桂久武上京日記分析
ー鹿児島から長崎経由、京都までー

慶応元年乙丑十二月六日蒸気艦ヨリ鹿府前之躍を発、上京日記之事

十二月六日

一 四ツ過出宅、下濱在宿・暫時休足、送之人々多人数有之 爰ニて
重之物相披、別之一盃取かわし、無間も乗船、供之面々
役人之場、串木野衆同衆中、同衆中、東郷衆中、
武田清太郎  同与兵衛  肝付彦二 野間覚之丞
末吉衆中、 阿多衆中、身内
安楽球磨太郎 田島良太郎 崎山喜次郎
原良村、   楫宿   今泉之   原良村  大島之住人
下人  休太郎   八太郎  竹次郎   けさ助  杜喜則
右之者召列候
一 重富公子・宮之城公子も長崎江為見物出崎之命有之同船、岩下大
夫東下之命ニて同断、いちち(伊地知)壮之丞出崎ニ付、吉井幸輔も上京ニ
て、其他多人数同船一々不相記、八ツ過出帆、開聞嶽之裾ニて夜
入、阿久根之前辺ニて夜明、

十二月六日

一 午前10時過ぎに家を出た。下濱に宿をとってしばらく休息した。見送りの人々が多人数であった。ここで、重箱にはいった弁当をひらいて、別れの盃を交わした後、まもなく乗船した。供の者は、武田清太郎(役人之場)、同与兵衛(串木野衆同衆中)、肝付彦二(同衆中)、野間覚之丞(東郷衆中)、安楽球磨太郎(末吉衆中)、田島良太郎(阿多衆中)、崎山喜次郎(身内)、下人として休太郎(原良村)、八太郎(楫宿)、竹次郎(今泉之)、けさ助(原良村)、杜喜則(大島之住人)、以上のものを召し連れた。
一 重富公子(島津珍彦:久光四男)・宮之城公子(島津久治:久光二男)も長崎見学のために長崎行きの命があり、同乗した。岩下(万平)大夫は江戸行きの命で、同じく同乗、伊地知壮之丞は長崎行きで、吉井幸輔も上京するということで、その他多人数同乗したが、ここには記せない。昼すぎに出帆し、開聞嶽の裾で夜に入り、阿久根の前辺で夜明となった。

●岩下万平はこのあと久武とともに上京し、その後江戸へ向かう。伊地知は長崎にこのあと逗留し、久武は京都から手紙も送る。

丑十二月七日 曇天

一 長崎湊江八ツ時分着船、迎之人々迄も追々被参候事、
一 此晩田崎屋と申者之所江一宿、詰役御付人汾暢氏病気、見聞役野
村宗七・喜入嘉次郎・森清助其外村上等見舞、待請種々預候也、
深更ニ及候
一 書役猿渡勘兵衡・用達桂孫兵衛同宿也

丑十二月七日 曇天

一 長崎港に昼頃に着船した。迎えの人々がおいおいやって来た。
一 この晩は田崎屋という者の所で泊まった。詰役御付人の汾暢氏が病気で、見聞役の野村宗七・喜入嘉次郎・森清助その外、村上等がやってきた。ご招待に種々あずかり、深夜に及んだ。
一 書役の猿渡勘兵衡・用達の桂孫兵衛は同宿であった。

●この日に長崎に入港した。

乙丑十二月八日 曇天

一 六ツ時分寝覚、五ツ過岩下氏・吉井・仁礼・江夏・奈良原之人々
見舞、岩下氏其外同伴ニて両公子旅宿江御見舞申候也、夫より病
院見物ニ参、英人羅宇多(オルト)所江英コンシユル館江参候、夫より帰宿、
昼飯遣ひ候、御物御計ニて反物贈候事
一 八ツ半時分より岩下氏・いちゝ氏其外同伴ニて蘭ボウトエン所江
参、暫時咄共いたし暮ニ相成致帰り掛、御同処立寄、汾陽ニハ相
休居候ニ付、岩下氏江見舞、夜ニ入致帰宿候、此晩猿渡用達などゆ
るゆる相咄候央ニ、仁礼・江夏・奈良原同伴参候て是も暫時ニ
て参り、無間も夕飯相遣ひ俱々相休候事 御物御計ニて両人江反物贈候事

乙丑十二月八日 曇天

一 午前6時ごろに目覚めた。8時過ぎに岩下氏・吉井・仁礼・江夏・奈良原に会いに行き、岩下氏およびその外の人々同伴で両公子の旅宿に挨拶にいった。それから病院見物に行き、英人の羅宇多(オルト)の所と、英領事館に行った。それから帰宿し、昼飯を食べた。(英人らには)お計らいによって反物を贈った。
一 午後1時ごろから岩下氏・伊地知氏、その外と同伴してオランダ人のボードウィンのところへ行った。しばらく話をして、夕方になったので、帰りがけに同じ場所で(入院している)汾陽がいるというので、岩下氏が見舞いし、夜にはいって帰宿した。この晩は猿渡用達などとゆっくりとッ話をした、仁礼・江夏・奈良原も同伴してやってきてしばらく話し、まもなく夕飯を食べてそれぞれ休んだ。(英人オルトと蘭人ボードウィンに)お計らいの反物を贈った。

●オルトはイギリス人茶商で、現在グラバー園にあるオルト邸宅が保存されている。ボードウィンはオランダ軍医で、当時は幕府立の長崎養生所、医学所が合併した精得館の教官。外国人にはとりあえず、藩の経費で反物を贈り物としている。

十二月九日 曇天之事

一 六ツ時分寝覚、半過市来彦太郎見舞、
一 四ツ時分より猿渡・寝占武右衛門・(桂)孫兵衛召列、、御屋敷迄出掛候処、
岩下氏江中途二行逢同伴ニて両公子江御見舞、屋敷江参、医学諸
生其外通弁生之面々当年中一応引取、於御国元開成所試業被仰付
度、岩下氏申談、御附人江申渡置侯事、
一 林泉□江五十金、伊東仁兵衛江金子十五両、反物被下候様壮之丞(伊地知)
申談置候処、被成下候様取計候事、
一 御屋敷より一同同伴ニて英軍艦見物として参候、尤昨日英羅字多(オルト)
書状を貰請参候処、最早刻限相後れ、調練ハ相済候得共、船見物
いたし候、
軍艦ノ名号リーバルド、船将デキヘアトミラル ブロン
英人ネルソン名将一百戦之功アル人、五十年計前ノ人ノ由、船将より聞置也
一 軍艦より帰り掛ドック造建場所致見分くれ侯様承候付参候処、
通事岩瀬参居、致案内、相応之場所ニて取究置候事、夫より帰宿
候事、御物計ニて反物贈候事
一 八ッ後山田屋手伝召列、仏商人所江夷服取入方として参候、白之
下着三ツ赤ニ縞之中着弐ツ、上着并ニハツチ并ニ合羽取入、酢
漬サホン等其外種々取入候、尤猿渡并ニ孫兵衛召列、帰りニは諸
所致見物、反物屋等江参候事、
一 暮時分より英商ラルト(オルト)所江料理振舞度との事故、壮之丞同伴、猿
渡渡・寝占武右衛門・用達通事伊東仁兵衛・森清助・相良権兵衛召
列侯、尤亭主妻并妻之母も出、外ニ横浜より廻船之軍艦乗付之英
客人壱人有之候、亭主至極ニ丁寧、此末尚懇意可申との事ニてヒ
ドロ入レ京物贈候、妻手業之品とて婦くさ壱枚貰帰候事、尤差越
候付、御物御計ニて反物贈候、四ツ前後相成、段々馳走二て罷帰
候事、
一 此晩より寝占武右衛門参候事、

十二月九日 曇天之事

一 午前6時に目覚めた。半過ぎに市来彦太郎がやってきた。
一 午前10時頃から猿渡・寝占武右衛門・(桂)孫兵衛を召し連れて、御屋敷まで出かけたところ、岩下氏に途中であって、一緒に両公子に挨拶しに屋敷にいった。医学学生その外、通訳学生の面々は今年中に一応、引き上げて国元の開成所教授の見習いを仰せつけられるように、岩下氏が行ったので、御附人に申し渡しておいた。
一 林泉□へ五十金、伊東仁兵衛に金子十五両、反物を下されるように壮之丞(伊地知)に言っておいたところ、そのように取り計らいがされた。
一 御屋敷より一同同伴して英軍艦を見物しに行った。昨日にオルトの手紙を貰い受けて行ったところ、もはや時間におくれて、調練は済んでしまっていたが、船を見学した。軍艦の名はリーバルド号、船将はデキヘアトミラル=ブロン、英人のネルソンという名将が一百戦之功のある人で、50年ほど前の人であるということを、船長より聞いた。
一 軍艦から帰りがけにドックの建造場所を見分してくれということだったので見に行った。通訳の岩瀬がやってきて、案内し、それぞれの場所で深く説明を聞いた。それから帰宿した。
一 昼過ぎに山田屋の手伝を召し連れて、フランス商人の所へ洋服を買い入れるために行った。白の下着3つ、赤に縞がはいった中着を2つ、上着とハット、外套を買い入れた。酢漬のサホン等、その外種々買い入れた。猿渡と孫兵衛を召し列れて、帰りはいろいろな所を見物し、反物屋などにも行った。
一 暮時分より英商オルトの所へ料理をふるまいたいとのことで、伊地知壮之丞を同伴して、猿渡、寝占武右衛門、用達通事伊東仁兵衛、森清助、相良権兵衛を召し連れて行った。主人の妻と妻の母も出席し、その外に横浜からまわってきた軍艦に乗っていた。イギリス人の客人が一人いた。主人はとても丁寧に、以後、懇意にしていただきたいとのことで、ヒドロ入レ京物を贈り、妻の手作りの品というふくさ一枚をもらい帰った。藩計らいの反物を贈った。午後10時前後になって、よくよくご馳走になって帰った。
一 この晩から寝占武右衛門がやってきた。

●なんとトラファルガー海戦のネルソン提督の話を聞いています。当然、ナポレオンの話も聞いたんでしょう。ちなみにこの時期のフランスはナポレオン三世時代。ヒドロ入れ京物とは何かよくわからない。

十二月十日 曇晴

一 此朝岩下氏・吉井氏等見舞也、同伴喜入・森案内ニて写真取上野
某所江参候、
一 製鉄所総拝見、喜入・森案内ニて参候、寝占武右衛門召列候、帰
りニ汾陽并両公子江見舞、伊地知氏江同断、此晩亭主より餞別と
て酒肴等差出候 尤岩下氏江見舞候処奈良原氏江被参との事故
右江参候処取込之宿屋故早々帰候事
一 此晩仁礼・江夏・奈良原同伴ニて見舞、木藤も同断、ゆるゆる相
咄候事、
一 明日出帆之賦候処、横濱よりガラバ帰崎之由候間、一日滞留可然
との事岩下氏より被申遣候間、其通ニ相応ガラバ江鳥渡応接之賦
相約し有之候事、
一 成田江相頼、鉄炮取入方いたし今日参候間、相受取置候事、
一 昨日上着・龍子・袖飾出来候得共、尚又外二見立有之、山田屋手
伝召呼、又々仕直し方申付候事、

十二月十日 曇晴

一 この朝に岩下氏・吉井氏らがやってきた。一緒に喜入・森の案内で写真を撮りに上野某(彦馬)の所へいった。
一 製鉄所をすべて見学、喜入・森の案内でいった。寝占武右衛門を召し連れていった。帰りに汾陽と両公子に挨拶にいった。伊地知氏にも同様である。この晩は亭主より餞別として酒肴等を差し出された。
岩下氏のところにいくと奈良原氏の所に行っているとのこと、宿屋はとりこんでいるようだったので早々に帰った。
一 この晩は仁礼・江夏・奈良原が一緒にやってきた。木藤も来た。ゆっくりと話をした。
一 明日は出帆のつもりだったが、横濱からガラバ(グラバー)が長崎に帰ってくるというので、一日とどまることになったと岩下氏より連絡してきたので、そのとおりでいいと返事をした。グラバーと少し応接するつもりと約束した。
一 成田に頼んでいた鉄炮買い入れについて、今日来るというので受け取った。
一 昨日の上着・龍子・袖飾が出来ているということだが、なお他に見たいので、山田屋の手伝を呼んで、またまたやり直しを申しつけた。

●上野彦馬の写真館に行ってます。京都で総髪届を出して認められているから、あのちょんまげ姿の肖像写真はこの時に撮ったんでしょうね。ここで、グラバーが長崎に帰って来るというので情勢をさぐるためにグラバーとの会見がセットされた。

十二月十一日 晴

一 四ツ後岩下氏江参、夫より同所ニて奈良原同伴・出嶋辺見物、八
ツ過帰宿、
一 七ツ過より岩下氏江参、夫より明日出帆侯賦ニて両公子・汾陽其
外江暇乞、いぢ知江参、夫より同伴ガラハ所江請招二付、岩下氏・
いちち并ニ吉井・野村同伴、ガラバ別荘江参、コンシユル、ガチ
ル亭主振ニ参居、日本席并ニ料理ニて段々国事ニ火ヲ付、断判ニ
相及、四ツ過一同相伴いちゝ旅宿迄参、船手当等申付置候ニ付、
待合乗船いたし候、
一 柳川立花飛弾守様藩士便舟相願候付、差免候、
十時無事、花岡順二郎・武島謙三郎・梶山安次郎・小野一松等也、

十二月十一日 晴

一 午前10時過ぎ岩下氏のところへ行く。それから同所で奈良原と一緒になり出島あたりを見物し、午後2時ごろ帰宿した。
一 午後4時過ぎから岩下氏のところへ行き、それから明日出帆するつもりで両公子・汾陽其外のところへ暇乞いをしにいった。伊地知のところへ行き、それから同伴して、グラバーの所へ招かれたので、岩下氏・伊地知と吉井、野村と一緒にグラバー別荘に招待された。領事のガチルが亭主として居て、日本式の席と料理がでて、次第に国事論議に火がついて、談判に及んだ。午後10時過に一同一緒に旅宿まで行き、その後伊地知の旅宿までいって、船手当などを申しつけ置いて、待って乗船した。
一 柳川立花飛弾守様藩士が便乗を願ってきたので許した。十時無事(とときぶじ)、花岡順二郎・武島謙三郎・梶山安次郎・小野一松らである。

●上京後、国元へ出した久武の書状によるとこの日のグラバーとの会見での議題は、京都藩邸が幕府に兵庫開港の勅許を出すことを不可とする意見書を出したことで、西洋諸国が薩摩に疑念をもったことについての事情説明だった。グラバーはその疑念はすでに解決済みと安心させた。しかし、この際、新任の公使パークスが薩摩に訪問したいとの意向をもっていることが伝えられた。この訪問要請をめぐって国元では議論になったようで、上京した久武や、意見書を出した京都留守居役内田、さらに生麦事件の当事者奈良原へ用事が済んだら早く帰国せよとの国元からの督促となる。

同十二日

一 今暁出帆、四十五里計呼子湊江夕比着船、暫時滞舶陸上りいたし
風呂ニ入、唐津屋と申問屋ニて候、夫より焼物店江焼物見ニ参、
段々取人もの等いたし船江帰る、九ツ過出帆二相成、夜明小倉瀬
戸辺江参、夕姫路辺江通船、

同十二日

一 明け方に出帆した。四十五里ばかり航行して呼子港に夕方に着船した。しばらく停泊し、上陸した。風呂に入った。唐津屋という問屋である。それから焼物店に焼物を見に行き、いろいろと買い物をして、船に帰った。夜中12時過ぎに出帆となり、夜明けには小倉の瀬戸あたりを航行し、夕方には姫路(姫島付近)あたりを通過。

●姫路の意味がわからなかったが、高校日本史の図録みてわかりました。縄文時代の有名な黒曜石の産地である姫島だ。

同 十三白 曇雨

一 此日長門路通船、上之関江夜入四ツ過着帆、土州脱藩坂元龍馬江
此辺二て自然可出逢約諾有之由ニて中津権右衛門・木藤市助上陸
為致候処、近々此辺江参賦ニて人馬手当之事も申参居候得共、未
模様も不相分、下之関江桂小五郎滞在候間、彼之辺江参合候半歟
申、何も子細も不相分、空敷帰船之由也、

同 十三日 曇雨

一 この日は長門路を通り、上之関に夜に入って午後10時過ぎに着いた。土佐を脱藩した坂本龍馬にこのあたりで自然に出会おうという約束があるので、中津権右衛門と木藤市助を上陸させた。近々にこのあたりに来るつもりで、人馬の手当もしていたが、いまだ(龍馬の)様子も分からず、下之関に桂小五郎が滞在しているというので、そのあたりへいったのかもと言ったが、詳しいことは分からず、むなしく船に帰ってきたようだった。

●注目すべき記録である。龍馬や木戸の名前がでている。龍馬が木戸と薩摩藩重鎮との会談にむけて動いていることが前提として承知されている。この時点で、久武が龍馬が西郷と親しく、その意向を踏まえて動いていることは知っていただろうが、その内容をどこまで知っていたかはわからない。龍馬が上京するつもりであることはわかっていたであろうけれども。(2020/03/06一部削除、訂正)

同 十四日 曇雨

一 此朝上之関問屋参り、何でも御用有之候得ハ承度との事ニて、其
後役人と相見得候者、梅田治兵衛・林象平両人見舞、是も長地之
事情何も不相分、又々役所下役参、何用ニても承度との事ニ候、
就てハ当地断判之次第も粗承度申入候得ハ太田良蔵と申者当所役
人之由ニて参、咄候趣当分断判之次第も六部位ハ断判も出来候哉
承候得共、しかと不相分由、当分ニてハ国中人気死を決し、少も
動揺之形無之、常之様鎮居、少しも遺憾なしと申様成事情と相咄
候、拙者ニハ不出逢候、
一 四ツ時分出ニて夜入四ツ前、芸州御手洗江滞船也、

同 十四日 曇雨

一 この朝、上之関の問屋がやってきて、何でも御用があるときは承りますとのことだったので、その後役人と思われた梅田治兵衛・林象平両人がきた。それでも長州の地の事情は何も分からず、さらに役所の下役が来た、何用でも承りますとの事だった。ついては、当地の様子をどう考えるか、あらまし承りたいと申し入れたところ、太田良蔵と申す者、当所の役人ということでやってきて、話をし、内容としては(幕府との)交渉の状況も六分ぐらい進んだところだと聞いているが、しっかりとは分からないということだった。今は国中人々の気持ちは死を覚悟していて、少しも動揺は無く、いつもどおりに静まっている、少しも残念ということはないと申している事情だと話した。私はそのような人間には出会わなかった。
一 午前10時ごろにでて、夜に入って午後10時前に、芸州の御手洗に滞船した。

●この日、長州藩が直轄する上之関で久武はしきりに長州藩の動向を探ろうとしているが、ほとんど情報が得られなかったとしている。長州人は覚悟しているとの話は聞いたが、伝聞であり、実際にそのような人間には会わなかったと解釈したい。「断判」は、この時点ではまだ長州最終処分は決まっていないので、幕府との交渉だと考えました。

同 十五日 曇

一 夜明六ツ時分発帆、大筒小筒申辺二で御国風帆船二行逢、中濱萬
次郎昨日出帆之由ニて船江被参、暫時相咄、船江被帰候、此日雨
少し降出し夕時分坂向といふ辺江滞船、

同 十五日 曇

一 夜明午前6時ごろに出帆した。大筒小筒を備えた日本風の帆船に行き会った。中濱萬次郎が昨日出帆したということで、船にやって来て、少しの間話をして、船に帰った。この日は雨で、少し降出して夕方には坂向といふあたりに滞船した。

同 十六日 曇

一 夕部八ツ過出帆、隨分海上平安ニて八ツ過大坂川口江着船、通ひ
船より上陸、裏御門前御長屋江着、此晩詰役中より毎之通待付と
て酒肴被相贈、岩下氏ニも被参筈候処、他出之由ニて不被参候、
詰役御留守居木場伝内・御金方松永清右衛門・永山源兵衛被参、
永井清左衛門同断、鮫島次郎右衛門・高柳□□□・石神新五右衛
門参候、

同 十六日 曇

一 ゆうべは午前2時過ぎに出帆し、ずいぶんと会場はおだやかで、午後2時過ぎに大坂の川口に着船し、通ひ船で上陸した。(大坂屋敷の)裏御門前の長屋に到着し、この晩は詰役からいつものように酒肴を贈られた。岩下氏も来るはずだったが、他にでかけたというので、来なかった。詰役御留守居の木場伝内・御金方松永清右衛門・永山源兵衛がやってきて、永井清左衛門も同様、鮫島次郎右衛門・高柳□□□・石神新五右衛門も来た。

 

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