらに、八条坊門小路は堀川で遮られて、堀川より以東は幕末当時存在していません。したがって、醒ヶ井通と八条坊門小路(現塩小路)の交差点は幕末当時にないことになります。

稗田利八の証言に屯所の位置として「七条を三町下がったところ」という表現があり、考察では距離として考えて合致するとしましたが、距離ではなく通りと通りの間を一町と考える立場もあります。七条通から下魚之棚通までを一町、次に木津屋橋通までを一町、さらに次の塩小路までを一町と考えて、御方紺屋町、北不動堂町あたりに合致するとの見解も見受けられますが、醒ヶ井通を下ってくれば、塩小路はないので、三丁目は木津屋橋と梅小路通(古御旅通)間となり、松明町も三丁目に含まれることになります。

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