桂久武上京日記の分析
ー薩長同盟締結直前の薩摩藩邸事情ー

桂久武上京日記は、慶応二年の一月、木戸の上京から帰国までの間を含む前後の藩邸事情を家老桂久武が記した一次史料である。しかし、薩長同盟の内容やその決定過程についての具体的な記述は一切なく、薩長同盟決定過程についての決定的な史料にはなり得なかった。しかし、筆者は先にこのブログにあげた鳥取藩史料「京坂書通写」の内容に照らして坂本龍馬がこの盟約に果たした決定的な役割を確信するにいたった。そして、あらためて上京日記を分析してみると、その紙背からいろいろな動向を読み取れることを実感し、すでに「慶応期西郷隆盛寓居の検討から『薩長同盟論』にいたる」(『霊山歴史館紀要』24号 2019)として公表した。今回は、木戸上京から十八日の国事会談までの上京日記の読み込みを公表しておきたい。結果、①西郷が久武に桂からの贈答品を持参した意味、②木戸一行が一旦は西郷邸に入り、数日ののち御花畑に移った意味、③藩邸内の人物の動きから、藩邸内には木戸上京を受け入れない空気があったこと、④それらを小松が抑えて十八日の正式会談が開かれたことなどが見えてきた。筆者は、幕末薩摩藩の人物については、最低限のことしか知らない。しかし、このことが幸いとなって久武の筆致に沿って考えていくことができたと思う。 以下、最初に原文(『鹿児島県史料集』第二十六集「桂久武日記」より)を掲げ、次に試訳、●以下青枠で囲んだものが若干の考察コメントである。

正月八日 朝立曇夕より雨此晩頻ニ降ル

一 毎之通寝覚、毎刻之通出勤、此日諏訪家出勤也、小松家狩立之由 也、此日黒田了助長より帰り、木戸某同伴、伏見迄参候由二て西 郷江参呉候様申来、只今より参るとて御屋敷ニて行逢候て別れ 候、此晩諏訪氏江ゆるゆる咄二参候様承候、尤海江田・奈良原・ 谷村江申来候との事故参候処、奈良原・谷村二ハ不参、吉井鳥渡 参候、海江田ニハ参候也、及深更帰宿也.

正月八日 朝に雨が降り曇り、雨がこの晩にしきりに降った

一 いつものとおり目覚める、いつもの時間に出勤、この日は諏訪家(島津伊勢)出勤である。小松家は狩立(馬での遠乗りか)とのことである。この日黒田良介が長州から帰り、木戸某を同伴して伏見まで来ているので西郷に迎えにきてくれるように伝えてきた。今から行くと言う(西郷に)屋敷で出会って別れた。この晩諏訪氏のところへじっくり話をしに行くことを承知した。海江田、奈良原、谷村も来るということだったので、行ったところ、奈良原、谷村は来ず、吉井はちょっとだけ来て、海江田は来た、夜更けに帰宿した。

●木戸が上京した正月八日である。黒田良介(清隆)からの要請に応えて西郷が急に出かける様子に久武は出会っている。このあと諏訪甚六(島津伊勢)から、夜間の相談をもちかけられ承諾した。木戸上京にをどのように対応すべきか協議するためであろう。海江田(信義)、奈良原(幸五郎)、谷村(愛之助)もくる予定になっていたが、結局、奈良原、谷村は来ず、海江田だけがきた。吉井は何かを確認するかのように短時間来訪している。この動きから、久武も含めて、諏訪、海江田、奈良原、谷村にとって木戸上京は予期せぬ出来事であったことがうかがえる。この日は小松帯刀は狩立で不在。狩立には馬を走らせるという意味もあるので、小松は乗馬が得意だったと伝わるので、馬で遠乗りしていたのではないだろうか。小松はこの日、木戸が上京することを知らなかったらしい。

正月九日 曇天

一 六ツ半過寝覚、四ツ後より猿渡同道二て三条寺町、四条通取入物 二参侯て、夫より二条鱣屋明かふ屋江参候処、鱣切れこニて無之由 申候間、右之隣江下り候付参候也、此晩有七・堀剛・中村源吾江 致約束置候間、ゆるゆる参候て深更迄相咄候、中村より禁中召上 被成候御茶碗頂戴為致候也、

正月九日 曇天

一 午前7時頃目覚める 午前10時過ぎから猿渡を同道して三条寺町、四条通り買い物にでかけた。そこから二条の鯉屋の明かふ屋へいったところ、鯉が品切れでなかったので、右隣を下がったところにいった。この晩は有馬七之助、堀剛太郎、中村源吾に約束をしていたので、ゆっくりと行って遅くまで話をした。中村から禁中が召し上げ成される御茶碗を受け取るためである。

正月十日 朝立雨昼過より少々晴天

ー 朝早天寝覚、今日ハ宮様・近衛様江参殿候賦也、初尹宮様江参殿 御目見後、又々被召出、御伝言申上ル、又々参候様致承知候、御 酒并二御飯被成下候、夫より桜木前様等江参殿、御目見被仰付、 御手のし被下候て其侭御意等有之、御伝言申上候、御菓子被下候、 常陸之宮様江参殿御目見、御手のし被下、其侭御伝言申上ル、近 衞様江参殿御目見御手のし被下、又々御小座江被召、御意御伝言 等申上ル、夫より御酒頂戴被仰付候、御裏御殿江罷御目見御手の し被下候て御次ニて御菓子被成下候、御伝言之儀ハ藤井宮内を以 申上置候、夕時分帰宿也、

正月十日 朝立の雨、昼過ぎから少々晴天

一 朝早く目覚める。今日は宮様・近衛様のもとへ参殿するつもりである。はじめは尹宮様(中川宮)のもとへ参った。お目見得したあと、重ねて召し出され、(島津公からの)ご伝言を申し上げた。重ねて参ることを承知した。お酒とご飯をご用意下さった。それから、桜木前様(近衞忠煕)等に参殿した。お目見得を仰せつけられ、御手熨斗を下されて、そのまま御意をうかがった。ご伝言を申し上げた。お菓子いただいた。常陸宮様に参殿しお目見得、御手熨斗を下され、そのままご伝言を申し上げた。近衛様(近衞忠房)へ参殿し、お目見得、御手熨斗を下され、重ねて小座敷に呼ばれ、御意およびご伝言を申し上げた。それからお酒を頂戴することを仰せつけられた。御裏御殿(忠房室:島津貞姫)へお許しをいただいて、お目見得し、御手熨斗を下され、お次の間にてお菓子を下された、ご伝言のことは藤井宮内に申し上げ置いた。夕時分に帰宿した。

●この日は久武の上京任務の一つであった、薩摩大守よりの伝言を中川宮、近衛忠煕、近衞忠房に伝えに行く大事な日であった。中川宮からはもう一度来るように念を押され、忠房の許しを得て、忠房室の島津光子にも面会している。今回の久武の上京時の立場は大守の代理人としての重みをもつものであったことがわかる。

正月十一日 曇晴

一 此日少々草臥不快ニ有之候付、出勤も不致引入候也、此晩猿渡并 孫兵衛も出候てゆるゆる相咄候、
一 此朝黒田了助参候で長之事情等ゆるゆる相咄候也、

正月十一日 曇晴

一 この日は少々くたびれて不快なので、出勤もせず引きこもった。この晩は猿渡ならびに孫兵衛もでてきてゆっくりと話した。
一 この朝、黒田了助がやってきて長州の事情などをじっくり話した。

●黒田良介は非公式に久武に実際に見分してきた長州の情勢や木戸上京の事情説明に久武のもとを尋ねてきている。木戸上京について久武に理解して欲しい西郷の意向が働いているのだろう。

正月十二日 曇晴雪少々降ル也

一 毎之通寝党也、此日休日故出殿不致候、四ッ後帯刀殿・西郷同伴 ニて見舞也、長の木戸某より箱入付鍔大小御贈侯由ニて西郷氏持 参也、
一 八ッ後 紫震殿御法会之由、此日殿上拝見出来候由ニて与力梶川 某といふ者江中村源吾より都合相頼置候由ニて諸所案内ニて能く 拝見いたし候、有川七之助・猿渡勘兵衛・鎌田孝右衛門・堀直太 郎・中村源吾・桂孫兵術も召列候、尤日野御門より参候、御門涯 江兼て相詰居候者之由、本錦御屋敷御立入いたし者之由ニて右之 者諸宅ニて相招、以都合 紫震殿之方江被参候也、
一 此晩誰も無之、至て淋敷候也、
一 紫震殿御庭砂致頂戴候、御備之御供も頂戴也、

正月十二日 曇晴雪少々降る

一 いつものとおりに目覚めた。この日は休日だったので出殿せず。9時過ぎに帯刀殿が西郷同伴でやってきた。長州の木戸某より箱入りの大小セットの鐔を贈るということで、西郷氏が持参した。
一 午後1時すぎ、紫宸殿御法会ということだ、この日殿上を拝見できるというので、与力の梶川某という者へ、中村源吾から都合を頼んでいたということで、諸所に案内してもらってよく拝見した。有川七之助・猿渡官兵衛・鎌田孝右衛門・堀直太郎・中村源吾・桂孫兵衛も召し連れていた。日野御門より入り、御門までにかねて詰めていた者で、元の錦の藩邸に出入りしていた者であるので、この者の諸宅にで相招いて、都合をみながら、紫宸殿の方へ参らせていただいた。
一 この晩は誰もこず、淋しかった
一 紫宸殿御庭の砂を頂戴した、控えていたお供も頂戴した

●小松帯刀と西郷が、午前中に木戸からの高級な贈答品をもってやってきた。木戸からの贈答品は西郷が持参したと書かれている。ということは木戸らはこの時点では西郷邸に逗留しており、小松もまだ会ってない状況だったのではないだろうか。久武がこの贈答品を受け取れば木戸らを賓客として扱ったことになる。小松はその決断をした上で、贈答品を運ぶ西郷と同道してきたのだろう。こうして、木戸ら一行は薩摩藩の賓客として小松寓居御花畑へはいった。おそらく、この日か翌日中に木戸は御花畑に移動したのだろう。後年、中原邦平が聞き取った有名な品川弥二郎述懐談では相国寺近くの西郷邸で3、4日滞在したとある。十二日移動なら八日から十二日まで中三日を数え、翌日なら中4日で、日数はおおよそ合致する。※なお、贈答品の鐔は現在でも美術工芸品として桐箱入りのものが愛好されている。こんな風に完全な美術品です→静嘉堂文庫美術館WEBサイトにジャンプ

正月十三日 曇天

一 毎之通寝覚、四ッ時分より勘兵衛・孫兵衛召列、上賀茂江参詣、 茶屋江立寄昼飯給へ、夫より下賀茂江も致参詣、帰りに寺町通よ り三条通致見物帰宿也、此晩ハ誰も無之候、

正月十三日 曇天

一 いつものとおり目覚めた。10時頃から勘兵衛・孫兵衛をつれて、上賀茂神社に参詣した。茶屋に立ち寄って昼飯を食べ、それから下賀茂神社へも参詣した。帰りに寺町通りから三条通りを見物し、宿舎へ帰った。この晩は誰もこなかった。

正月十四日 雨天

一 毎之通寝覚、四ッ時分より小松家江参、ゆるゆる相咄、木戸某江 初て逢ひ致挨拶候、夫より帰りニ御屋敷江参、出殿いたし候処、最 早退出後ニ相成、諏訪家江参、暫時相咄、夫より西郷氏江参る、 黒田嘉右衛門帰候由ニて参居候間、暫時相咄間、夫より帰宿、七 ッ過諏訪氏見舞、海江田・奈良原ニも同断、暫時ニて皆被帰候、 此晩誰も来家無之、孫兵衛出候てゆるゆる相咄候也、

正月十四日 雨天

一 いつもの通りに目覚める。10時ごろから小松家へ行った。じっくり話をし、木戸某に初めて会って挨拶をした。それから帰りに二本松藩邸にいって出殿したところ、はやくも全員退勤していた。諏訪家へ行って少し話をした。それから西郷氏のところにいった。黒田嘉右衛門は帰ってきていたので、すこし話をした。それから宿舎へかえった。午後5時過ぎに諏訪氏がやってきて、海江田・奈良原もやってきた。少しの時間でみんな帰った。この晩は誰も来ず、孫兵衛がやってきてゆっくりと話をした。

●御花畑にはいったことで木戸は薩摩藩の賓客となり、久武が贈答品の礼を伝えるためにも挨拶に出向くことになったと思われる。贈答品のやりとりは重要な手続きだったのである。 八日のところで述べたように、藩邸人物の動きは木戸を賓客として迎え入れるかどうかで意見の違いがあったことを示唆している。久武が挨拶に出向いて最終的にこの問題は決着をみ、十八日の薩長間の正式会談へと続く。 久武は木戸に会ったあと、諏訪・西郷・黒田嘉右衛門に会って話をしている。この時以後は、久武は宴会や京見物に日時を費やしており、木戸との会談内容をつめる立場に立つべきではないと思っているかのようである。 ところが、帰宿した久武を諏訪が訪問し、間を置かず海江田、奈良原も来た。木戸との会談の首尾を海江田、奈良原は確認したかったのだろう。彼らはおそらく木戸らを賓客扱いするのには反対で、まず諏訪の所にいって彼らは談判したのだろうが、埒があかなかった。諏訪は彼らの動きを心配して久武のもとを急遽訪問したところ、案の定、海老原、奈良原がやってきたというわけである。諏訪がさっき会ったはずの久武を急遽訪問した事実と、海老原、奈良原が同行していた事実からの憶測ではあるが、解釈としては成り立つと思う。久武は正式な賓客となり贈答品を贈られた身としては挨拶に行かざるをえず、それ以上については小松の決断であり、自分は答える立場にないとして早々に追い返したと思われる。「暫時」という言葉にそれがにじみ出ているように思う。

正月十五日 曇晴

一 毎之刻限寝覚、此日出殿不致、四ッ時分より会々堂江天気御伺動 首尾好相済候祝之心持こそ相招候、小松家・諏訪家・西郷氏・大 久保氏・内田氏・海江田・奈良原・用達鎌田十郎太・柳田正太郎 参候也、吉井・谷村ニも申入候得共不参、暮時分帰り掛岩下氏召 仕候者所江立寄、暫時相咄、帰り掛三粂通金物屋江立寄、茶共給 候也、夫より帰りニ猿渡旅宿江ゆるゆる深更迄相咄候、
一 此日得能良介より菓子一箱、此節昇進二付為御礼預候也、
一 此日兵庫赤豆屋助右衛門年頭ニ付見舞也、

正月十五日 曇晴

一 いつものとおり目覚める。この日は出殿せず、10時頃から(丸山の料亭)会々堂で天気伺の勤め首尾よく済んだのを祝って招いた。小松家、諏訪家、西郷氏、大久保氏、内田氏、海江田、奈良原、用達の鎌田十郎太、柳章太郎が来た。吉井、谷村も招いたが来なかった。暮れ時分の帰りがけに岩下氏に仕えている者の所へ立ち寄り、少し話をした。帰りがけに三条通りの金物屋に立ち寄って、茶などをもらった。それから帰って猿渡の旅宿でゆっくりと夜遅くまで話した。
一 この日得能良介より菓子一箱、今回、昇進したということで御礼を預かった
一 この日兵庫赤豆屋助右衛門が年頭なのでやってきた。

●この日は以前から予定されていた、天機伺いに関しての慰労会を料亭で開いている。吉村、谷村がこなかったのはなぜだろうか。十七日にも出席メンバーを変えて天機伺いの慰労会を催している。

正月十六日 晴天

一 朝毎之通寝覚也、今日ハ誰も出勤無之由候間、四ツ過より猿渡同 道ニて五条辺見物して参候也、暮時分帰宿也、暮過より猿渡参、 孫兵衛とも参候てゆるゆる相咄候也、
一 此朝八田喜左衛門見舞也、一昨日菓子一箱見舞とて到来いたし候也
一 此日江戸飛脚到着也、岩ド氏書状到来、当月三日到府之由候也。

正月十六日 晴天

一 朝いつものとおり目覚めた 今日は誰も出勤がないとのこと。10時過ぎより猿渡を同道して五条あたりを見物してきた 暮れ時分宿舎に帰った。暮れすぎに猿渡が来て
一 この朝八田喜左衛門がきた。一昨日菓子一箱を見舞いとしてきた。
一 この日江戸から飛脚が到着した。岩下氏の書状が届いた。当月三日に江戸に到着したそうだ。

●この日は、藩邸に誰も出勤しないとの情報が記されている。賓客として迎えた木戸との話し合いをどのようにすすめるかの動きが、さまざまな立場、場所で活溌に行われていて、通常の勤務状況にはいたらないことが明らかであったのだろう。久武はそのような動きからは一歩離れた立場で京見物にでかけている。しかし、その胸中はいかばかりであったであろう。 この日、いっしょに鹿児島を出発した岩下万平から江戸に正月三日に到着したとの書状が届いたことが記録されている。 岩下の江戸行きは外国公使と会談するためで、前年の九月に京都にいた岩下と京都留守居役内田仲之助が連名で、兵庫開港を不可とする建白書を朝廷に提出したことに対する弁解が目的であった。今回の上京途上、久武と岩下は長崎でグラバーと会談し、建白書の意図を説明して了解をもらっており、岩下はこの時の内容で横浜の各国公使たちに弁解することをあらかじめ久武と打ち合わせていただけにその首尾は気にかかることであっただろう。 この長崎でのグラバーとの会談ででた英国公使パークスの鹿児島訪問希望を久武は十二月二十六日付けの久光側近の島津求馬、簑田伝兵衛宛の手紙に書いた。この訪問を抗議のためと受け取った藩庁は急遽二十九日付けで京都藩邸に久武および内田、奈良原の帰国命令を発した。奈良原は生麦事件の当事者であることが理由だろうと、芳即正氏は推測しているが、筆者もそのように考える。この手紙は十六日の夕刻に京都藩邸に飛脚便によってもたらされたことが十七日の日記からわかる。帰国命令についての考察は芳即正『坂本龍馬と薩長同盟』(高城書房 1992年)を参考にしたことを明記しておく。

正月十七日 曇天

一 毎之通剋限寝覚也、此朝鎌田孝右衛門参、夕刻御国元より十二月 廿九急飛脚到着之由ニて問合致持参候、我々共早目ニ罷下り候 様との事ニ候、内田仲之助ニも此度英夷より申出候諏二付、響合 方も有之候付、罷下候様との事、奈良原幸五郎江御用済罷下候様 被仰付候由也、
一 此朝四ッ早目より出勤いたし御用向申談候事、
一 九ッ時分退出より会々堂江書役・御軍賦・御軍役方・御用部屋書 役相招侯、猿渡勘兵衛・有川七之助・鎌田孝右衝門・堀直太郎・ 堀剛十郎・御軍賦役黒田嘉右衝門・種子島城左衛門・書役野村仲 左衝門・市来彦太郎・御用部屋得野良介・竹下猪之丞参候て、暮 ニ相成帰宅、此晩猿渡勘兵衛・孫兵衛参候てゆるゆる相咄侯、

正月十七日 曇天

一 いつもの刻限に目覚めた。この朝、鎌田孝右衛門がきた。(前日)夕刻に御国元より十二月二十九日発の急な飛脚が到着し、その内容を持参してきた。我々に早めに国元に帰ってこいとの内容である。内田仲之助はこの度はイギリスから申し出の内容(公使の鹿児島訪問希望)について、よくわかることもあるだろうから帰ってくるようにとの事、奈良原幸五郎へは御用が済んだら帰ってくるように仰せつけられたと言うことだ。
一 この朝10時早めより出勤し、御用向きを話しあった。
一 12時頃に退勤して、会々堂へ書役、御軍賦・御軍役方・御用部屋書を招いた。猿渡勘兵衛・有川七之助・鎌田孝右衝門・堀直太郎・堀剛十郎・御軍賦役黒田嘉右衝門・種子島城左衛門・書役野村仲左衝門・市来彦太郎・御用部屋得野良介・竹下猪之丞らが来て、夕方には帰宅した。この晩猿渡官兵衛、孫兵衛が来てゆっくりと話をした。

●この日の朝に前日の夕刻に国元から届いた飛脚便の内容が前述の様に知らされたあと、久武は出勤し「御用向」を話しあっている。誰とどのような内容を打ち合わせたのかわからない。簡潔な表現だけに、日記にはかけない重要な案件ではなかったか。国元からの帰国命令にどのように対処するか、翌日に設定されている会談をどのようにはこぶかなどが打ち合わせされたのではないだろうか。

同十八日 曇

一 毎之通寝覚也、此日出勤不致、八ッ時分ょり小松家江、此日長の 木戸江ゆるゆる取会度申入置候付、参侯様にとの事故參侯処、 皆々大かね時分被参侯、伊勢殿・西郷・大久保・吉井・奈良原 也、深更迄相咄、国事段々咄合候事、

同十八日 曇

一 いつもの通り目覚めた。この日は出勤せず。午後二時ごろから小松家へいった。この日長州の木戸とじっくり話し会いたいと申し入れたので来るようにとのことだったので、行った。皆々は午後5時頃にやってきた。(島津)伊勢殿・西郷・大久保・吉井・奈良原である。夜遅くまで話をし、国事についていろいろと話しあった。

●この日ついに、木戸と在京薩摩藩重役との正式会談が行われた。薩摩藩からは会場となった御花畑の主の小松、久武、諏訪(島津伊勢)の三家老、西郷・大久保・吉井・奈良原の合計7名、相手は木戸一人であった。薩摩側ではまず、木戸を賓客として受け入れるかどうかという所から揉めていたのである。また、久光の「御趣意」が久武によって伝えられたばかりの状況にあっては長州との提携そのものさえ俄には藩邸全体の合意にはなり得なかったのである。 結果、この会談の内容は青山忠正氏が明らかにされたように、薩摩藩は木戸に処分の受け入れを勧めつつ、長州藩の名誉回復に薩摩藩は全面協力するという線となったと思われる。そして、薩摩藩は幕長戦争の経過がどのような道をたどろうとも、その汚名を雪ぐことに尽力することに変わりはないと述べるにとどまらざるを得なかったであろう。のちに成立する六箇条の最初の四箇条の内容がせいぜいの合意事項だったと思われる。しかも、それは文書にはしたためられない。しかし、木戸が本当に欲しかったのは、文書およびさらに踏み込んだ第五条にあった。この時の会談ではそれは得られなかった。 木戸はこの結果に絶望し、ついに帰郷を決意したのである。

正月十九日 雨天

一 毎之通寝覚也、四ツ時分より 朝廷紫震殿舞楽御催候二付、為拝 見参内いたし候、今日ハ鶴之御包丁之御式も拝見出来候賦之処、 雨犬故別御殿ニて有之、今日ハ拝見不出来候由也、舞楽迄拝見い たし候、中村源五・種子島城左衛門・堀直太郎・堀剛十郎也、弁 当等仕出屋より取寄、皆々打寄候、白川家江相頼候て梶川文吾 と申御所付与力世話也、右より菓子一箱被相贈候間、相披候事、 白川家江四百疋、梶川江弐百疋、其外両人世話いたし候者江百疋 づつ遣候也、
一 此晩同伴人数私宿江列参候てゆるゆる深更迄相咄候也.
          舞楽番組
     振鉾壱人 左方前和楽四人 散手壱人 一皷手弐人 大平楽四人
     耳州四人 喜春楽四人 陸王壱人 退出出長慶子 振鉾壱人
   右方仁和楽四人 貴徳壱人 蘇利古四人 新靺鞨四人 林歌四人
   白濱四人 童舞納曽利壱人 退出長慶子 

正月十九日 雨天

一 いつもの通り目覚めた。10時ごろから、朝廷の紫宸殿で舞楽が催されるので、拝見するために参内した。京は「鶴包丁の儀式」(なんと鶴を調理してたべた)も拝見するつもりであったが、大雨だったので、別殿で行われたので、今日は拝見できないということである。舞楽まで拝見した。中村源五・種子島城左衛門・堀直太郎・堀剛十郎も一緒である。弁当などを仕出屋より取り寄せて、皆々そろった。白川家に頼んで梶川文吾という御所付与力の世話になった。彼に菓子一箱を贈られたので披けた。白川家には400匹(金4分相当)、梶川へは200匹、その他両人の世話をしていた者たちに100匹を渡した。
一 この晩は一緒にいった人々と私の宿舎にいって、ゆっくりと夜更けまで話をした。
   舞楽の番組(以下略)
 

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