薩長同盟成立プロセスの考察(1)田中光顕の回顧

山口在住の歴史研究家、山本栄一郎さんが現在、ご自身のブログで19年前に出版された『真説・薩長同盟』(文芸社 2001年)の全ページを順次公開されています。大村益次郎研究家 山本栄一郎のブログ
内容を読んで驚きました。「亀山社中」はまぼろしで小松帯刀の配下にすぎなかったこと。またその「創立」には坂本龍馬は関わっていない。薩長同盟時の木戸の上京は黒田了介の独断であったこと。坂本龍馬は薩摩系浪士として活動していたこと。など、最近「新説」として話題になっている結論を19年も前に主張されています。私の読むところ、勝手な想像ではなく史料にもとづいて論じられています。
また、「船中八策」の通説にも疑問を出され、知野文哉さんの『坂本龍馬の誕生:船中八策と坂崎紫瀾』(2013年)にも脚注参照書籍および参考文献として活用されています。
私にとっても学ぶことが多く、山本氏は木戸に同行した土佐浪士田中顕助(光顕)の回顧談を『史実参照・木戸松菊公逸話』(妻木忠太・昭和10年)から引用されて木戸上京事情について論じられています。その原典が国会図書館のオンラインデジタルで公開されていたので、私が注目する部分を引用し、若干のコメントをつけてみました。

田中光顕の回顧 大正7年5月7日 (『史実参照・木戸松菊公逸話』より)

私共は木戸公を護衛して上関に至り、船中で慶応二年春を迎へ、大阪に着くと、薩摩邸からか、船宿かは判然しないが、案内に来た。

●木戸一行は諸隊から品川弥二郎、三好軍太郎、早川渡、土佐浪士田中謙介、薩摩藩士黒田了介らで、彼らは木戸の護衛としての役割を帯びていた。木戸が公式の客であったなら、間違いなく薩摩藩邸からとわかる形で迎えられただろうが、そうではなかった。

そして、薩州の御座船で、淀を遡つて、小松帯刀が借りたる近衛家の別荘に入つたやうに思ふのである。

●京都に遡る船は薩摩藩の御座船であったという。木戸は、四日に大坂に着いて、八日の夜明け前に伏見についている。御座船というのは「畿内河川交通史研究」(日野照正 吉川弘文館 1986)によると客室などの居住設備をもった大型船である。一般人がチャーターできるものもあったが、各大名家は専用の御座船を所有していた。「薩州の御座船」とあるので、薩摩藩の船印を掲げた所有船だったと思われる。近衛家の別荘というのは「御花畑」のことである。おそらく21日の伏見からの下坂の時も同様な屋形船が用意されただろう。

大名御座船(「畿内河川交通史研究」口絵より)

御話の如く、木戸公は京都の薩州邸に数十日も滞留されて、薩藩士と時事の談議はしても、両藩の提携に関しては不言不語であった。ところが、坂本龍馬が来たつて、協定のことを促かした為め、遂に六ヶ條の盟約が成立したのである。が、之を今考ふるに、隆盛は一且約諾したら、徹底的にやるが、事に臨みて最初は容易に決しかぬる人であるから、独断を躊躇して攻守同盟を明言しなかつたと思はる。

●このあたりの記述は「自叙」と重なる。田中は西郷の最初の態度を「容易に決しかぬる人」に因をもとめる一方、約諾後の六箇条は攻守同盟であるという認識をしていた。

しかし、文久三年に長州藩は薩藩の汽船を砲撃し、元治元年蛤御門の変には、互に之と干戈を交へた。其の仇怨があるから、壮士の輦には、長州の諸隊と同じく議論もあったらふから、隆盛決断の苦慮は察知せらるゝのである。公が隆盛と薩長藩提携の盟約を議決せられた後、私も豊瑞丸に同乗して大阪から出帆した。其の船中で、奈良原繁が暴言を発したが、公は忿怒の顔色なく、従容としてをられたことも記憶して居る。

●薩摩藩内部にも「壮士の輩には、長州の諸隊と同じく議論もあったろう」と分裂が存在していたことを感じてる。その一例として奈良原繁の暴言をあげている。このような態度の奈良原が同席した1月18日の国事会談では、六箇条があらあらでも成立することはなかっただろう。田中はこの国事会談に出席していたわけではないが、奈良原の態度からそのことを感じたのだろう。

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