桂久武上京日記の分析
ー龍馬遭難と小松原調練場買収ー

※今回、黎明館HPからダウンロードできる、活字翻刻された村野守次『鹿児島県史料集 第26集 桂久武日記』中の「上京日記」を底本に利用して、全訳を試み、できたところから公開していた。それが終わった段階で、志學館大学人間関係学部『研究紀要』第39巻に有松しづよさんが、桂久武「上京日記」訳註稿を掲載されているのを知った。底本は東大史料編纂所が所蔵する島津家臨時編纂所が大正11年から12年にかけて謄写したもの(以下:謄写版)である。有松さんは今後、原本をみて訳注を完成させたいと記しておられる。この二つのテキストには異同がある部分があった。その異同部分を比較して、ようやく意味がとれたり、有松さんがつけた訳注によって深まった所もある。その部分を赤字で示していく。すでに公開した部分も、それによって訂正すべきと思ったところは同様にする。

正月廿三日 晴曇寒天雪少々降ル

一 毎之通寝覚也、四ッ後出動、誰も出動無之候、諏訪氏陽明殿参内、
小松家ニハ能見物之由也、御用も無之候付退出、勘兵術同伴ニて
二条通見物、夫より知恩院江参、夕暮時分帰宿也、此晩誰も来客
無之候間、書見共いたし候て、四ッ時分二相成相休候也、
此日三条通で、キヒシヨ取入、湯呑笑絵有もの取入候也、

正月廿三日 晴曇寒天雪少々降ル

一 いつものとおり目覚めた、10時頃に出動、誰も出勤していない。諏訪氏は陽明殿(近衞家)へ参内。小松家は能見物とのことである。御用もないので退勤した。勘兵衛を同伴して二条通を見物した。それから知恩院へ行き、夕暮れ時分に帰宿した。この晩は誰も来客がなかったので本を読んで、午後10時頃になったので、就寝した。
この日は三条通で急須(キビショ)を買い、湯飲みも笑絵のあるものを買った。

正月廿四日

一 毎之刻限寝覚也、四ツ後より出勤候賦ニて御屋敷江出懸侯処、吉
井江小松家立寄候様子故参候処、夕部於伏見坂元龍馬難二逢候由、
早速此方より三、四人遣候て少々手疵ニも逢候由二て木原盛雲も遣
候、今日ハ御用も無之候間吉井方より罷帰候也
一 退宿後徒居、此晩勘兵衛参候、昼より兼春処江滞宿之松といふ者
参候て鳥渡逢取候也

正月廿四日

一 いつものとおりに目覚める。10時過ぎから出勤するつもりで御屋敷へ行こうとしたところ、吉井のところに小松家が立ち寄っている様子なので、行ってみたところ、昨日の夜、伏見にいた坂本龍馬が難に逢ったという。早速こちらから三、四人を使わして、(龍馬が)少々手疵をおっているということなので、(医師の)木原盛雲も遣わした。今日は御用もないので、吉井のところから帰宿した。
一 退宿後なにもせず、この晩は勘兵衛がきた。昼から(伏見の)兼春のところに宿をとっていた松といふ者がやってきて、少し面会をした。

●23日夜に寺田屋へ帰った坂本龍馬は幕吏に追われ、命からがら三吉慎蔵とともに薩摩伏見藩邸に逃げ込んでいる。 久武は知らずに藩邸にいって、執務場所(御屋敷)に行こうとしたら、吉井幸輔の部屋(藩邸内の長屋であろう)に小松が出勤前に立ち寄っているのを久武は見かけたようだ。ここから、吉井は藩邸内の長屋に寄宿していることがわかる。久武はここで寺田屋の顛末を聞いたあと出勤せずに帰宿している。「(伏見の)兼春のところに滞宿している松」という人物については詳細不明である。

同 廿五日 晴天暖和

一 毎之刻限より寝覚也、此日キン笠山下江調練場御登被成度吟味も
有之候処、為見分可参申談、拙宿之やう小松氏・内田・吉井参候
間、同道ニて列立、行掛天満宮江参詣、夫より中路権右衛門所江
参候て、茶なと給へ、夫より右場所江権右衛門母案内ニて参候処、
権右衛門先江参居、見分相済候て酒など差出候間、ゆるゆる相咄
候て罷帰候也、此晩勘兵衛・孫兵衛も参候で、ゆるゆる相咄候也、
一 此日御国元より正月三日立之飛脚到着、宿許状其他年頭状数通、
市来六よりも一礼ニ預候也、

同 廿五日 晴天暖和

一 いつものとおり目覚めた。この日は衣笠山下に調練場を(殿が)上京された時に検討された所を見分するべしと相談して、私の宿舎に小松氏・内田・吉井がきた。同道して連れだって、行く途中で北野天満宮に参詣し、それから中路権右衛門のところにいって、茶などをもらい、それから、右の場所に権右衛門の母の案内で行ったところ、権右衛門は先にいてまっていた。見分が済んで酒などもでて、じっくりと話をして帰ってきた。この晩は勘兵衛・孫兵衛も来て、ゆっくり話した。
一 この日は御国元より正月三日にたった飛脚が到着した。自宅からの手紙、その他年頭の挨拶状が数通、市来六左衛門からの一礼をいただいた。

●「御登被成度吟味も有之候処」は「御登り成られるたび、吟味もこれ有り候ところ」とは久光が上京するたびに検討していたところという意味であろう。久光は在京薩摩藩の強化をずっと考えていた様である。中路権右衛門は等持院村に居住しており、母も同居している。尾張藩士と伝わるが、もともとは京都で活動していた尊王攘夷家で、尾張藩士の尊皇家尾崎行征と出会い、さらに尾崎が近衞家と親しく、その関係で島津家にも中路は出入りしていた様である。2月になって坂本龍馬が二本松藩邸に収容されたあと、中路も見舞いに訪れていることが三吉慎蔵の日記からわかる。その中路が久光上京の折に等持院村に近い小松原調練場を提案したようである。明治になっても高島六三とともに小松原調練場の管理にあたっていたようで、西南戦争時にも西郷擁護の立場で動く人物間の連絡役をしていた。

正月廿六日 曇天

一 毎之刻限寝覚也、四ツ自分より出勤、小松家・諏訪家・西郷・吉
井も出勤、衣笠山下調練場御取入方之儀申談致決着、吉井江申渡、
吉井より中路権右衛門江申付賦候、出勤掛諏訪氏立寄候也、御殿
後昼飯相仕舞次第官兵衛・孫兵衛同道ニて三条辺江取入物ニ参候、
縄手通しゆるこ屋江立寄候、四条小橋袋物屋ニて相休、相頼置陣
胴乱出来、持帰候也、
一 此晩誰も来客無之、淋敷相過候也、

正月廿六日 曇天

一 いつもの通り目覚めた。10時頃から出勤。小松家、諏訪家、西郷、吉井も出勤。衣笠山下の調練場を買収することについて相談し、決着して、吉井へ申し渡した。吉井から中路権右衛門に連絡をつけることになった。出勤の時に諏訪氏に立ち寄っている。御殿での会議後、昼食をいっしょにとってすぐに、官兵衛、孫兵衛を同道して三条あたりに買い物に出かけた。縄手通りのしるこ屋に立ち寄って、四条小橋の袋物屋で休み、頼んでいた陣胴乱も出来ていたので、持ち帰った。
一 この晩は来客がなく、淋しく過ごした。

●この日に衣笠山下調練場(小松原調練場)の買収が決定し、吉井幸輔から中路へ伝達されることが決定した。「昼飯相仕舞」はその直前に諏訪氏と名前を出している諏訪甚六といっしょに昼食をとり、その後連れだって三条、四条へ出かけていると考える。20日の大久保と宿舎で一緒に昼食を食べた時と同様の表現である。文中、注目されるのは諏訪家、諏訪氏とかき分けているところである。調練場についての会議は公的な会議で、その出席は家老の資格でおこなっているので諏訪家、あとの諏訪氏は午後から連れ立って買い物にでかける相手としてなので諏訪氏と表現しているように思える。

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